成人の儀
職員会議、寮の管理、明日の準備。生徒たちの就寝時間を過ぎてからもしばらく、研究室で仕事に追われるのが日課になっている。
今日も私はかなり遅い時間まで神経を張り詰めて仕事をしていた。
はっと深い溜息をつく。どうも最近物事に集中できないことが多くなった。
……気分が重い。自分の身体に負の感情が纏わりついているような気がする。
あの人に逢えないから?
それとも単調な生活に飽きてきているの?
自問してみて首を横に振った。
ホグワーツを卒業したら、彼は世界を見て回る。分かっていたことだし、それは彼の夢だった。私はそれを引きとめる事など出来ないし、しようとも思わなかった。
その一方で、私は彼に着いて行くという道を拒んだ。同じ時間を同じ場所で共有するという彼の甘い夢は、私にとっても素晴らしく甘く魅力的なことだったけれど……体内に流れる星見の血はそれをよしとしなかった。
それに、ホグワーツで教鞭を執るということは、後ろ盾の何もない魔法界で私が生きていくのにとても好都合だった。ダンブルドアの監視ですら私は利用していたのかもしれない。慣れ親しんだ環境で一年の大半を過ごす。立場は変われど、ホグワーツが私の魔法界での生活の基盤。どちらも不安定な生活を続けるより、私がきちんと足場を固めておいた方がいい……あの時の私は、そんな風に思っていた。
でも、もしかしたらそれは、ただの強がりだったのかもしれない。
今日はもう仕事を終えよう。
手早く部屋の片づけを澄ませて寝室に入った私は、もう一度溜息をつきながら寝台に足を滑り込ませた。
ひんやりとしたシーツが私を出迎える。
私のことをよく知らない人は、いつも落ち着いていて冷静な判断をする、感情に流されない人ね……なんて私のことを言う。私はいつも、星を見る者ですから、と答える。
でも、本当に? 本当に私は感情に流されない人間なのかしら。
……いいえ、違う。
私の中にある感情は、いつでも渦を巻いていて、少しでも気を抜けば外に牙をむく。私はそれを手懐ける術を知っているだけで、決して流されていないわけではない。本当は感情の波に溺れてしまいたいことの方が多いし、感情を手懐けるのは簡単ではない。
今だって本当は……
星の明かりを最小限に絞ると、私は枕に頭を埋め目を閉じた。
隠している本音。誰にも言っていない本音。その感情に流されることが怖いから必死で押しとどめている本音。自分にさえ嘘をついて。
私は大丈夫、と呪文のように唱えて日々を過ごしてきた。
だけど本当は……あなたに逢いたい。
魔法界一の知識と実力を持って、綺麗な紅い瞳で真っ直ぐに私を見つめながら夢を語る、彼。
あの人が忙しいことも、私がホグワーツにいるということが密会を困難にさせているということも重々承知しているの。
だから一度も逢いたいなんて手紙で綴ったこともないし、世の中の多くの女性がするように感情に任せて彼を責めたこともない。
この気持ちは、私の中で眠っていなければならない、我儘なもの……
どうして今日はこんなに溢れてくるのかしら……
抑えきれなくなった感情を制御するかのように、大きく息を吐いた私は寝台の上で一度寝がえりを打った。
ホグワーツ内や寮内が少しごたごたしていた時期だったから、きっと私は疲れているのよ。
眠ってしまおう。溢れだした感情を押しとどめるには眠ってしまうのが一番……
だけど、もしあなたに逢えるのなら……たとえ世界が滅びたって構わない……
「……」
何処からか私の名前を呼ぶ声がする。
意識は半分起きているけれど、身体はだるくて重い空気に包まれているかのような感覚。
もう朝になったのかしら……気持ちが不安定だと、睡眠も不安定になるものなのね……
そんな風に思いながら、私はゆっくりと目を開けた。
「いつまで眠ってるんだい、」
目の前には愛しい人。柔らかい笑顔を浮かべて、私の前に軽く手を差し出している。黒くて長いローブを身に纏い、紅い瞳で私をまっすぐに見つめている……
そして、彼の後ろにはただ真っ白い空間が広がっているだけだった。
いいえ、彼の周りだけじゃない。きちんと寝台に入って眠ったはずなのに、私は真っ白い床の上に横になっているだけ。寝室も、研究室も全て消えてなくなっていた。
……ここは、何処……?
