生きる思い出
窓の外で星が瞬いている。空気が澄んだ冬の空に、星の輝きがよく映える。
二時間前から机に向かって何かを書いていたが、やっと一息ついて顔を上げた。
ペンを机の上に置く音が響いた。
「出来……」
それは本当に一瞬の出来事だった。
が魔法式を書き終わり、ペンを置いた直後だった。
「うわっ、もしかして僕何かまちがえ……うわぁ……」
の体が強烈な光を放ち、周囲にあったペンやら紙やら俺なんかを全部巻き込んですっとどこかへ飛ばされた。
の悲鳴は聞こえたけれど、まったくもって何が起きているのかわからずに、俺はただ、無重力の空間をほんの数秒漂ったように思う。
(わー……ちょっと間違えちゃったみたいだね)
体の感覚が戻ってきてやっと目を開けると、そこは真っ黒な空間だった。時々風になびく部分から光が漏れているけれど、真っ暗だ。
……風。風を感じるということは、おそらくここは外なんだろう。地面に体がぶつかる感覚はなかったが、どうも足下がしっかりしない。
の視線の高さが俺と同じところにあるから、はきっとしゃがんでいるのだろう。
(それにしても、ここ、どこだろうね……僕、いったいどこの呪文を間違えて記入しちゃったんだろう……)
少し困った表情を浮かべているのか、の心が騒がしい。
別にどこに飛ばされたんでも、の身に何も起きていないのなら、帰る術は見つかるだろうし大丈夫だろうけど……それにしても、上のほうがごそごそと騒がしいな。
そんな風に思っていたら、いきなり目の前の黒い幕が剥がされたような感覚に陥った。
視界が広がり、星が瞬いている空が見える。少し視線をずらすと、驚いた表情を浮かべるヴォルデモート卿の姿が目に入った。
も俺と同じようにヴォルデモート卿を見上げている。
「…………?」
「父上……」
「いきなりどうしたんだい?それもずいぶんと奇抜な現れ方をするね。僕のローブの中にごと出現するなんて……」
取り払われたのはヴォルデモート卿のローブだったのか。
どこまでも星が広がる夜の空。
ヴォルデモート卿は箒の上で俺たちを見つめている。どうやらはヴォルデモート卿の箒の後ろに座っているみたいだ。
そういえば、大地を踏みしめている感覚はなかったな。
俺が空に浮き、がヴォルデモート卿の箒の後ろに座っているから、視線が同じ高さにあったのか。
は俺を見て困った顔をし、ヴォルデモート卿にも同じ表情を見せた。
「魔法を、間違えてしまいまして……」
「……珍しいね、君にしては」
「少し気分が浮ついていたんです、きっと。本当は父上にとある魔法のことを手紙でお知らせするつもりだったんですが……手紙だけがホグワーツに残され、僕自身がこちらに飛んできてしまいました……」
多少うなだれた様子でがそういうと、ヴォルデモート卿は思わず微笑んだように見えた。
しゅんとうなだれるは、星に照らされていることもあってか、いつもよりきれいに見えたし、ヴォルデモート卿はいつもより優しい表情を浮かべているように見える。
そういえば、この前完成した魔法のこと、ヴォルデモート卿に知らせるんだって言ってたっけな。そのために二時間くらい机の前に座って、は手紙を書いていたんだっけ。
「そうか……でも、さすがに箒の上でまじめな話をするのは少し危ないな。ちょうど今から小さなを迎えにいこうと思ってたんだけど、彼にはもう少し森の中で待ってもらうことにしよう。人目につかない場所でゆっくりその話を聞こうかな、」
箒を握り直し、進行方向を変えたヴォルデモート卿が、を乗せたまま、ものすごい速さでどこかへ向かって飛んでいく。
追いつかなくちゃ、とがんばって宙を駆ける俺にが優しい笑みを見せた。
たどり着いた先は、岩山の途中にぽっかり空いた洞窟の奥深く。
冬の外よりは多少熱がこもっているのかもしれないが、それでも冷たい。
ヴォルデモート卿の杖の先から出る小さな光をたよりに洞窟の奥まで進む。
すると、一番奥は、充実した設備が準備されていた。絹で織り込まれたペルシア絨毯が床に敷かれている。その上に人が三人は座れるだろうゆったりしたソファーが準備され、小さなテーブルも用意されている。小さな棚があり、そこにはびっしりと羊皮紙や本が並べられていた。
……ここは確か……俺の、曖昧な記憶を辿るなら、ここはヴォルデモート卿の小さな憩いの場所だったはず。
頻繁に訪れていた訳ではないけれど、時々、ここで何か考え事をしていたことがあったように思う。
テーブルの上にはマグカップが置いたままになっている。ヴォルデモート卿はマグカップをもう一つ取り出して、コーヒーが入った状態でに渡した。
ソファーに腰掛けるように言われたは、遠慮がちに腰を下ろす。
の足下に寝そべった俺は、絨毯のあまりの肌触りの良さに、このままここで眠ってしまいそうだ、と思う。
