だから、ここに


 目の前で、ルーピン先生の姿がどんどん変わっていく。
 ハリーもハーマイオニーも呆然として先生を見つめている。
 シリウス・ブラックだけが、事の重大さを理解しているような目をして彼を見ていた。
 俺はを見上げた。俺くらい体の大きい動物なら、ルーピン先生を捕まえることも不可能じゃない。
 だけど、今俺が動向どうすべきなのかわからない。俺は、に指示を仰いだ。
 は…ルーピン先生ではなく彼とつながったままの二人を見つめていた。

 「逃げろ」

 シリウス・ブラックの低く強い声がした。ハーマイオニーが後ろに下がった。でもハリーは動かない。
 いや、ハリーはロンを助けようとしたのか、シリウス・ブラックの前に飛び出した。危険だっ!

 「わたしに任せて…逃げるんだ!

 ハリーをシリウス・ブラックが押し戻した。
 目の前では、すでに狼人間と化したルーピン先生がこちらを向いて唸っていた。
 クルックシャンクスがの元に駆け寄った。毛が逆立ち震えている。俺も…少し恐怖を覚えていた。

 「、ハリーとハーマイオニーを連れて行け!早く!」
 「…わかった。あなたに任せるよ、シリウス・ブラック」

 の目は真剣だった。クルックシャンクスを抱きかかえたは、ハリーとハーマイオニーを城のほうへ向かわせようとした。
 がちゃり、と金属音がした。狼人間が手錠を捻じ切ったのだ。
 それと同時に大きな犬が、狼人間の首に食らいついて後ろに引き戻し、ロンやペティグリューから遠ざけた。

 「ハーマイオニー、早く向こうへ」
 「え、ええ。でも、ロンが…」
 「…僕に任せて。だから君は向こうへ」

 の顔が青ざめている。雲が切れ、星が顔を出している。
 …きっと、にはたくさんの星の声が聞こえているんだろう。

 「なっ?!やめろ、ピーター・ペティグリュー!」

 が叫んだ。ハーマイオニーが悲鳴を上げた。
 ピーター・ペティグリューは、ルーピン先生が落とした杖に飛びついていた。衝撃で、ロンが転倒した。
 俺は見た。ピーター・ペティグリューが何か呪文を唱えるのを。同時にが、ロンの周りにやわらかい光を作り出したのを。
 ばん、という音と炸裂する光……ロンは倒れたまま動かなくなった。

 「Expelliarmus!」

 ハリーの声がした。ルーピン先生の杖が空中に高々と舞い上がり、見えなくなった。

 「アズカバンに送られるなんてごめんさ。若様いずれまたお会いしましょう」
 「待て!」

 遅かった。俺が彼をこの目でしっかり捉えたときにはもう、ピーター・ペティグリューは変身を終えていた。
 禿げた尻尾が手錠をすり抜けた。そして草むらをあわてて走り去る音がした。
 がロンに駆け寄った。

 「、ロンは大丈夫?!」
 「…生きてるよ…よかった……でも、しばらく意識は戻りそうにないな」
 「シリウス、あいつが逃げた。ペティグリューが変身した!」

 ハリーが大声を上げた。鼻づらと背中に深手を負っていたシリウス・ブラックがすばやく立ち上がった。
 だけど、つらそうだ。血が滴る音がした。が心配そうに走り去るシリウス・ブラックを見つめていた。
 残ったのは、ハリーとハーマイオニー。
 そして宙吊りになって気を失っているスネイプ教授とピーター・ペティグリューの魔法を食らったロンだ。

 「二人を城まで連れて行って、誰かに話をしないと…」

 目にかかった髪を掻きあげながらハリーが言った。
 がシリウス・ブラックの走り去った方向をじっと見つめていた。
 …すぐに、きゃんきゃんと苦痛を訴えるような犬の鳴き声が聞こえてきた。

 「「シリウス・ブラック…」」

 とハリーが同時につぶやいた。ハリーはを見た。もハリーを見た。
 二人は同時にうなずいて走りだした。ハーマイオニーがやや遅れて二人に続いた。
 シリウス・ブラックが窮地に陥っている……

 「この気配は…まさか……」

 全力で走りながらがつぶやいた。ハリーとハーマイオニーは気づいているのだろうか。
 俺はの感じた気配に気がついた。
 …寒いんだ。風を切るくらいの速さで走っているから、じゃない。
 心の中まで凍らせるような…そんな寒さだ。