「……ヴォル? ど、うして、此処に……?」
戸惑いながら彼のさし出した手に自分の手を重ねると、リドルは事も無げに私の身体を起こした。
何度か瞬きをして周りを見回してみたけれど、やっぱり辺り一面真白い空間が広がっているだけ。私の部屋も、ホグワーツですら、ここには存在していなかった。
「おはよう、。僕がここにいることがそんなに珍しいかい? ここは君の世界だもの。君が望んだから、僕はここにいるんだ」
「……私の、世界?」
「そう、君の世界。君が望んだから、この世は再構築される段階に入った。今はまだ……ここには君と僕しか存在していない。この先は君が望んだとおりに構築されていくよ」
まるで何を驚いているんだ、と言うようなリドルの顔。
何もないこの真っ白な世の中が彼にとっては全くもって普通であるかのような態度。
突然現れたリドルの姿に、私は戸惑いを隠せない。
「……? 何をそんなに戸惑っているんだい? 君たち星見は世界の創始者じゃないか。星見の君が望んだんだ。世界を再構築しようって。こうして何もなくなった今、ここに世界を構築するのが君の役目じゃないか。もちろん、このまま世界を破滅させるのも君の自由だけれど」
それが世界の常識であるかのようにリドルは私にそう告げた。
星身が世界の創始者だなんて……そんなおこがましい話、私は聞いたことがない。
……だけど。だけど確かに、私は眠りにつく前に、リドルに逢いたいと願った。彼に逢えるならこの世の中が滅びてもかまわないとすら思っていた。
それが、この何もない世界を生み出してしまったというの?
長い、長い歴史を持った世界を、私が全て消してしまったというの?
「僕を疑ってるの?」
「俄かには信じられない話ですもの……」
「とにかく何かを構築してみればいい。そうすれば君だってこの世界がどんなものなのかきっと理解する」
憤慨だとでもいうようなリドルの顔。笑顔を浮かべて私に指示してくるけれど……ねぇ、あなたは本当に私の知っているリドルなのかしら。
胸の中に不安ばかりが募っていく。
もしも本当に、私のたった一つの想いだけで、この世を全て消し去ってしまったのだとしたら……私はなんてひどいことをしてしまったのだろう。歴史も人生も全て無に消し去ってしまうなんて……
最初に胸に浮かんだのは、やっぱりホグワーツだった。
私の生活の基盤。ここには多くの未来を担う魔法使いの子ども達が生活している。私は、我儘な自分の感情に任せて、彼らの未来までも摘み取ってしまったのかしら……
すると真っ白な空間にホグワーツが浮かび上がった。
私とリドルはホグワーツの中庭に立っていて、クィディッチのコートで練習をする生徒の姿や、飛行術の授業を受ける一年生の姿がよく見えた。
「……信じられないわ……」
嫌な汗をかいた気がした。
目の前に構築されたもの、それは間違いなくホグワーツだった。私の慣れ親しんだ世界。
……私……
「……ホグワーツ……君は、ここが好きかい?」
「そんな感情で考えたことなんてなかったわ……ここは私の生活の基盤だから……」
リドルは少し複雑な表情で私を見つめていた。
確かにこの白い世界では、私の思いつくままに世界が構築された。
記憶に忠実に再現することは容易く、その記憶を意図的に塗り替えることもまた容易かった。
邪魔なものを排除し必要なものだけを配置していく。
建物だけじゃない……人でさえ、私のたった一つの想いで生かすも殺すも自由だった。
私とリドルは歩きながら色々なものを再構築していった。
だけど、構築が進むたびに、私の胸には不安が募っていく。
これが本当に星見の能力だとしたら……どうして、私はこのことを何も知らないのだろう……もしも、本当に星見が世界の創始者なのだとしたら、私が生きていた世界は先代の星見である母が作り出したか、または受け継いだ世界のはず。母との思い出なんて無いけれど、母は私に星見の一族として受け継ぐべき記憶を書物にして残してくれた。そこには一言もこんなこと書いていなかった……
それにこの世界は……
何かが私の心の核心に触れた。
私はひたと立ち止まり、数歩前を行くリドルの背中を見つめた。
いつの間に夕方を構成したのか、太陽は沈みかけている。ほんの少し願うだけで、太陽は急速に地平線に沈み、空は闇に覆われた。
その空に瞬く星からは……何も聞こえない。
リドルが振り返り、怪訝な顔をして私のところへ戻ってきた。
その時にはもう、私は今構築してきたあらゆるものを無に帰していた。
「……どうしたの、。何か不満でもあったかい?」
「分かってしまったの……」
「分かったって、何が?」
「ここは……世界の一部ですら無い……架空の場所よ」
構築したものをすべて消す。
音も立てずに崩れる建物、道、空……そして、人。
最後の一人が消えた後、この真白い世界には、私とリドルの二人だけが残った。
もしも本当にこの世界のすべてを私が構築するのだとしたら、ここでリドルも消えていなければ矛盾が生まれる。だけど彼は依然私の目の前に留まっている。私がいくら彼が消えることを望んでも、彼の身体はこの白い空間に留まったまま。彼が私の制御の外側に存在していることをそれが証明していた。
「……」
「……偽者でも、あなたに逢えて嬉しかったわ、ヴォル。ありがとう。でもここは、私の世界ではないし、星身が世界の創始者立って言う話も全て、あなたが私に見せている夢、ね」