洞窟の中であることは変わりがないのだけれど、なんだか快適な空間だ。
「秘密の隠れ家、ってとこかな。こんな岩山にある洞窟の、こんな奥深くまで足を踏み入れる人間なんてほとんどいないだろう?まれにマグルの冒険家とか言う奴らが山を登ってくるんだけど、洞窟の入り口は見えないように魔法を掛けてあるし、微量の魔力が魔法界の奴らにわかってしまったとしても、近づかないように手はずを整えているから、あまり問題にはならないと思うんだ」
ヴォルデモート卿は流暢にそう語り、の隣に腰を下ろした。
洞窟の中にコーヒーの香りが広がっている。
「それで?どんな魔法について僕に手紙を書いていたんだい?」
いつもと変わらないヴォルデモート卿の態度に、の胸がやや締め付けられるような感覚を持っている。
コーヒーに一口含むと、はゆっくりつぶやくように言った。
「帰る術が、完成したんです」
一瞬洞窟の中は静まり返った。
耳の中を貫くような独特の音が聞こえてくる。耳が痛くなるくらいの静寂。
ヴォルデモート卿もコーヒーを口にし、しばらく考え込むような仕草を見せる。
それから、彼はのほうを向いて口を開いた。
「……おめでとう、。君は本当に素晴らしい魔法使いだ」
しかし、彼の言葉を受け取ったは複雑な表情を浮かべている。感情の揺らぎが、表面にも現れてしまっている。
ヴォルデモート卿はすべてを見透かすような瞳でをじっと見つめていた。
渦巻く感情……それは、帰らなければならないというものと、彼に引き止めてもらいたいと思うもの。ここに残りたいという願ってはならない思いと、一刻も早くこの場から消え去らなければならないと言う思い。
情が移ったのか、なんては自問しているけれど、そんなことわかりきっているじゃないか。だって、俺たちは……ここで、この時代で確かに生きた。成長した。いろんなことを経験した。それは思い出と言う形での心を襲うんだ。自分の記憶さえ操って、心を痛めずにいられればどんなにいいことか……でも、自分の心に正直だから、は苦しくなるんだ、よな。
「……魔法式を編み出したんです。詳しい内容は、ホグワーツに帰ってから改めて手紙でお伝えします。そのほうがわかりやすいので」
「そう……楽しみにしているよ。魔法を間違えてしまったにせよ、その情報がの口から聞けたのは嬉しかったな」
ヴォルデモート卿の笑みに、の表情が硬くなる。平静を装うとしても、どうしても思い出が目の前を駆け巡ってしまう。
を見つめているヴォルデモート卿の紅い瞳が、それすらすべて見透かしているようにさえ見える。
「……そうか、。君は悩んでるんだね?」
「え……」
唐突にヴォルデモート卿はつぶやいた。
俺も顔を上げてヴォルデモート卿を見つめたが、彼は誰に言うでもなく、ただただつぶやくように言葉を紡ぎだし始めている。
手にしたマグカップの中をのぞくようにして口を動かすが、のほうを見つめている訳ではない。
が、ヴォルデモート卿をじっと見つめている。
「自分がすべきこと、しなくてはならないこと……でも、それを実行することにためらいを感じているんじゃないかい?そのためらいを生んでいるのは……心の中に眠るもの、かな」
「……父上……」
「魔法は完成したけれど、心の整理は完成していない、そんなところかな」
ヴォルデモート卿は顔に笑みを浮かべながらそういう。心の中を見透かされたようで、は驚きを隠せていない。俺も、驚いた。
「本当は、今すぐにでも僕が個々にいた痕跡をすべて消して、完成した魔法を使ってこの時代から去るべきなんです。頭では、わかっているんです」
「実行に移すのには抵抗がある?」
「……今は、まだ不思議な感情がこみ上げてきてしまって……」
「そうか……そうだね。まだ、心の整理を終わらせるのには時間がかかりそうだ」
こともなげにヴォルデモート卿はそういい、テーブルの上に小さなバスケットを載せた。その中には焼きたてのパンがいくつか入っている。
丸いパンに手を伸ばし、それをちぎりながら、彼は半分をにすすめた。
「心の中で整理がつかない部分が知りたいな、」
口に含む訳ではなく、ただヴォルデモート卿はパンをちぎっている。その好意に何の意味があるのか、俺には理解できない。
ああ。でもなんだか、たくさんの思い出たちみたいだな。
「……上手く説明できるかどうか。僕自身、自分の心がどうしてこんな不可思議な感情を生み出すのかわかっていないんです」
「人の心というのはそういうものさ」
「…………この時代での生活は、当初僕が思っていたよりも長くなりました。そして、ここで様々な人や学問との出会いがあって……それら全てが僕の糧になりました。それを消し去ってしまうことに多少の抵抗を感じます」