 「やめろおおお

 湖のほとりに辿りついたとき、犬の鳴き声ではなく、人の姿に戻ったシリウス・ブラックの呻き声を聞いた。
 うずくまって両手で頭を抱えている。

 「やめてくれええええ…頼む…」
 「吸魂鬼…」

 の呟きがする。湖の周りから滑るように近づいてくる黒い塊……少なくとも百人はいる。
 の手がほんの少し震えていた。
 氷のようにつめたい感覚が体の中を駆け巡る。
 …俺は人間よりも思考回路が安定していないからこの程度で済んでいるのかもしれない。
 ハリーがハーマイオニーに何か叫んでいた。四方八方から次々と吸魂鬼が現れていた。
 俺たちを包囲している…

 「Expecto patronum!」

 杖を吸魂鬼に向けてハリーが叫んだ。…でも、守護霊は形にならない。
 気持ち悪かった。体の中が寒くて凍えそうで…俺は必死の思いでの足元にくっついた。
 からは離れない。俺がを守るんだ。
 最初にハーマイオニーが気を失って地面に倒れた。
 ハリーも両膝を地面につけ、いっぱいいっぱいの状態だった。

 「戻れ!彼は…彼は無実だ!」

 も吸魂鬼に向かって叫んだ…が、大勢になって気が大きくなった吸魂鬼たちは、の言うことを聞かなかった。

 「Expecto patronum!」

 ハリーの喘ぐような声。弱弱しい銀色の光が現れた。
 完璧な守護霊ではなかったが、吸魂鬼たちが立ち止まった。
 ヌメヌメした死人のような手がマントの下から伸びてきて、守護霊を振り払うかのような仕草をした。
 ついにも片膝を地についた。


 やがて、ハリーの弱弱しい守護霊も果てた。
 真っ白な霧が辺りを覆った。体中を冷たい感覚が這い回っていた。
 気を抜けば、俺だってこの場でのたうちまわっている。だから、ハリーもも俺よりも辛いはずだ……

 「…あれは…!!」

 一瞬が声を出した。吸魂鬼たちの、その後ろにあるはずの森の方向を見つめている。
 が深く息を吸い込んだ。
 、ハリーがっ!!
 が地に両膝をつけた。隣で、吸魂鬼がハリーの首にがっちりと巻きついていた。

 「ハリー!いまだっ!!」

 あらん限りの力でが叫んだ。
 地についた両手から淡い光が辺り一帯に広がって、白い霧を晴らした。
 吸魂鬼が一瞬ひるんだ。
 …そして、俺は見た。銀色の完全な守護霊と、それを出したであろう人物、ハリー・ポッターを……
 がくり、という音が聞こえた。ハリーが倒れていた。
 でも、もう吸魂鬼はいない。
 もう一人のハリー・ポッターが追い払った。……さすが、ハリー。

 は?

 全身に暖かさが戻ってきた。俺は首を上げてを見上げた。疲れ切って青ざめた顔をしている。
 息も荒い。でも、の手が優しく俺の首筋に触れた。

 「も…見たよね。さすがハリー・ポッターだよ。見事な守護霊だった。…後は、彼らに任せようか、。僕はもう疲れたよ……」

 あの時霧を晴らした淡い光。がどれだけの魔力を使ったのか……の頬に俺は頬を寄せた。
 ああ、。後は向こう岸にいるハリーとハーマイオニーに任せよう。俺たちがあの時入れ替わったのは、きっとこのためだったんだ。休もう、
 の頬をひと舐めして、俺は目を瞑った。

 「ハリー、ハーマイオニー、シリウス・ブラックを頼んだよ…」

 の声が聞こえた。下草の湿り加減がなぜか気持ちいい。
 …俺の体にの重さが加わる。
 だんだん意識が遠くなっていくのが自分でもわかった。でも、もうこれで大丈夫。気持ち悪さも恐怖もない。
 あるのは大好きなの温もり。それだけで充分だ……




































 体が温かい。いい匂いもする。
 うっすらと目を開けると、紅い瞳と目が合った。
 のやさしい笑みが目の前にあって、俺はなんだか幸せな気分になった。
 のっそり起き上がって周りを見た。カーテンで仕切られた寝台の上だ。少し薬品の鼻につく匂いもある。
 …そうか、ここは医務室だ。はまだだるいのか、上を向いたまま片手で俺の体をなでていた。

 「…起きてるか?」

 カーテンの外から声がした。
 の返事を待たずに、花や果物を両手いっぱい抱えたが入ってきた。
 の目が少し光を取り戻した。
 けだるそうに、ゆっくりと上半身を起こす。…無理はするなよ?

