日常に向かう
汽笛の音がする。ホグワーツ特急が出発する。がくんと一瞬揺れた汽車は、緩やかに加速し始めた。
最後尾のコンパートメントに、二人と二匹。とが椅子にゆったり腰掛けている。
の足元に寝そべる俺と、俺の尻尾を追いかけて遊んでいるニト。
ほんの数日前の出来事がうそのように過ぎていった。
俺たちは、長い休暇を過ごすそれぞれの家へ向かっている。
「…それじゃあ、ピーター・ペティグリューはハリー・ポッターに命を助けられた、ということか」
「うん。もしかしたらハリーは後悔しているかもしれない。でも、ピーター・ペティグリューはこれで、ヴォルデモート卿からもっと信頼されなくなるわけで……なかなか複雑だと思わない?」
「魔法使いが魔法使いの命を救うとき、二人の間にはある種の絆が生まれる……ハリー・ポッターにはまだ理解しがたいことだろうな」
いつもの魔女がワゴンを引いてコンパートメントの前を通った。
が彼女に声をかけ、少量のお菓子と温かいコーヒーを買っていた。
もと同じものを手にしている。毎年のことだが、駅に着くまでずいぶん長い間暇だ。
「それにしても、君がシリウス・ブラックの逃走に手を貸していたとはね。驚いたよ」
不満そうなの表情に、はいつもの笑顔を向ける。
「…直接に関わったわけじゃないよ。直接動いたのはハリーとハーマイオニーさ。指示したのはおそらくダンブルドア校長だろう。ま、確かな証拠はないから、何とも言えないけれど」
「でも、どうして君は時間を遡ったんだい?…いや、どうして自分自身の時空移動を手助けする行為をしたんだい?」
がほんの少し声を潜めた。コーヒーを口にしていたが顔を上げた。
ニトは眠くなったのか、俺の鬣の近くで丸くなり、大きな欠伸をした。
汽車が駅に着くまで、まだしばらくありそうだ。
「自分でも、最初はよくわからなかった。時間を遡ってダンブルドア校長に会いに行ったら、彼は誰かの命を救いに時間を遡ったんじゃないか、といっていた。初めはバックビークを救うためだと思ってた」
「違ったのか?」
「さっきも話したように、ハリーとハーマイオニーも時間を遡ってやってきていた。バックビークを救ったのは彼らだし、シリウス・ブラックを救ったのも、おそらく彼らだ。…でもね、全てが終わってから、僕は自分が誰の命を救ったのかわかった」
数日前の出来事を思い出したのか、の紅い瞳は寂しげに輝いていた。
は首をかしげ、の次の言葉を待っている。ニトはもう夢の中にいる。
俺とがを見つめていた。ホグワーツ特急は、音もなく走り続けている。
「僕は、僕自身も含めてあの場にいた全員を救ったんだ」
「君も含めて…?」
「ハリーに父の秘密を口にされ、あの場にいたみんなに嫌われたと思った。それに、このことが広まれば、僕はホグワーツから去らざるを得なくなる状況で……あの時僕は自分のことしか考えていなかった。そして、ハリーたちが『叫びの屋敷』を出た後僕は気を失った…」
コーヒーを一口飲んでから、は話を続けた。
「ピーター・ペティグリューがロンにかけた魔法は、そのままロンに直撃したら、彼の命を奪っていただろう。守護霊を呼び出して、吸魂鬼を追い払ったのはハリーだけど、あの時、霧が晴れなければ、ハリーに僕らの姿は見えなかった…」
「……それくらいだったら、時間を遡らなくても君の力で助けられたんじゃないかい?」
「いや…もし仮に、僕があの時ダンブルドア校長に会わずにあの状況下に置かれたら……たぶん僕は、ロンを助けようと思わなかったし、吸魂鬼に襲われても何もしなかったと思う。僕は自分のことしか考えていなかったんだ。ロンやピーター・ペティグリューがいなければ、ハリーの発言の証人はいなくなる。吸魂鬼に誰が襲われたとしても、僕の肉体にまで彼らが手を出すことはないだろう…なんて、過信して、むしろ彼らが襲われるのを好都合だと思ってしまったんじゃないかって…今考えると恐ろしいね。入れ替わった瞬間には、そこまで多くの人間を助けることになるなんて思ってなかったけど、なんとなく入れ替わらないといけないっていう気がした」
そこまで一気にしゃべってから、はふっと軽く息を吐いた。
紅い瞳はいつもの穏やかな色に戻っていた。