世の中って言うのは、どの時代にいてもその時代ならではの温かみがある。
ホグワーツ創設者たちに会ったときもそうだったな……
でも、なんだろう。あのときよりも今回のほうがはずっと辛そうだ。
あのときは……でも、リドルがいたんだよな。リドルがの理性の役割を果たしていたように思う。リドルが言うことはいつも正しかった。感情のままに動かされることがなかったから、の決意もすぐに固まった。
今回は、どうだろう。
俺にはリドルのように理性だけの役割を担うことは出来そうにない。の気持ち、すごくよくわかるんだ。
俺だって、帰らなくちゃ行けないことはわかっているけれど、今すぐにって言われると、気持ちの整理がついていないからどうしていいかわからなくなるだろう。
「……僕も、この時代に君と過ごした思い出が消えてしまうのは残念なことに思うよ。君は僕が知る限り一番能力が高い魔法使い見習いだった。次に君に出会うのにどのくらいの時間がかかるのか……それを考えるとね、少しは君をこの時代にとどめておきたいって思ってしまう」
「……父上……」
「でも、さ。たとえ僕やの中から君の記憶が消えてしまったとしても……君が僕らと過ごした日々を覚えているのなら、それでいいんじゃないかな、って」
「それって……」
「忘却するほうは、何事もなかったかのように日常を過ごすだろう。忘却されるほうは、どうだろうね。同じ時代に生きているのに、忘却されてしまうのは辛いかもしれない。でも、君は元の時代に帰るんだ。もし、元の時代で僕らに会って、僕らの中に君と過ごした思い出がなかったとしても……君はその胸に確かに覚えているだろう?」
ヴォルデモート卿は初めてのほうを向いた。
「僕が……覚えてる……」
「僕が思うに、君がきちんと覚えていることが重要なんじゃないかな。一緒に過ごした人たちに忘れられてしまったとしても……それは、君がこの時代にきてしまったことを修正するための方法なんだ。だから、僕やが君のことを忘れてしまうのは、ある意味では正しい道に修正されたととれる。だけど、今君はここにいて、ここで生活し、ここで魔法を編み出した。その事実はしっかり君の胸に刻まれているだろう?その思い出を、君自身が忘れることなく、その胸に抱いて元の時代で生活することが、きっと一番重要なんじゃないかな」
「………」
「忘却術は、完璧じゃない。魔法が作用できるのはあくまで表面的なものだ。その魔法の強力さが心の強さに負けたら……いつかふとした瞬間に思い出すことがあるかもしれない。それも、ひとつの道だと僕は思うんだ」
けれど最後にヴォルデモート卿は悪戯っぽく笑った。
「でも僕、ほとんどの人間が思い出さないであろう究極の忘却術を知ってるんだけどね」
もつられて笑みを見せた。
少しだけ、複雑な表情が和らいだ瞬間だった。
ヴォルデモート卿は、世間一般に知れ渡っているような冷酷で非道な魔法使いではない。
心の中ではわかっていること、でも認めたくないこと……ヴォルデモート卿がに指南したことは数知れない。
言葉すら巧みに操り、人の心すら動かしてしまう。
ヴォルデモート卿の魅力は、単に不世出の魔法使いであると言うところだけではないんだろう。
家族の温かみを知ったが、家族の温かみの中で帰ることを決意することが出来れば……それは、にとっても、ヴォルデモート卿やにとってもプラスになると思う。
改めてヴォルデモート卿のすごさを実感した瞬間だった。
「僕が今一番恐れているのは、君もすべてを忘れ去ってしまうこと。思い出という引き出しに固く鍵をかけて、ここで生活したこと全てを心の奥底にしまい込んでしまうこと。たとえ大勢の人が忘れてしまっている記憶でも、本人が覚えているのなら、それは生きる。でも、本人まで忘れてしまったら、それこそ本当にここでの生活は死滅してしまう。だからね、。僕の中から君の記憶が消えてしまうことを受け入れる。でも、君の中からは、この時代に生きているこの僕の記憶を消さないで、大切にしてほしいんだ」
はしばらく黙っていた。
思い出が頭の中を駆け巡る。
ヴォルデモート卿も何も言わなかった。
「……父上、僕に究極の忘却術を教えてください。……みんなが僕のことを忘れてしまったとしても、僕は絶対に忘れません。だから、誰かが思い出すかもしれない、なんて甘い夢は僕の手で消し去りたい」
それは強く固い言葉だった。
ヴォルデモート卿は静かにうなずき、マグカップと食べかけのパンをテーブルの上に置くと、杖を取り出した。
「さすが、僕の後継者」
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30000ヒットお礼、リクエストより。
がヴォルデモート卿のところへ。