始まりの予兆
「……、おまえはホグワーツに残れ」
そう告げられたのは、荷造りの終了を報告した時だった。は自分の耳を疑い、綺麗に片付けられた部屋の中央に立つ主人を見つめた。時を告げる単調な音がいやに耳につく。
これまで主の命令は絶対だった。そしては今まで彼の命令に逆らったことはない。しかし、告げられた命令は彼との離別を示す。この身体に命を吹き込まれてからずっと付き従ってきた主と離れることが想像できず、は素直に頷くことができないでいた。
すると目の前に佇んだ主人は小さく溜息をつき、の左肩に手を置いた。深紅の瞳が貫くようにを見つめている。
「おまえにはホグワーツの守護者と言う役割がある。わたしがホグワーツを去っても此処は存続するが、お前たち四人の誰か一人でもいなくなれば、ホグワーツはいとも容易く崩壊するだろう」
「……ですが……」
「……。わたしはゴドリックたちとは不和になった。けれど、わたしとて創設者の一人。ホグワーツの消滅を願っているわけではない。ただ少し、ゴドリックの考えは夢物語だと言いたいだけなのだ。あいつは夢見がちなところがあるからな。時が来れば、あいつの理想も現実となるかもしれない。けれどその時期は今ではない」
視線を外し、の肩越しに遠くを見つめる主人の瞳には、どこか物悲しい色が浮かんでいる。はうつむくと主人のローブを軽く握った。たとえ自分がホグワーツを守護するために創られた存在だとしても、主人と離れることを思うと胸が締め付けられる。
「ですが、あなたのいないホグワーツなど、僕には何の意味もない……」
「おまえには、あいつの夢が実現するようホグワーツを見守り導いてほしい。今はわたしが此処を離れることがそのための第一歩なのだ。おまえは、わたしの代わりにあいつの夢を手助けしてほしい」
もう一度自分に向けられた視線には、強い意志が込められていた。
主人の決意は固い。たとえ自分がこの場で駄々をこねたところで、彼は自分を置いてこの場を去るだろう。今まで慕ってきた主人との別れを受け入れることは簡単ではないが、彼が自分に託した秘めたる思いを受け入れないわけにはいかなかった。
は黙って静かにうなずくと、握っていた手を離し、主人を見つめ返した。
「……そんな顔をするな。おまえにはわたしの血が流れているんだ。わたしや私の血を受け継ぐものに何かが起こればすぐに感じ取ることができるはずだ」
白くしなやかな指がの輪郭をなぞる。もう片方の手がの背中に回された。主人に優しく抱き寄せられたは、その温もりに全てを預けて目を瞑った。
ホグワーツの守護者としてロウェナ・レイブンクローによって創造され、主人によって命を吹き込まれたには、主の命令に逆らうという選択肢は存在しない。けれど、人と極めて近しく創造されたために、頭の中では理解している事柄を感情が否定する。
離れていても感じ取ることは出来る。そう告げられても、彼と離れることに抵抗を感じている自分がいる。今は自分の中に生まれる葛藤が煩わしくて仕方がなかった。
「……また、逢おう」
すっ、と主人の体が自分から離れた。目を開けると、悲しい笑みを浮かべた主人が音にならない呪文を唱えていた。ほんの一瞬、部屋の中の魔力が濃くなる。名前を呼ぼうと唇を動かした時にはもう主人の姿はどこにもなかった。
「サラザール・スリザリン……」
部屋の中にはただ主の名を呼ぶ自分の声だけがむなしく響き渡っていた。
深夜二時。
はしんと静まり返った部屋の中でうめき声を上げながら目を覚ました。
荒い息を吐きながら飛び起きたの体はべっとりとした嫌な汗で濡れていた。左腕には鈍い痛みが走っている。
嫌な夢を見た……記憶の片隅に封印していた遥か昔の出来事を彷彿させる夢に激しい頭痛を覚え、とにかく落ち着こうと部屋の明かりを灯した。
こういう時は、一人部屋を与えられ、ルームメイトに気を使うことなく、部屋の中を自由に使える自分の立場に感謝する。
汗ばむ額に手を当てると、呼吸を落ち着けるために深く息を吸った。時刻を確認しようとサイドテーブルに置かれた時計に視線を移す。しんと静まり返った部屋の中に時を刻む単調な音が響いている。
