茫然自失


 とんとん、と扉を二度たたいた。
 しばらく答えがなかったけれど、少し経つと扉が音を立てて開いた。
 中から青ざめた顔で震えたハグリッドが出てきた。

 「……
 「何かが起きるような予感がしたんだ。中に入れてもらえないかな、ハグリッド」

 優しい笑みを浮かべたに、ハグリッドは何も言わずに一歩下がった。
 ありがとう、というとはハグリッドの小屋に入った。後から俺も続いた。
 俺たちが入ったのを確認すると、ハグリッドは扉を閉めた。
 外はまだ明るいから、生徒が抜け出してはいけない時間ではなかった。
 何か指摘されれば、いくらでも弁解ができるような状態だったから、俺は大して心配もせずのもとに居た。



 ここに来る少し前、が言った。
 今夜、大切なことが起こると。
 だから夕食前にそっと部屋を抜け出したんだ。
 去年のこともあるからに迷惑はかけられない、とは俺に囁き、には何も告げずに出てきてしまった。
 日は、もうすぐ山の陰に隠れ、夜の闇が空いっぱいに広がり始めていた。

 「……茶でも飲むか?」
 「気を使わなくていいよ、ハグリッド」

 やかんに伸びたハグリッドの手はぶるぶる震えていた。危なっかしい。
 ハグリッドをこんな状態にしたのは、バックビークの処刑という事件なんだろうなぁと思う。
 談話室でドラコが得意げに話しているのを聞いてしまったんだ。
 はヒッポグリフを好いていたから、の胸も痛んでいるだろう。
 それでも、一番胸を痛めているであろうハグリッドの元に足を運ぶ、そのの優しさに俺は驚いた。

 は何も言わない。
 ハグリッドも何も言わない。
 けれど、この二人の間に気まずい沈黙が流れているわけでは決してない。
 は言葉なしでハグリッドの気持ちを汲んでいるんだろう。
 つくづくはすごい奴だと思うよ。

 とんとん

 扉がノックされた。
 窓の外はもう日が落ちて暗くなっている。

 (…さぁ、厄介な宴の始まりだよ)
v  俺の耳元に唇を寄せて小さな声で囁く
 ハグリッドが大きな体をゆっくりと起こし、震えておぼつかない足取りで扉の前まで歩いていった。
 きぃ、と音を立てて扉を開けたけれど、そこには誰も立っていなかった。
 ふふふ、とが軽く声を立てて笑った。

 「来ちゃなんねえだろうが!」

 ハグリッドは誰かにそうつぶやきながらも、一歩下がった。
 それから急いで扉を閉める。
 今まで誰も居なかった空間からいきなり、ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人の姿が現れた。

 「「「……っ?!」」」

 部屋を見渡していた三人の目にの姿がとまったとたん、三人は声を揃えての名を叫んだ。
 の細い指が唇の前にあてられ、静かに、という合図を三人に送っている。それでもは笑顔だ。

 「どうしてここにいるの?もう日が暮れたから生徒は外に出ちゃ駄目な時間だよ?!」
 「その言葉、そっくり君たちにお返しするよ、ハリー」
 「あ……えっと、その……」
 「理由はいいよ。なんとなく解ってるから、さ」

 優しく微笑んだに、三人もそろって笑顔を見せた。
 けれど、ハグリッドのほうを振り返った三人は、表情を変えた。
 ハグリッドは涙を流してはいなかった。けれど、三人の首っ玉にかじりついてもいかない。
 茫然自失のハグリッドを見ているのは、きっと彼の涙を見るよりも辛いものだと思う。
 ハリーたちからしばらく言葉もなかった。

 「茶、飲むか?」

 やかんのほうに伸びたハグリッドのでっかい手は、に同じことを尋ねたときと同じようにぶるぶる震えていた。

 「ハグリッド、バックビークはどこなの?」

 ハーマイオニーが躊躇いがちに聞いた。

 「俺―俺、あいつを外に出してやった」

 ハグリッドはミルクを容器に注ごうとして、テーブルいっぱいにこぼした。
 すかさずが指をぱちんと鳴らした。
 ミルクがテーブルの端から滴り落ちて床を汚す前に、そしてまた滴ったミルクがみんなのローブを汚す前に、ミルクは見る間に容器の中に戻っていった。

