魔法の詞


 がしゃーんっ

 屋敷中に響き渡るような大きな音。
 そして、俺の足元に転がってきたのは、粉々に砕けた紅い宝珠だった。
 一瞬唖然とし、それから恐る恐るの顔を見た。

 の手はぷるぷると震えていた。

 「……っ!!」

 びくっと体が震えた。
 俺が何かとんでもないことをしでかしてしまったのは目に見えて明らかだった。
 それに、砕けてしまった宝珠は、がとても大事にしているものだって言うことも俺は知っていた。


 ちょっとした遊び心だったのだ。
 このところ、に新しくもらった分厚い本を読みふけっているは、俺の相手をあまりしてくれない。
 日長一日机に向かっては本を読み読み書きをしている。
 同じ年頃の子供に比べればきっと落ち着いた風体をしているのだと思う。
 そんなに俺は退屈していた。
 だから、が大切にしている紅い宝珠に手を出そうと思った。
 壊すつもりじゃなかったんだ。
 ただ、俺がその宝珠に手を出しているところを目撃したら、きっとは驚いて俺のところによってくるだろうと思ってたんだ。
 まさか紅い宝珠があんなに滑りやすいものだなんて知らなかった。
 俺が触った宝珠はころころと机の上を転がり、あれよあれよという間に机の端から勢いよく落ち、今の状態にある。

 粉々の宝珠。

 俺は宝珠との顔を交互に見た。

 「大切なんだって…言ったよね。触っちゃダメだよって言ったよね?どうしてそうやって手を出すの?!」

 がくしゃくしゃの顔で涙を拭ってる。
 でもその手はわなわな震えていて、どうやら相当お怒りのご様子だ。
 そのままは俺に飛び掛ってきた。

 耳を引っ張ったり噛み付いてきたり。
 たぶん、は理性を失っているんだと思う。
 自分がしたこともよく覚えていないんじゃないかな。
 でも、痛い。
 痛いのは嫌いだ。

 俺も自分が悪いことを忘れてついつい応戦してしまったから悪いんだろうな。























 「なんか嫌いだっ!」

 ばたん、と乱暴に扉がしまった。
 俺の爪のあとのついた体、ボロボロに破けた服、くしゃくしゃになった髪の毛。
 一体どうしたらそんな風になるんだって位朝と変わった見た目のまま、が出て行ってしまった。

 いつの間に片付けられたのか、紅い宝珠はもう部屋に見当たらなかった。

 俺の体もいささか傷ついた。
 がかじったのか、俺の耳はなんだかずきずき痛んでいるし、鬣も体の毛もぐしゃぐしゃになっている。

 嫌いだ、なんていわれたのは初めてだった。
 こんなに気分が落ち込むものなんだろうか、この詞は。
 なんだか……いや、たぶん、が言うから余計に傷つくんだろうな……

 なんだか気まずかった。
 俺が悪いことをしたのはわかってるんだ。
 だから、謝るのは俺なんだろうけど、幸か不幸か俺はとの意思の疎通があんまりうまくない。
 が言っていることはわかるのに、俺が言いたい事はうまくに伝えられないんだ。
 それで喧嘩に発展してしまったのに、今も俺はに謝る術をしらなくて、どうしていいか分からない。
 かといって、自分ひとりで扉を開けて外に出るわけにも行かないし、外に出たところでが何か話しているんだろうし、そんな場所に足を運ぶ気にはなれない。

 しーんと静まり返った部屋。
 時計の秒針が同じ速度で時を告げている。
 こういうとき時間が経つのはすごく遅くて、俺はどうしていいか分からないもどかしさの中にいる。



 きぃ、と扉が開いた。
 着替え終わったのか、さっきと違う服を着て髪の毛も綺麗に整ったが部屋に入ってきた。
 でも、その手には俺がつけた噛み痕と引っかき傷が痛々しい。
 その姿を見ると俺はしゅんとうなだれるしかないんだけれども、俺のこんな心を知ってか知らずかは何も言わない。
 紅い瞳はいつもの穏やかな光ではなく怒りに燃えた色をしている。

 何にも言ってくれない。

 どれくらい時間が経てばは許してくれるのだろうか。
 それとももう許してくれないのだろうか。

 そもそも、どうしてあの宝珠は大切なんだったろう……

 俺は目を瞑ってそんなことを考えた。








 「見て、。とっても綺麗な紅い宝珠だって」

 が紅い宝珠を俺の前に差し出した。
 の瞳の色と同じで、光加減によって色んな見え方をする不思議な宝珠だった。
 吸い込まれそうなほど深い紅色は目の前にいると酷似した誰かを思い出させる。

 「誰からの贈り物だろう……朝起きたら枕元に置いてあったんだ。でも今日は特別な日じゃないし……だれだろうねぇ」

 きょとんとしたの顔。
 宝珠の入っていた黒い箱の中から、ひらひらと舞い落ちた一枚の紙。
 文字なんてなんて書いてあるのか俺にはてんで解らないけれど、それは見たことのある筆記体だった…








 「……できたっ!!」

 何かもやのかかった記憶を思い出していたら、が大きな声を上げた。
 一人机に向かって何か作業をしていたらしい。
 驚いて俺は顔を上げた。
 こっちを向いたの顔は輝いていた。
 怒りの色をした瞳はどこにもなかった。

 「おいで、

 はいつもの笑顔に戻って俺を傍に呼んだ。
 行ったら怒られるのだろうか?
 でも、の笑顔はいつもの笑顔だ。
 優しくなでてくれるだろうか……

 少し戸惑っていたら、自身が俺に近寄ってきた。
 ふわり、と優しく俺の体を抱き寄せてゆっくりなでる。
 一瞬体を縮こまらせたけど、どうやらもう怒っていないみたいだ。

 「……もう怒ってないよ、。そんなに驚かないで」

 優しい声とやわらかいにおいがした。
 の声が俺を安心させた。

 「ほら、見て。綺麗に直ったよ」

 が俺の前で手を広げた。
 まったく形の変わらない宝珠が出てきた。
 粉々に砕け散る前の……あの宝珠だ。

 が直してくれたのだろうか、と思ったけれど、さっきが部屋に入ってきたときにはまだばらばらだった。
 が一人で直したんだろうか。

 この……俺が、傷つけてしまった小さな手で?

 俺はの手を舐めた。
 くすぐったそうには笑った。
 宝珠を机の上に大切に置くと、俺の体をぎゅっと抱きしめ、俺の耳を触った。

 「怪我させちゃってごめんね」

 ああ……
 の詞は魔法だ。
 たったひと言だ。
 たったひと言で俺は幸せにもなるし不幸にもなるんだ。
 さっきまでどうしていいか分からなかったのに、が声をかけてくれただけで俺はこんなにも幸せで安心した気分でいられる。

 「、大好きだよ。でも、もう宝珠には触らないでね。あのね、この宝珠とっても大切なんだ。だって……」

 ああ、もう触らないよ。
 がどうして宝珠を大切にしてるか本当はすぐに気がつけばよかったんだ。
 ばらばらに壊してしまう前に。
 だって、あの宝珠はのためだけにあいつが探して送ってきたものなんだから。
 そうだよな。
 俺が触る権利なんてないんだ。
 は、会ったことのない父親から送られてきたほんの少しの愛情を増幅させて幸せになってるんだ。
 悪いことをした。
 でも、が許してくれてよかった。
 もうこれ以上と喧嘩をするのはやめよう。

 暖かいの腕の中で、俺はそう心に誓った。






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 が喧嘩をしたのは後にも先にもこの一度だけ。