それにしても何故、あんな夢を見たのか……深呼吸を続けることで幾分か冷静さを取り戻した頭には、小さな不安が浮かび上がっていた。左腕に走る鈍痛が、その不安がおそらく現実として的中しているであろうことを物語っている。
まさか、そんなはずは……けれど、この痛みは……
不安を口にしてしまうことが怖くて、は口元を手で覆った。うつむき寝台の隅に視線を逸らすと、予測される最悪の事態を否定するように首を横に何度も振ったが、依然左腕は熱を帯びたように熱く、内側から鈍い痛みをに送り続けていた。
ないはずの脈を感じる左腕。熱くなった部分を右腕で抑えると、寝台から腰を下ろし、机の上の首をもたげた蛇の置物に左手をかざした。
一瞬ふわりと宙に浮いたの体が、淡い光を放ち部屋の中から消える。
地球の力から体が解放される。そしてほんの少しの静寂の後、重力の間隔を取り戻す。ホグワーツ創設当初から何一つ変わることのない守護者の間と呼ばれる特殊な部屋に足を踏み入れたは、円卓の指定の席に腰を下ろしながら深い溜息をついた。
「……なんだよ、。まだ丁夜じゃないか」
「こんな時間に此処に姿を現すなんて、何か良くないことでもあったんですか?」
「まさか、ただ寝付けなかった、なんていう理由じゃないよね?」
程なくして、それぞれの主であるホグワーツ創設者によく似た姿の守護者たちが、と同じように守護者の間にやってきた。
はすまない、と呟くとテーブルに肘をつき頭を抱えた。
「何かあったんだろ」
濃い赤茶の長い前髪をかきあげながら、そう言っての肩に手をかけたのはゴドリック・グリフィンドールに命を吹き込まれた守護者、だった。
ゴドリック・グリフィンドールの快活な性質を全て受け継いだ彼は、の一番の理解者だった。サラザール・スリザリンとゴドリック・グリフィンドールと同様ともまた、断琴の交わりを結んだ仲だ。
論理的に説明がつかないものを表現することを不得手とするに、それらを吐露するきっかけを与えてくれるのは常にだった。
は一つ深く息を吐き出した後、やや迷いながら不安を口にした。
「……紋章が熱を帯びているんだ。それに、鈍い痛みがずっと続いている」
「それって、サラザール・スリザリンの子孫に何かあった、ってこと?」
最初に反応したのは、ヘルガ・ハッフルパフに生を与えられた守護者、だった。自分たち全員を創造したロウェナ・レイブンクローに命を与えられたの入れた珈琲を受け取りながら、を見つめている。
「それが、よくわからないんだ。今まではサラザール・スリザリンの血を引く者に危害が及んでも紋章が熱くなるだけだった。彼らが亡くなるときも、熱くなった紋章に、ほんの一瞬痛みが伴って……一つの命の終わりを告げるように痛みも熱も消えていく。ただそれだけだった。だけど、今日のは……何かが違う。紋章の熱も鈍い痛みも一向に治まる気配がない」
「、紋章を見せてみろ」
から受け取ったマグカップをテーブルの上に置いたが、の上着に手をかけた。は、のローブとシャツを脱がせ左腕を露出させると、二の腕に刻まれたサラザール・スリザリンの紋章を真剣な瞳で見つめた。守護者全員の視線がの腕に注がれる。
十月の終わり、そろそろ肌寒くなってくる頃合いだが、の左腕の紋章はひどく熱を放っていた。腕に刻まれた蛇を模した紋章が紅い光を放っているようにさえ見える。
「……サラザール・スリザリンの子孫で現存する方は……」
「ヴォルデモート……」
「あいつか……」
がその名を口にすると、が呻いた。の紋章を丹念に調べていたは深い溜息をついて顔を上げると、を真っ直ぐに見つめる。
の言わんとしていることを理解して、は思わずから視線を逸らしてしまった。言葉にこそしなかったが、ヴォルデモートがまだホグワーツに在籍していた時分に、はサラザール・スリザリンとその子孫に纏わる事柄について彼に説明しなかった。その選択を間違っていた、とが考えていることも、闇の時代と呼ばれる暗黒に包まれたこの十一年の彼の活動が、サラザール・スリザリンやその血筋について、ヴォルデモートが持つ間違った認識から来ているのだろうということも、は十分に理解していた。
