解かれた糸


 「その必要はないじゃろう、

 珍しく普通のローブを着た校長が静かにそういうと、は困惑した表情で顔を上げた。
 校長は笑顔でを見つめ、の頭に軽く手を触れた。

 「忘却術は一時的なもの。思いが強ければいずれ思い出してしまうじゃろう。殊、ハリーに関しては……ヴォルデモート卿に対する思いが強いからの。誰がいつまた君の出生について語ってしまうかわからない…そんな苦しい思いのまま、ホグワーツにいたいかね?」
 「でも先生…このことが外部に知られれば、僕はホグワーツにいられなくなってしまいます……僕は、ここにいたいのに…」

 一粒、の目から雫が落ちた。の体が淡く光っている。
 俺はざらついた舌での頬を舐めた。
 の気持ちは痛いほどわかる。
 俺も、ここにいたい。ホグワーツはとても楽しいところだし魅力的だ。
 でも…正体が知られてしまった以上、このまま何食わぬ顔でここにいるのは難しいだろう。
 どの生徒の親もきっと…ヴォルデモート卿の血を引く生徒と一緒に生活してほしいなんて思わないはずだ。
 一部を除いては。

 「これこれ、泣くでない。誰もここから追い出そうなんてしていないのだから」

 校長の笑みはやさしい。でもはそういわれても苦しそうな表情のままだ。

 「さて…君は今、ホグワーツの三年生だね?」
 「え…は、はい」
 「ヴォルデモート卿がハリー・ポッターによって消滅寸前にまでなったとき…君もハリーと同じくらいの幼子だったということになる。そうじゃね?」

 だとすると…と、校長は続けた。いったい何が言いたいのだろう。

 「では、もし仮にがヴォルデモート卿の息子だったとして…その証拠はいったいどこに?君は確かに、星見の子ではあるけれども…は君の父親について、一言も語ったことがない。ハリーに倒される前のヴォルデモート卿といえば、マグル一掃だの闇の魔術だのと大忙し…彼が色恋沙汰に時間を割いていたとは思えないのじゃがね。そして…計算も合わない

 は目を見開いた。落ち着いたのか、体の光はいつの間にか消えていた。

 「…、この世にはたくさんの憶測が飛び交っている。中には真実もあるし、まったくのでたらめもあるじゃろう。しかし…わしは思うのじゃよ。真実にせよでたらめにせよ、大切なのは本人が事実を知っていると言うことだろうと…」
 「校長…」
 「わしは真実を知らん、と言うことじゃ。本人が本当のことを知っていれば、それでいいと思わないかね?、君がヴォルデモート卿の息子である‘確かな証拠’はない。どうじゃね?」

 茶目っ気たっぷりな瞳で校長はを見つめていた。
 はぎゅっと俺を抱きしめた。
 の体は小さく震えていたけれど、それが悲しみからきたものではないということはよくわかった。
 顔を上げたは、涙をぬぐっていつもの笑顔を見せてくれた。

 「さて、忘却術の必要は無くなった。けれど、何か別のことをするためにここに来たとも考えられんかね?」
 「別の…こと?」
 「例えば、じゃな。誰かの命をすくいにきた、とかのう…」

 がはっと顔を上げた。同時に、校長室の扉が二度ほどノックされた。ダンブルドアが返事をすると、扉はゆっくり開かれた。
 …扉の外に、見たことあるやつらが立っていた。一人は斧も持っている。
 が席を立ち、校長に会釈した。

 「それでは先生、僕はこれで。ちょうどお客様もお見えのようですし」

 の紅い瞳が、何かを決意した色をしていた。
 の後に続いて部屋を出て行く。
 途中、斧を持った男とすれ違ったとき、彼の目が怪しく光ったように感じた…が、が動揺することは無かった。
 ぱたん、と扉が閉まる音がした。

 「彼らはバックビークを…」

 彼らが部屋を出てきても見つからないように、とは校長室から少し離れたところまで進んでから立ち止まった。
 なんだか難しい顔をしている。

 「難しいね。今の時間、‘本来の僕’はハグリッドの小屋で話をしているはず。ハリーやロンやハーマイオニーと。そこでスキャバーズをみつけて…そうだ。僕は小屋の裏口から出て、禁じられた森の白大鷹に会った。…待って、もし間に合うとしたら?‘僕’が禁じられた森に行った後なら、僕が‘僕’に見られることはなくて……ああ、難しい」

 がまた歩き出した。どうやら行く場所を決めたみたいだった。俺はに従って歩いていく。
 ホグワーツを出てハグリッドの小屋に向かうようだ。日が沈みかけてきた。
 誰かに見られないようそっと歩いていく。でも、誰もいない。