 「俺のかぼちゃ畑さ、繋いでやった。木やなんか見たほうがいいだろうし……新鮮な空気も吸わせて……その後で……」

 バックビークの最期を想像してしまったのだろうか。
 ハグリッドの手が激しく震え、もっていたミルク入れが手から滑り落ち、粉々になって床に飛び散った。
 もう一度が指をぱちんと鳴らした。
 粉々になったミルク入れは元の形に戻って、いつの間にかテーブルの上に置かれていた。
 床にこぼれていたはずのミルクも、しっかりミルク入れの中に戻っていた。

 「私がやるわ、ハグリッド」

 の行動に舌を巻きつつも、ハーマイオニーがテーブルの上に置かれたミルク入れを手にした。
 ハグリッドはすわりこんで袖で額を拭った。
 ハリーがちらりとロンを見たけれど、二人ともどうしようもないという顔つきだった。
 それから二人はのほうを向いた。
 はため息をついてから、ゆっくりと唇を動かし始めた。

 「……ハグリッドは、バックビークのために最大限の努力をしたと思う。けれど、相手が悪かったように思う」

 案外は冷静な態度をとっていたと俺には思う。
 自身も心を痛めているんじゃないかと思うんだけれど、の口から出てきた言葉は冷静だった。

 「ハグリッド、誰でもいい、何でもいいから、できることはないの?」

 ハリーがハグリッドと並んで座り、語気を強めて聞いた。

 「ダンブルドアは……」
 「ダンブルドアは努力なさった。だけんど、委員会の決定を覆す力はお持ちじゃねえ。ダンブルドアは連中に、バックビークは大丈夫だって言いなさった。だけんど、連中は怖気づいて……ルシウス・マルフォイがどんなやつか知っておろう。連中を脅したんだ。そうなんだ……そんで、処刑人のマクネアはマルフォイの昔っからのダチだし……だけんど、あっという間にすっぱりいく。俺が傍についててやるし……」

 ごくりとつばを飲みこんだ。
 その音が嫌に部屋の中に響き渡っていた。
 ハグリッドの眼はわずかの望み、慰めのかけらを求めるかのように小屋のあちこちを虚ろに彷徨っていた。
 その姿は気の毒で仕方がなかった。
 みんな、黙ってハグリッドの話を聞いていることしか出来なかったように思う。

 「ダンブルドアがおいでなさる。ことが…事が行われるときに。今朝手紙を下さった。俺の…俺の傍に居たいとおっしゃる。偉大なお方だ、ダンブルドアは…」

 ミルクを注ぐカップを探しにハグリッドの戸棚をかき回していたハーマイオニーが、こらえきれずに、小さく、短く、啜り泣きを漏らした。

 が俺の耳元にまた顔を近づけた。

 (…。戸棚の中に、ミルク入れがあるんだ。それを持ってきてくれるかい?)

 囁き終わると、は俺の首筋をわさわさとなでた。
 俺はすっと立ち上がると、に言われたとおり戸棚の中を見回し始めた。
 俺と入れ違いに、ハーマイオニーは人数分のカップを手にして、背筋を伸ばして涙をこらえながら、テーブルのほうに戻っていった。

 「ハグリッド、私達もあなたと一緒にいるわ。……勿論、も、よね?」

 は返事の代わりにやんわりとした笑みを浮かべた。
 一瞬ハグリッドは顔を上げたけれど、もじゃもじゃした頭を横に振った。

 「おまえさんたちは城さ戻るんだ。言っただろうが、おまえさんたちにゃ見せたくねえ。それに、初めっから、ここさきてはなんねえんだ……ファッジやダンブルドアが、おまえさんたちが許可ももらわずに外に居るのを見つけたら、ハリー、おまえさん、厄介なことになるぞ」