 「みんなからのお見舞い品さ。こんなにいっぱいじゃ置く場所がないな…」
 「本当だ。こんなにたくさんの花に果物……嬉しいな」
 「嬉しい、だって?死んでしまうかもしれないほど危険なことをしたんだ。君はもう少し自分自身の事を考えたほうがいい」

 がむっとした表情でを見ている。
 の足元にいたニトは、寝台に飛び乗り、俺の体に擦り寄ってきた。
 くすぐったいって、ニト。
 …俺も、会えて嬉しいよ。心配してくれてありがとう。

 「りんごでも食べるかい?」
 「…ん…でもまだあんまり食事をする気になれないんだ。なんだかすごく疲れてて…」
 「だったら、なおさら何か食べて体力をつけたほうがいい、
 「ありがとう、

 微笑んだに、が少し赤い顔をして目をそらす。
 りんごを手にしたは、用意していた果物ナイフで丁寧にりんごの皮をむいていく。

 ああ…日常が戻ってきた。

 「ね、。僕が気を失っていた間のことを話してくれないかい?あのあと、何があったの?」

 が静かに言った。俺も気になっていた。はきれいに切りそろえたりんごを皿の上に乗せ、それをの前に差し出しながら、深く息を吐いた。

 「…気を失った君と、ハリー・ポッター、ハーマイオニー・グレンジャー、ロナウド・ウィーズリーが医務室に運ばれた。スネイプ教授がね、連れてきたんだ。シリウス・ブラックは城の塔に閉じ込められた」

 りんごを手に取らないにもやもやしたのか、がりんごを一切れ手にしての口元に持っていった。は苦笑してそれを受け取った。

 「でも、バックビークも逃げていたし、シリウス・ブラックもどこかに逃げてしまった。スネイプ教授はハリー・ポッターの仕業だといっていたけれど、彼らは医務室にいたし、校長が鍵をかけていたから外に出ることも不可能だったわけで…今は、シリウス・ブラックがどうやって逃げたのかで城中憶測が飛び交ってるよ」

 は受け取ったりんごをなかなか口にしなかった。まだ食欲がわかないのかもしれない。

 「一口でいいよ、。何か口にしてくれないと心配だ」

 りんごを持った手が口元まで動く。何度かためらってから、は小さく一口りんごをかじった。
 俺もも安堵の息を漏らした。

 「で、同時にスネイプ教授が昨日の朝食時に、スリザリンの席で、ルーピン先生が狼人間であることを口にしたんだ。ルーピン先生は辞職して、ホグワーツを去っていったよ」

 の動きがほんの一瞬止まった。寂しそうな瞳でどこか遠くを見つめている。
 しばらく誰も何も言わなかった。
 ルーピン先生はみんなに好かれていたから、きっとみんな寂しがってるんだろうな、なんて俺は考えていた。

 「そっか…バックビークもシリウス・ブラックもうまく逃げたんだ。見事だね」
 「まったくだ。君は何か知ってるんじゃないのかい?また僕に黙って抜け出すなんて……どれだけ心配したと思ってるんだ。君が吸魂鬼に‘キス’されそうになったって……医務室で気を失ってるって聞いたとき、僕の心臓は破裂しそうだったよ」

 の目は赤く腫れていた。それを知ってか知らずか、は困ったような笑みを浮かべていた。

 「それからについての憶測も飛び交っている」
 「僕に…ついて?」
 「ああ。スネイプ教授の発言でルーピン先生が辞職したのが気に入らなかったのか、ロナウド・ウィーズリーが叫んでた。‘がヴォルデモート卿の後継者だ’ってね」

 が動きを止めた。の手からりんごが落ちた。
 りんごはニトの前に落ち、ニトは無邪気にそれにかじりついた。
 息を深く吸ってから、が口を開いた。

 「それで、みんなの反応は?」
 「…もちろん、一部の人間を除いてそれが事実だと知っているものはいないし、‘確かな証拠’もない。ダンブルドア校長ですら、君については確かな証拠はないと言っているし、大騒ぎにはなってないよ。……やっぱり、君、僕に何か隠してるね、。君がグリフィンドールのやつらに、君の父親について話すなんてとても思えない」
 「……」

 をじっと見つめていたが、やがて軽く息を吐いた。

 「…いいよ、。今はゆっくり休むべきだ。君は話したくなったら話してくれる」
 「……」

 がりんごをかじっているニトを抱き上げた。の体を寝台に横たえ、掛け布をかける。

 「マダム・ポンフリーには僕が言っておくよ。もう少し眠るといい。君、とっても疲れてるみたいだ」

 の姿がカーテンの向こう側に消えた。が天井を見つめていた。
 の頬に頬を寄せたら、が優しい瞳をして俺を見てくれた。眠たそうに目をこすっている。
 うん…俺もねむい。

 「もああ言ってくれたことだし、もう少し眠ろうか、。なんだか眠いよ…」

 が目を閉じた。俺も目を閉じた。






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 自分がすべきことをした後は、ゆっくり休むべきだと思う。