 「バックビークを助けたいんだ。あの時、僕らは窓側にいたね、。そして僕は自分がかぼちゃ畑を通るところを‘見てない’んだから…あっちだ」

 温室を指差した。なるほど、あそこをとれば、ハグリッドの小屋から見えることはない、か。

 「え…」

 が立ち止まった。俺も止まった。
 信じられないことが目の前で起こった。
 いや、俺たちが時間を移動してきているんだ。信じられないわけじゃないけれど…それでも、驚くべきことが起きている。
 温室をハリーとハーマイオニーが全速力で駆け抜けたのだ。そこに、ロンの姿はない。
 ふふっと、が声を出して微笑した。

 「なるほど。それならバックビークは彼らにまかせるよ、校長。では僕が救うべき命は…?」

 それからは首をかしげている俺を見て、また微笑んだ。

 「、温室を通り抜けたのは、僕と同じハリーとハーマイオニーさ。この時間、ここにいるはずの無い人間だ。…そういえば、ハーマイオニーは時間を移動するのに慣れていたね。きっと、彼らもバックビークを助けるために来たんだよ」

 俺の首を優しくなでるの手。なるほど、そういうことか……
 ハーマイオニーは、今年になってずっと、どこかで突然消えてしまうと言うことをやらかしていた。
 同じ時間に二つの授業に同時出席をするってことも…その正体が、時間移動ってことか…

 「でもそうなると…僕は何をするためにここに来てしまったんだろう。禁じられた森にはいけないし、星のお告げはあの時、暴れ柳の下で彼らがそろうといっていたけれど…」

 <おや、珍しいやつがいると思ったら、お前か>

 がさりと足元の草がゆれた。と俺が振り返る。声がする…クルックシャンクスの声だ。
 がしゃがみこんでクルックシャンクスを抱き上げた。

 「クルックシャンクスか…そうか。そうだったのか…あの時、クルックシャンクスがあそこにいたのも、シリウス・ブラックが出てきたのも……なるほど…」

 が笑顔になった。やさしくクルックシャンクスをなでている。
 、俺も、俺も。

 「こんにちは、クルックシャンクス。君にお願いがあるんだ」

 <ふむ。君の主は賢いね。俺のことを良くわかっている>

 「もう少ししたら、ハグリッドの小屋からハリー、ハーマイオニー、ロンが出てくる。ロンは、君やシリウス・ブラックが探しているねずみをつれている。…僕の言いたいことが君に伝わるといいんだけど。禁じられた森からシリウス・ブラックを連れ出すんだ。そして、ねずみを捕まえ…暴れ柳の下に連れて行くといいだろう。君はシリウス・ブラックに教えてもらったかもしれないね。暴れ柳の下にあるコブに触れると、柳が動かなくなるってことを。ハリーたちが危険な目にあったら助けてあげてほしいんだ。‘僕’もすぐ駆けつけるから」

 <ねずみか。今もねずみを探しにここにきていた。なるほど、ちょうどいい。引き受けよう>

 クルックシャンクスはしっかりした声で鳴いた。は満足げに彼の全身をなでた。
 俺をチラッと見てクルックシャンクスはまた鳴いた。

 <いいじゃないか。お前はいつでも と一緒にいられるんだ。  ハーマイオニーは最近ぴりぴりしていてな。彼女のことは大好きだが、やはりこうして優しくなでられるのが  恋しくなるときもある。そんな恨めしそうな目で俺を見るなよ>

 それでもやっぱり俺は、がほかの動物とずっと触れ合っているのを見ると嫉妬してしまう。
 は俺のだ。

 「君はとても賢いね、クルックシャンクス。任せたよ」

 がクルックシャンクスを地に下ろすと、彼は独特の足取りで禁じられた森の方向へ堂々と駆けていった。
 その姿を見て、が安心したように深く息を吐いた。

 「過去を変えずに命を救う。難しいことだね、

 俺の背中にがもたれかかった。疲れているみたいだ。

 「さて、と。暴れ柳の下を通って、彼らが来る前にあそこに戻らなくちゃ。僕が手を放したとき、ハリーは僕にまったく気づかなかった。…どうしてだと思う、。‘僕’と僕が入れ替わったのさ、きっと」

 俺たちは人目を避けて暴れ柳の下に向かった。






























 さて。今俺たちと扉一枚はさんだ向こう側では、‘俺たち’が言い合いを続けている。
 なんとも妙な感覚だ。ハリーの荒ぶった声、シリウスの声。
 それにルーピン先生もいるし、ロンもハーマイオニーもいる。もちろんの声もする。
 つい先ほど入っていったスネイプ教授は、ハーマイオニーたちの魔法でのびてしまった……
 どれも、俺が目の前で体験したことだ。それがこの扉の向こう側で行われている。なんだか面白すぎるよ。

 「ああ…若様…」

 中からそんな声が聞こえてくる。中にいると同様、外にいるも嫌悪の表情をした。
 物語もそろそろ終わりに近づいた。

 「そろそろだね。部屋からみんなが出てくる。出てきて…そしてハリーが戻って僕の手を握る。僕は握った手を放す…ハリーは部屋を出て行き、僕は一人になる……でもどうして僕が時空を移動したんだろう…」