は妙に納得した顔でコーヒーに口をつけた。まだ温かそうだ。
ニトは相変わらず夢の中。俺もなんだか眠くなってきた。欠伸がひとつ、口から飛び出た。
カーブに差し掛かったのか、汽車が少しだけ揺れた。
「君らしいね、。すごく君らしいよ」
「…そうかな。僕の中には確かにヴォルデモート卿の血が流れてる……あの時、僕はそう思った。僕は自分が自分のことしか考えていないのを知っていたし、自分のためにしか行動しなくなるだろうってことも、冷静に考えていた」
「でも、そうじゃなかった」
「…どっちがよかったかなんて僕にはわからない。ホグワーツの医務室で目覚めたとき、そのことについて考えていたけど、答えは出なかった。だから、考えるのをやめようと思って。僕が行ったことについて、いつか結果が出るんだろうけれど、それは今じゃないみたいだからさ。結果が出るまで、のんびり待とうと思って」
は微笑した。もつられて軽く口元を緩めた。ニトが耳をぴくぴく動かしていた。
俺はニトを起こさないようそっと足を組み替え、うまく首が乗るように調整した。少しだけ、眠りたい。
「それで、。もちろん今年のパーティーには参加してくれるんだろうな?」
「去年みたいなことが起きなければ、是非。あんなに大勢の大人の魔法使いや魔女に出会える機会ってそうそう無いからね。とても楽しみにしているよ」
「それに今年はクィディッチのワールド・カップがある。君もドラコから誘われただろう?」
「うん。ワールド・カップなんて面白そう」
上からとの笑い声がする。うまく交じり合った上品な声が耳に心地よい。
前足の間に顔をうずめると、俺は二、三度瞬きをしてから、目を閉じた。
汽車は一定の速さで進み続けている……
キングズ・クロス駅に着いた。
駅はホグワーツから戻ってきた生徒たちと、迎えに来た家族でごった返していた。
の姿を探しているが、人込みの嫌いなのことだから、きっとホームの端のほうにいるだろうな…なんて考えている。
とがしばしの別れを惜しんで、軽く抱擁を交わしていた。
「それじゃ、日程が決まり次第すぐ連絡するよ」
「ありがとう、楽しみに待ってるよ。楽しい夏休みを!」
「君もね、」
が人込みの中に使用人を見つけたらしい。に手を振ると、人込みの中に消えていった。
少しの間だがニトと離れるんだと思ったら、やっぱり寂しかった。ニトも去り際に寂しそうに俺を見つめていたみたいだった。
と分かれてすぐ、後ろからに声がかかった。ハリーとロンとハーマイオニーだった。
は笑顔で三人のほうを向いた。
「、楽しい夏休みを!私、にいっぱい話したいことがあるの。お手紙するわね。それに、また宿題について意見をもらうかもしれないわ」
「、もう体調は良くなった?僕も手紙書くよ。バーノンおじさんのところからだから、いつ、どうやって君に届くかわからないけど。楽しい夏休みを!」
ハリーとハーマイオニーが競い合うようにに声をかけ、二人ともやや黒い笑みを見せつつ、と抱擁を交わした。
ハーマイオニーの腕の中にいるクルックシャンクスは、俺をしげしげと見つめていた。
<やあ、紅獅子。お前ともしばらくお別れか。また新学期に会おう>
相変わらずのだみ声だったが、なんとなく嬉しかった。知り合いが増えるっていうのはいいものだ。
の周りでわいわい騒いでいるハリーとハーマイオニーの後ろから、ロンがためらいがちにに声をかけた。少しおびえているようにも見える。
ハリーやハーマイオニーはの出生の秘密について知っても、態度を変えなかった。
もちろん、彼らは時間を遡って本当のことを見たから、というのもあるんだろうけど。
…ではロンは?俺はロンを見つめていた。
「…」
「楽しい夏休みを、ロン。クィディッチのワールド・カップ、君がとても楽しみにしているって聞いたよ。面白い試合が見られるといいね。……どうかした?」
「…ううん、なんでもないよ。ありがとう、。君も夏休みを楽しんで」
何か言いたげだったけど、ロンは結局何も言わなかった。
も察していたみたいだったけど、何も言わなかった。まあ、これでよかったのかもしれない。
何も言わないという了解もあるんだろう……もうまく話題を振ったみたいだし、いいか。