それでもが直接言葉にしてを責めないのは、当時、今まで出逢った中で一番サラザール・スリザリンの血を受け継いでいたヴォルデモートにどうしようもなく惹かれてしまい、彼をかつての主に重ねてしまっていたのがだけではなかったからだろう。もまた、サラザール・スリザリンの血を濃く受け継いだヴォルデモートに惹かれ、甘やかしていた節がある。
「それなら、ヴォルデモートに何かあったということでしょうか」
「その可能性は高いと思うよ。僕もヘプジバ・スミスが亡くなったとき、紋章に熱と痛みを感じたもの。ただ、すぐに熱も痛みも消えちゃったけどね。それ以降、何にも感じなくなっちゃった」
どこか懐かしいものを見るような瞳での腕を見つめながら呟いたに、は小さくすまないと呟いた。
ヘルガ・ハッフルパフの末裔であったヘプジバ・スミスの死については、公式的には彼女に仕えていた屋敷しもべ妖精のホキーが、夜食用のココアに謝って猛毒を入れてしまったためとということで処理されている。しかし、おそらく彼女は、ヴォルデモートに襲われ死亡したであろうことを四人は知っていた。
自分があのとき、ヴォルデモートにサラザール・スリザリンとその子孫に纏わる事柄についてきちんと伝えていれば、ヘプジバ・スミスの死すら防ぐことができたのではないか。ヴォルデモートによってもたらされた暗黒の時代……その責任は全て自分にあるのではないか、とはいつも自分を責めていた。
「……。どうか自分ばかりを責めないでください。あの当時、まだ学生であったヴォルデモートに惹かれていたのはあなただけではないのですから。僕たちの誰もが、彼をサラザール・スリザリンの再来であるかのように慕い、甘やかしてしまった……あなただけが全てを背負うことはないのです」
依然熱を帯びた紋章を悲痛な面持ちで見つめるに、が声をかけた。
「そうさ、。おまえ一人の問題じゃなくて僕たち全員の問題だ。そんなに思い詰めるなよ。おまえはいつも物事を悪い方へ深く考えすぎるんだからな」
「そうだよ、。僕たちはホグワーツの守護者だもの。ホグワーツの外で起きたことにいちいち悩んでいても仕方ないよ。何があってもホグワーツを守り、導いていく。僕たちに与えられた使命はそういうことだもの」
「お二人の言うとおりですよ。それに、ヴォルデモートに何かあったのなら、明日にはホグワーツ中……いいえ、魔法界中に知れ渡るはずです。時間も遅いし、今日はゆっくり眠って、何かを考えるのは明日以降にしましょう」
三人の温かな言葉に顔を上げたは、ありがとう、と小さく呟いた。服の袖に腕を通して乱れを直すと、やや冷たくなった珈琲を飲みほす。
治まってきたとはいえ、腕の鈍い痛みはまだ続いていて、完全に不安が拭い去れたわけではなかった。けれど、ほんの少しだけ気持ちが軽くなったような気がする。
もう一度ありがとうと呟くと、は席を立ってマグカップを片付けに向かった。これ以上考えていても答えは出ないだろうし、の言う通り、ヴォルデモートに何かあったのなら、明日には自分たちの耳にも話が届くだろう。何しろ今は自分の感情が混乱していて冷静な判断ができない。ここはの言葉に従って身体を休めるのが良い判断だろう。
の様子を見て安心したのか、、もに続いてマグカップを片付けた。
ただ一人、だけがまだマグカップを片手に部屋の中に佇んでいて、その視線が射抜くようにを見つめていた。
言いようのない不安をせっかく誤魔化すことができたんだ。今ここでに核心をつかれたら、不安定な感情が爆発してしまうかもしれない。気取られないようにしなくては……
そう思えば思うほど、の動きにはどこか不自然さが表れたが、三人はそれについて何も指摘しなかった。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい、また明日」
