開いた口が塞がらない
いい匂いがする。体中が温かい。なんだか懐かしい感じがする。
まず最初に俺の鼻がぴくぴく動いた。それから耳。そして尻尾が揺れた。だんだん意識がはっきりしてくる。
…俺はがばっと体を起こした。急に起きたせいか、一瞬目の前の景色が揺らいだが、深く呼吸をすると視界がはっきりした。
星のちりばめられた部屋だった。大きな書棚がいくつも置いてある。…の部屋?
いや、違う。あの大きな水晶玉は…そういえば、俺たちはあいつからだと言われてルシウス・マルフォイから受け取った手紙の中に吸い込まれて…
…そうだ、は?!
俺は自分の体の上に何か乗っているのに気がついた。横を向く。の綺麗な顔がある。
ぺろり、との顔を舐める。ぴくりとの体が反応する。よかった、生きてる。
じっとを見つめていると、何度か瞬きをしてが目を覚ました。体をゆっくり起こす。
「?…ここは、どこ?僕たちは…あの手紙の円陣に吸い込まれて…ああ、何だかいい匂いがする」
俺たちはふかふかのソファの上に寝ていた。見たことのないソファ。でも懐かしい感じのする部屋。
一体ここはどこだろう?
かたかたと食器が軽く触れ合うような音が奥からしてきた。
黒くて長いスカートをはいた女性がこちらにやってきた。
「…あら、目覚めたみたいね。夏でも外は寒いわ。どうしてあんなところで眠っていたの?紅茶でもいかが?きっと体が温まるわ」
「母上…」
がいた。俺はほっと胸を撫で下ろした。
きっとあの紙に吸い込まれたのを知ったが、俺たちを助けてくれたんだ。
けれど、目の前のは俺たちを驚きと戸惑いの目で見つめていた。
「母上?…やだ、からかわないで。体の大きさを変えて怪しまれないようにホグワーツの校庭に忍び込んだのでしょう?あんなところで寝ていたら風邪をひくと思ってここへ連れてきたの。からかってもだめよ。そんなに綺麗な紅い瞳の人を、私は一人しか知らないもの」
すぐには笑顔になった。にティーカップを渡す。
何か変だ。
目の前にいるのは確かにのはずなのに、はのことを知らない素振りをみせる。
自分の子供に向ける視線というより、恋人に向ける視線でを見ている。
おまけに彼女はホグワーツの校庭と言った。ホグワーツなんてまだ夏休みの最中。
それにはホグワーツを離れてもう長いはずなのに…
紅茶を受け取ったも、戸惑った瞳でを見つめている。
「ここはホグワーツなのですか?でもホグワーツはまだ夏休みのはずでは?…それに母上、あなたはもうずいぶんと前にホグワーツを離れたはずでは?…ああ、僕にはまだこの状況が良く飲み込めていません…」
も怪訝な顔をしての話を聞いていた。
俺たちの知っていると何か違う。何か食い違っている。
の右手が俺の体に触れた。少し震えているようだ。の指先から、彼の感情が俺の中に流れ込んでくるみたいだ。
「ここはホグワーツの北塔。私の研究室よ。明日からホグワーツは新学期が始まるわ。私は少し早めにホグワーツに来たの。そうしたら、ホグワーツの校庭で眠っているあなたたちを見つけたわ。だからここに連れてきたんだけど…あなた、私の知っている彼じゃないの?」
「彼とは父上のことですか?…トム・マールヴォロ・リドルの…いえ、ヴォルデモート卿のことですか?」
「ええ…ええ。でも、その言い方だと、あなたと彼は別人のようね。あなたは一体……」
「僕は…・。あなたとヴォルデモート卿の息子です」
一瞬部屋の空気が冷たくなった。
は手にしていたトレーを机の上におくと、の向かい側に椅子を持ってきて腰掛けた。
は相変わらず俺の体に触れているが、その手からは複雑な感情が流れ込んでくる。
迷い、戸惑い、驚き、そして…不安。俺は二人を交互に見つめた。
「え…た、確かに私にはと名づけた息子がいるわ。でも、今は星見の館で眠りについているはず。彼が目覚めるのはもっとずっと先の話」
はっとが顔を上げた。不安の感情がより多く流れ込んでくる。
なぁ…これって…
俺は一年前の夏を思い出した。あの時と似ている。
「聞かせてください。あなたはホグワーツで占い学を担当してらっしゃいますか?そしてヴォルデモート卿は、闇の帝王としてマグル一掃を実行し始めていますか?」
「よく知っているわね。そのとおりよ……あなた、本当に一体誰なの?」
なんとなくわかってきた。きっとはまだホグワーツの教授なのだ。
俺たちを吸い込んだあの紙は、俺たちを過去に飛ばしたんだ。そうでなければ理解できない。が俺たちを知らない理由も、ホグワーツにいる理由も。
も同じことを考えているんだと思う。紅い瞳は不安と戸惑いの色を交互に映し出している。