 俺は戸棚に顔を突っ込んで、曇ったハグリッドの声を聞いていた。
 けれども、戸棚の中はがちゃがちゃと変な音で煩くて、みんなの声が聞きづらかった。
 やっと、テーブルの上においてあるミルクいれと同じものを見つけた俺は、それを銜えた。
 そのミルク入れは少し重かった。
 持ち上げて安定がなくなると、中からきゅぅと変な音がした。
 がたがたと震えるし、ちょっとでも気を許せば、俺の口から逃げ出してしまいそうなほどに、勝手にがたがたゆれている。
 …まるで、生きているみたいだ。
 そのミルク入れをのもとに持っていくと、はありがとうと微笑んで俺の体をなでてくれた。
 のために何かをするのはとてもいい気分だと思った。

 は動き出しそうなミルク入れを手に取ると、呆れたため息をつき、涙を流しながらそれをハグリッドに見せないよう、忙しくお茶の準備をしているハーマイオニーを呼び寄せた。

 「…どうかしたの、
 「君が一番気にしていたことの答えが、このミルク入れの中にあるよ、ハーマイオニー」
 「え?」
 「とにかく、テーブルの上でミルク入れのふたを取ってみるといいよ」

 がぱちりとウインクをすると、ハーマイオニーは訳がわからないという顔つきのまま、言われたとおりテーブルの上でミルク入れのふたを取った。

 「ロン!し…信じられないわ…スキャバーズよ!」

 ふたを取って中身を見たハーマイオニーは突然声を上げた。
 あまりの驚きに流れていた涙も引っ込んでしまったようだった。
 はハーマイオニーの様子を見て笑みを浮かべていた。


 スキャバーズはクルックシャンクスに食べられてしまったんだ、と。
 ロンはそれをずっと信じていた。
 一時期ハーマイオニーと口をきかないほどだった。
 それがハーマイオニーを苦しめている原因でもあったんだけれども……
 俺は、クルックシャンクス本人から、ねずみは食べていないっていうことを聞いた。
 それに、もクルックシャンクスはねずみを食べていないって言っていた。
 そうか。スキャバーズってばこんなところに隠れていたのか。
 いくらロンが探しても見つからないはずだ。
 だけど、どうしてスキャバーズはここに逃げ込む必要があったんだろう。
 クルックシャンクスに追いかけられたからか?それとも、ほかに何か深い理由があるんだろうか。

 …いや。
 きっと俺のそんな疑問は、全部が答えを知っていると……俺はそれをよくわかってる。

 「何を言ってるんだい?」

 ハーマイオニーはテーブルの上にミルク入れを置いてひっくり返した。
 キーキー大騒ぎしながら、ミルク入れの中に戻ろうともがいているねずみのスキャバーズが、テーブルの上に滑り落ちてきた。

 「スキャバーズ!」

 ロンはあっけにとられてスキャバーズの名を叫んだ。

 「スキャバーズ、こんなところで、いったい何してるんだ?」

 じたばたするスキャバーズをロンはわしづかみにし、灯りにかざした。スキャバーズはボロボロだった。
 前からそんなに綺麗なねずみではなかったけれども、今のスキャバーズは、前よりもやせこけ、毛がばっさり抜けてあちらこちらが大きくはげている。しかも、ロンの手の中で必死に逃げようとするかのように身をよじっている。

 「大丈夫だってば、スキャバーズ。猫はいないよ!ここにはおまえを傷つけるものは何もないんだから!」

 それでもなおスキャバーズは暴れていた。
 ふっ、とが呆れた表情を浮かべた。
 いつものように過去を見るような遠い瞳でスキャバーズを見つめ、そこから何かを連想しているようだ。
 俺にはそれがなんなのかまったくわからないけれど、でもたぶん、今回のことに密接に関わっているんじゃないかと思う。