そして、いち早くマグカップを片付けたとが、それぞれの主のシンボルをかたどった置物に手を触れ、部屋から姿を消した。そこでも、彼らと同じように蛇をかたどった置物に手を触れ二人の後に続こうとしたが、に腕を掴まれ呼びとめられた。
怪訝な顔をして振り向くと、先ほどよりも真剣な顔をしたの視線が真っ直ぐを射抜いていた。
「……本当は、怖いんだろ?」
「……え……」
「気にするな。そう思ってるのはおまえだけじゃないんだ。おまえはいつも、論理的に説明できない感情を隠す。だけど、少なくとも僕は、おまえと同じように言いようのない恐怖を感じている。……あいつがやっていることは許せない。だけど、あいつがサラザール・スリザリンの再来である、と認識してしまう自分も確かに僕の中に存在している」
「……」
「ゴドリック・グリフィンドールが亡くなった時の、言葉に表すことのできない虚無感……あの冷静なでさえ、ロウェナ・レイブンクローが亡くなった時には酷く取り乱したんだ。ヴォルデモートに出逢った時、僕たちは確かに主の再来だと喜んだ。けれどそれは同時に、僕たちに主が亡くなった時のあの感情を思い出させることにもなった。僕は、ヴォルデモートを失うことが怖い。おまえもそうじゃないのか」
感情という物は不可解で、にはのようにそれを言葉に出して説明することはどんな呪文を唱えることよりも難解であった。だけど、どうしてこうもは自分が隠している不安を簡単に、そして的確に表現することができるのだろう。
は伏目がちに頷くと、小さく息を吐いた。
「どうして君は全て言い当ててしまうんだ。……サラザール・スリザリンが命を引き取ったとき、僕は激しく取り乱した。彼がいなくなったこの世界に僕が存在している意味はないとさえ思った。あの時のようにヴォルデモートが消えるのを感じたくないんだ……」
「……紋章はまだ疼いてるか?」
の問いに頷いたは、まだ熱をもった左腕を右手でさすった。
「ヴォルデモートは人一倍死を恐れていた。あいつが簡単に死ぬはずがないと僕は思っている。かといって、おまえの紋章がそんなに熱を持っているんだから、あいつの身に何かがあったことは確かなんだろう。詳しいことはの言うとおり明日にはわかるだろうけど……僕たちは主や己について一度きちんと考えなければならないのかもしれないな」
ふっと視線を落としたはどこかさみしげな表情を浮かべていた。
これだから、感情という物は厄介なんだ、とは心の中で悪態をついた。感情がなければこんな風に悩むこともないだろう。ホグワーツの外で起きたことに守護者は関与しないのだから、外で起きた出来事の一つ、として認識しておけばいい。そう頭では分かっているつもりだが、感情というものがあるせいで、上手く処理しきれないのだ。
「とりあえず、明日の情報待ちだな。何も情報が入ってこなくても、アルバスに聞けば何かしらわかるだろ。それより、さみしくて不安で一人じゃ眠れない、とか言うなよな」
「なっ……さみしくて不安で一人で眠れる気がしていないのは、のほうだろう? 僕は別に……」
「あ、わかっちゃった?」
つい先ほどの哀愁漂う顔はどこへやら、浮かれた笑みを浮かべて抱きついてくるの姿を、は愛おしく感じてしまい、自分の感情に溜息をついて首を横に振った。
「……寝坊したら朝食においていくからな」
全く不可解だ、とは真面目で勇猛果敢な騎士が時折見せる子供らしさを甘やかしてしまう自分に苦笑した。
いそいそと寝床の準備をするを見つめながら、不可解で理解不能な感情という代物について思いを巡らせる。
結局のところ、感情という物は厄介で面倒くさく、扱うことの難しい代物であるが、こうして誰かを愛おしいと思うのもまた一つの感情の在り方であり、その甘美さ故に、ただの守護者にさえロウェナ・レイブンクローが導入するに至ったのだろう……
それならば。
……サラザール・スリザリン、あなたは僕に何を望みますか……
消えぬ痛みと不安を抱えたまま、夜は更けていく。
新シリーズ第0話。わからないことだらけでごめんなさい……