「」
また後ろから、を呼ぶ声がした。今度は透き通るようなやわらかい女声だ。
久しぶりに聞くの声。の顔が今まで以上に輝いた。
「母上!」
「お帰りなさい、。ホグワーツでの生活はどうでしたか?」
いつもと同じの姿がそこにあった。
黒の長いローブに身を包んだは、この場所では少し不思議に見える。
どうやらいろんな人の注目を浴びているみたいだ。ハリーもハーマイオニーもロンも、をじっと見つめている。大勢に注目されることが気に食わないのか、の顔は微笑を湛えてはいるが、どこか硬い。
「それじゃ、みんな。また新学期に」
が三人に優雅に手を振り、の後について歩く。
俺もクルックシャンクスに尻尾を振って挨拶すると、二人を追いかけた。久々にに会ったからか、は少し緊張しているようにも見えた。それに、今年はいっぱい話したいことがあるんだろうな。
がいつもより饒舌になっていた。
いつの間にか、の硬い笑顔もいつもの笑顔に戻っていた。
「…そう…シリウス・ブラック、リーマス・J・ルーピン、それにピーター・ペティグリューに会ったの…」
二人と一匹だけの帰路。の長い箒に乗る。その横を俺が駆けていく。
との姿は外から見えないようにが魔法をかけた。俺にもその魔法をかけてくれた。
だから俺たちは堂々と空を飛んでいる。
がシリウス・ブラックたちの名を口にすると、は考え深げな顔をした。
「…面白い子達だったわ。でもまさか、リーマス・ルーピンがあなたに『闇の魔術に対する防衛術』を教えるなんて…」
過去を懐かしんでいるのか、の目がどこか遠くを見つめている。の目とよく似ていた。
はの箒の上で、彼女の言葉を心の中にしみこませようと、じっと耳を傾けている。
「あなたはたくさんの命を救ったのね。ピーター・ペティグリューに手を下さないなんて思わなかったわ」
「僕もです、母上。けれど、ピーター・ペティグリューはハリー・ポッターに命を救われたことになりました。…彼は、トレローニー先生の本当の予言のように……」
「…ヴォルデモートのところに行くわ。…彼は、そういう人間だもの。けれど、ヴォルデモートがどう動くかは、わからないわ」
「…母上、僕は…」
「何を悩んでいるの、。あなたがそうしたいと思って行動したのでしょう?悩む必要は無いわ。何が正しくて何が正しくないかなんて…ずっと後にしかわからないのよ。間違った道だと多くの人が言おうとも、その道に進んだ者にとっては、それが正しかったと言える日が来るかもしれない。未来って…とても複雑なものよ」
の言葉は深い。俺には良くわからない部分もある。
は全身での言葉を受け止めているように見えた。この二人はとても神秘的だ。
「あなたはとても成長したわ、」
「…僕はまだ未熟者です、母上」
「…愛しい子、。いいのよ、それで。あなた自身が歩んでいく未来ですもの。……星見に、己の未来を予言することはできない。予言もあいまいな表現や言葉でしか伝わってこない。あなたはどうしてだと思うかしら?」
「…未来や過去を変えてしまう…から?」
はにっこり微笑んだ。は緊張した面持ちでを見ている。
…そういえば、の猫は元気だろうか。どこか普通の猫とは違う猫。
彼は無口だ。の部屋にいて、の手伝いをしているんだろうな。
……帰り道は、長い。
「そう、ね。でもまだあなたが知らない理由があるの。私も気がつくのにずいぶんかかったわ……ゆっくりでいいから、もうひとつの理由を探してごらんなさい。きっと新しい糧になるはずよ」
「はい、母上」
「…さて。久しぶりの帰宅ですものね。何かあなたの好きな料理でも作ろうかしら」
「僕、母上の料理はどれも大好きです」
「あら、嬉しいわ、。今日は何が食べたい気分かしら?」
「え、ええと……」
の笑顔との笑顔。二人ともきれいで上品だ。
今年もいろんなことがあった。いろんな奴らに会った。俺たちは、俺たちらしく行動した。
テストの結果にも満足したし、悩めることも多かったけど、は今日、笑顔だ。
俺はの笑顔が大好きだ。
さあ、夏休みが始まる。
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これにてアズカバンの囚人編完。