 はいきなり額を押さえた。いったいどうしたんだろう。心配だ。
 の目は、何か遠くのものを見つめているかのようだ。

 「こいつはアズカバンに行けばいいんだ。あそこがふさわしい者がいるとしたら、こいつしかいない…」

 中からそんな声が聞こえてくる。ああ、もう少ししたらこの扉が開いてみんなが出てくる。
 もう少し奥へ隠れないと、俺たちも見つかってしまう。

 「ああ、大丈夫だよ、。扉の後ろ側へ回ろう。僕、この後何かとても悪いことが起きるような気がするんだ。何か、そのために僕が入れ替わったような……」

 扉が開いたとき、俺たちの姿が見えないような位置に移動した。
 はその間もずっと何かを深く考えているようだった。顔色が優れない。大丈夫だろうか……

 「そうか…そうだったんだ」

 扉が開いた。
 まずクルックシャンクス。そして、ルーピン先生、ピーター・ペティグリュー、ロンの三人がつながったままで出てきた。
次に首の据わらない人形のようになったスネイプ教授、そしてシリウス・ブラック。
 最後にハーマイオニーとハリーが出てきた。

 「ハリー、どうしたの?」
 「…を呼んでくるよ。僕、にひどいことを……」

 ハリーが部屋に戻った。が外に出る準備を始める。
 そのとき、の右手が硬く握られているのに気がついた。何かを持っている。

 「、夏休みにサラザールにもらった石を覚えているかい。これはあのときの石だよ。僕が‘僕’を過去へ飛ばしたんだ……いや、僕が手助けをした、と言うべきかな。この石を部屋に転がすんだ。それだけ。後は、僕の強い思いを石が吸い取って、過去へ遡らせる。……たぶん、このまま、みんなの後をついていっても、あのときの僕のままじゃ、この先に起こることに対応できないんだよ。だから…僕はここにいるんだ…」

 ハリーが出てきた。すかさずが外に出て、ハリーの手を握りなおす。
 同時に、部屋の中に石を転がして扉を閉めた。…これでと‘’が入れ替わったわけだ。
 ハリーは気にも留めずに外に向かって歩き出した。ハーマイオニーの後姿を追っている。
 俺たちは何も言わずについていく。

 「これがどういうことなのか、わかるかい?」

 前のほうからシリウス・ブラックの声がした。ハリーに話しかけているようだ。

 「ペティグリューを引き渡すということが」
 「あなたが自由の身になる」
 「そうだ…」

 シリウスが続けた。はやんわりとした笑みを浮かべていた。

 「もちろん、君がおじさんやおばさんとこのまま一緒に暮らしたいというなら、その気持ちは良くわかるつもりだ。しかし…まぁ…考えてくれないか。私の汚名が晴れたら…もし君が…別の家族がほしいと思うなら…」
 「えっ…?あなたと暮らすの?ダーズリー一家と別れるの?」
 「むろん、君はそんなことは望まないだろうと思ったが…」
 「とんでもない!もちろん、ダーズリーのところなんか出たいです!住む家はありますか?僕、いつ引っ越せますか?」
 「そうしたいのかい?本気で?」
 「ええ、本気です!」

 後ろにいてもわかる。シリウス・ブラックのげっそりした顔が笑顔になった。
 トンネルの中は暗いけれど、シリウス・ブラックとハリーのいる場所だけ明るくなったようだ。
 それからトンネルの出口に着くまで、誰も何も話さなかった。クルックシャンクスが最初に外に飛び出し、木の幹のコブを押したらしい。暴れ柳は動かない。
 シリウス・ブラックがスネイプ教授を穴の外に送り出した。それから一歩下がって、ハリーとハーマイオニーを先に外に出した。そして、俺たちにも先にいけ、と合図した。

 「…」
 「ん?どうしたの、シリウス・ブラック」
 「感謝してるよ、。まさかハリーと暮らせるようになるとは思わなかった…」

 は穴の外に出ながら言った。

 「まだだよ、シリウス・ブラック。あなたの無実を証明してからだ」
 「…ああ、そうだな」

 が外に出た。俺とシリウス・ブラックも後に続き、ついに全員が外に出た。
 校庭はすでに真っ暗だった。遠くに城の窓からもれる灯が見える。
 それが唯一の明かりといってもいいくらい、外は暗い。
 前のほうからぜいぜいと息をしているピーター・ペティグリューの声が聞こえている。

 「…まずい」

 空を見上げていたがつぶやいた。雲が切れ始め、星が見え隠れしていた。
 不安そうにを見上げると、は前を歩くルーピン先生を見つめていた。
 雲が切れた。
 俺たちは月明かりを浴びていた。ルーピン先生の黒い影が硬直し、手足が震えだしていた。

 「どうしましょう……あの薬を今夜飲んでないわ!危険よ!」

 ハーマイオニーが絶句した。が青白い顔をしていた……






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 つまり、そういうことだったんです。