 「連中が来おった……」

 ハグリッドが急に立ち上がった。眼は窓に釘付けになり、いつもの赤ら顔が羊皮紙色になっていた。
 ハリー、ロン、ハーマイオニーが振り向いた。
 俺は窓が見える位置にある椅子に飛び乗って窓の外を見た。

 は椅子に座って足を組んだまま、静かにその状況を見つめていた。

 遠くの城の階段を何人かが降りてきている。
 先頭は白い長いひげを生やしたアルバス・ダンブルドア校長だ。
 その隣をせかせか歩いているのは、おそらくコーネリウス・ファッジだろう。
 二人の後ろには委員会のメンバーの大年寄りがやってきていて、その横には死刑執行人と思われる人物がいる。

 すっ、とが立ち上がった。

 「行こう。ハグリッド、裏口から皆を外に」
 「あ、ああ。おまえさんら、行かねばなんねえ」

 ハグリッドは体の隅々まで震えていた。
 やっとのことで搾り出した声でハリーたちを急かし始めた。

 「ここにいるとこを連中に見つかっちゃなんねえ……行け、はよう……」

 ロンがスキャバーズをポケットに押し込み、ハーマイオニーは「マント」を取り上げた。
 ハグリッドてゃ皆を裏庭に連れ出した。
 一番後ろにと俺が居る。
 ほんの数メートル先、かぼちゃ畑の後ろにある木に繋がれているバックビークは、何かが起こっていることを察しているらしい。
 猛々しい頭を左右に振り、不安げに地面を掻いている。

 「…大丈夫だ、ビーキー」

 ハグリッドが優しく言った。
 それから俺たちのほうを振り返り、行け、といった。
 は禁じられた森のほうを振り返った。
 白い影がだんだん大きくなっている。
 ハリーたちはその場を動こうとしなかった。
 は気になることがあるのか、俺を近くに呼び寄せた。

 「……僕は先に行くよ。気がかりなことがあるんだ」
 「ああ、それがいい。お前さんたちは見せたくねえ。さあ、ハリーたち、お前さんたちもはよう……」

 人目につかないよう、は俺の背に乗った。
 ローブで体をすっぽり覆うと、禁じられた森のほうに走れと俺に指示を出す。
 誰もこちらを見ていないことを確認すると、俺はゆっくりと駆け出した。



 後ろのほうでハリーたちの声が聞こえる。

 「どうしてあんなに冷静なんだろうね、は」
 「ハグリッド、やっぱりそんなこと出来ないよ」
 「あの連中に、本当は何があったのか話すよ」
 「バックビークを殺すなんて、ダメよ」
 「行け!おまえさんたちが面倒なことになったら、ますます困る。そんでなくても最悪なんだ!」

 声はだんだん小さくなっていった。
 逆に禁じられた森の入り口でを待つ白大鷹の姿はだんだん大きくなっていく。















  待ッテイタ


 白大鷹はに顔を寄せた。
 がその頭を優しくなでながら、彼の言葉に真剣に耳を傾けている。

 「今夜、か」

 聞イタ 黒イ犬ハ 言ッタ “カツテノ 場所ニ 行ク 必要ガ アル”

 「そう……ほかには何か気にかかることがあったかい?」

 暴レ柳ノ下 ネズミ

 「ありがとう。きっと彼の心が決まったんだろうね」

 危険ダ

 「そうだね……とっても危険なことさ。でも、これは僕にとても関わることだから、いかなくちゃならないよ」

 白大鷹は不満げな声を上げた。
 でもの決心は変わらないだろう。
 白大鷹は軽くの指を甘噛みした。

 「…暴れ柳の下……あ、そうか…そこは彼らの……わかった。わざわざ連絡してくれてありがとう」

 気ヲツケテ

 「うん、ありがとう」

 くるると喉を鳴らすと、白大鷹はの腕から勢いよく飛び立った。
 は俺の体をさすった。
 そして囁く。
 俺は軽く頷くと、指示された場所に行くためにまた駆け出した。






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 さぁ、もう少しでこの話の全貌が明らかになる?!