リドルは大きく息を吐くと、私をまっすぐに見つめた。
いつもと同じ、力強い紅い瞳が私を捉える。だけどその左の首筋には黒い痕が浮かび上がっていた。
「それなら、教えてくれ。どうして君はこの世界を拒むんだい……?」
「星の声が聞こえないからよ。何も聞こえなかった。たとえ全てが自分の思い通りになったとしても、星の声の聞こえない此処に留まることはできないわ……」
リドルはふっと軽く息を吐いた。
最後に私の身体を勢いよく引き寄せ、強く抱きしめると、耳元で及第点と呟いた。そしてリドルの身体は静かにその姿を白い猫の姿へと変えた。
「……」
上品にその場に腰を下ろし、大きな瞳で私を見据えている白い猫。ホグワーツで拾った私の飼い猫そのものと言ってもいいその猫は、ほのかに唇を上げ、私に笑みを見せた。
「合格じゃ、。よくこの世界を見破ったな」
それは、透き通るような声だった。威厳のあるしゃべり方だったけれど、耳に心地よい音だった。
がしゃべった……
私が驚きを隠せずにいると、は小さな首をかしげて私をしげしげと見つめた。
「何をそんなに驚いて……ああ、。わらわは単なる猫ではない。地球じゃよ。そうか、こうして星のほうから直に話しかけられるのは初めてであったかの」
「……地球……」
の姿をした地球は、凛とした仕草で、私にその場に座るよう指示をした。
視線が小さな猫と近くなる。
は満足げな顔をして、私の顔を覗き込んだ。
「メルシードとセラ・の話は伝え聞いておろう? 星見には古来より星の力を操る能力があった。古くは星見一族の創始者メルシードより伝わる力じゃ。星は、メルシードの血を引くものたちを星に最も近い人として位置づけ、長い時を共に過ごしてきた。けれど、その長い時の中で何度も自らの欲望を満たそうと星の力を使うものが出てきた。星の力を使えば、この世界を思い通りに作り変えることも容易い。今、実感したじゃろう? しかし、わらわたちはそれを良しとしなかった。たった一人が作った世界に生きても、この世は成長しない。それが理由じゃ。最初に気づいたのは、メルシードのひ孫セラ・だった。セラは、星見に自らの未来を教えない、ということを星と約束した。それでもまだ自らの欲望を満たそうとする輩が出てきたものだから、試練に合格しないものには、それ以降語りかけるな、といった。それ以来、星見にはこの試験が課されておる」
すらすらと語られる星見の物語。
メルシードもセラ・も……通常は口承でのみ伝え聞く名前のはず。
星見は本来、死する時にその生き様を後継者に託す。だから、メルシードの時代から、星見の記憶は途絶えたことがない。一人ずつ、時を重ねるごとに伝える記憶も増えていく。
ただ、私の時は……先代の星見である母が、あまりにも幼い私には、膨大な量の記憶を受け継ぐことは不可能だろうと判断し、それまで母が受け継いできた長い歴史を全て魔法の書物にしてくださった。
私がメルシードやセラ・の名を見たのはその書物の中だった。
この記憶は星見にしか受け継がれていないはずの記憶。
が地球であるということを疑う余地がなくなった。
「こうして星の力を使ったときの世界を見せる。中にはこの力に溺れてしまうものもいた。いや、セラの血を引くもの以外は皆この力に溺れていった。けれど、何も心配しなくてよい。そなたもそなたの母も立派にこの試験に合格しておる。これ以降、そなたは多くの星に語りかけられるじゃろう。聞いたりたずねたりしなくても」
地球は満足げな笑みを浮かべて私を見つめていた。
私は彼女の言葉を噛み締める。
「魔法界の成人と、星身としての成人は時期が異なる。本日よりそなたは一人前の星見じゃな」
私はとなった地球の額を軽く撫でた。
もしかしてこのお方は、ホグワーツで私と出会った時からずっと……いいえ、私がこの世に生まれ落ちた時からずっと、こうして見守っていてくれたのかもしれない……と、なんだか感慨深い気持ちになった。
「ひとつ、聞いてもいいでしょうか……」
「なんじゃ?」
「……彼……ヴォルデモート卿は今どうしていますか? このところ私の心が不安定で……きちんと管理しなければならないのは承知しているんですが、まだまだ私は未熟なようです。時々、自分の心が分からなくなってしまって……」
小さく息を吐き出して苦笑い。
地球が変化していた姿だと知った今でも、彼の姿を見た私の心は落ち着いている。
彼の姿を見た時、心が躍ったのを私は覚えている。
本当に……私は、未熟だこと。
「ふむ……よ、わらわから一つ助言をしよう。そなたのその感情、間違ってなどおらぬよ。必要以上に押し留める必要もあるまいて。そなたも年頃の娘じゃ。それにそなたたちは魂が惹き合っているかのごとく強く惹かれあっておる。もう少し、自分の心に素直になってもよい頃合いじゃよ、」
「地球様……」
「あやつのことなら心配いらぬて。近々逢えるやもしれぬしの。さ、目覚めの時じゃ」
地球は最後に満面の笑みを私に見せた。
ありがとうございます……そう呟いた私の声が、彼女に届いたのかどうか、私にはわからない。
彼女の声が聞こえたのを最後に、私の意識はぱっと真っ暗な空間に放り出された。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さんの成人の儀式、なり。