時々深く息を吐き出し、首を横に振る。
「どう説明したら理解していただけるのか…僕はあなたとヴォルデモート卿の息子です。今はきっと、星見の館で眠っているの未来の姿なんです。原因はわからないけれど、時代を遡ってしまったようです」
は肩をすくめていた。
こんな話、信じられないよな。一年前、創設者たちに会った時も、サラザールしか気づかなかったことだ。
俺たち、どうすればいいんだろう。俺もすごく不安だよ、。
指先から伝わるの感情に応えるように、俺は低く唸った。
は二、三度を見たり目を逸らしたりを繰り返していたが、やがてゆっくり口を開いた。
「信じるわ、。今夜の星空は妙な輝きをしていた。でも、私には読み取れなかった。私の身に関わることなのよね。それがきっとあなたとの出会いなんだわ」
「母上…」
「私とヴォルデモート卿のことを知っている人間は多くないわ。それに今、ヴォルデモート卿と平気で口にできる人間も多くない。まして、眠っている息子の名や、星見の館について知っている人間なんて…きっと、あなたは私たちにとても近しい人間なのよね。未来から来た、なんてにわかに信じがたいけれど…あなたがなら納得できる。昔、あの人が見せてくれた文献に、あなたの名が記されていたもの」
は微笑んだ。
少しだけほっとした。
俺たちを見つけてくれたのがでよかった。
「母上、なんてなんだかむずかゆいわね。きっと呼ばれ慣れてないからね。紅茶、冷めてしまったでしょう?新しいものを用意するわ。甘いものは好き?お腹空いてるんじゃないかと思って。よかったら召し上がって」
一口も飲んでいない紅茶をから受け取る。代わりに、さっきのトレーからチェリータルトを一切れ乗せた皿をに渡した。
いい匂いがする。
が立ち上がると、どこからか猫が一匹現れ、の足元に擦り寄った。
「あなたのこと、教えて?元の時代に戻る方法はわかる?わからなかったら、見つかるまでここにいると良いわ。ねぇ、…あなたはどんな生活を星見の館でしていたの?」
新しく注がれた紅茶をに手渡しながらが言う。の手にも紅茶のカップが握られている。
の猫が、興味深げに俺を見、そして警戒するように俺の周りを歩き、匂いをかぐ。
はチェリータルトを少しずつ口に運んでいる。
ここがホグワーツの北塔だということを除けば、ほとんどいつものとに見える。
いつもの日常に見える…のに、ここは日常とはかけ離れた場所なんだよな。なんだか複雑でわけがわからなくなってきた。
が俺の前にミルクの入った皿を置いた。
人肌の温度に温められたミルクを一口舐める。全身に染み渡っていくみたいだ。
少しだけ緊張がほぐれる。
「ここへ来てしまったのは魔法の円陣に吸い込まれたからだと思うのですが…帰る方法はまったく。…僕は毎日とても充実した日々を過ごしています。母上もとても僕のことを気にかけてくれますし、友達もたくさんいて…」
「あなたは…幸せ?」
「ええ、とても。みんな素敵な人たちばかりなんです」
も、さっきより表情がやわらかくなった。
それを見て、俺はまた安心する。
ここへ来たこと、これからどうすればいいのか…考えたら、不安になる。
でも、ももいる。きっと心配することはないだろう。
もう一口ミルクを舐めた。の猫が、俺の皿に顔を近づけて、ミルクを一緒に舐めた。
「あなたからは、強い魔力を感じるわ。ホグワーツに通っているのかしら?」
「はい。新学期から四年生になります。いいところです、ホグワーツは。少し変わった人たちもいますけど、僕にはいい刺激です。母上は、北塔で占い学を?」
「ええ。それに今はスリザリンの寮監も兼ねているわ。長いことここにいると、ここを離れる日なんて思い描けないの…でも、あなたの話だと、いずれ私はホグワーツを離れるのね」
は微笑んで紅茶を飲んだ。を見るの目は優しい。
でも、いつもの母としての瞳ではない。の態度もどこかぎこちない。
知っているのに知らない。俺たちの過ごしている時間軸じゃないから。なんだかひどくもどかしい。
「どうしてこの時代に来てしまったのか、詳しく思い出せるかしら。もしかしたら帰る術が見つかるかもしれないわ。…方法があるなら、この時代に長くとどまらないほうがいいもの」
「…手紙が届いたんです。父上から。その手紙に闇の魔力を感じる紙切れが同封されていました。それを開いて…円陣みたいなものを見た気がします。そして…ああ、この先はよく覚えていません。でも、その円陣に吸い込まれたんです。気がついたら、ここにいました」
「意図せず時間軸を越えてしまったのね…円陣に心当たりは?まだこの時代では時を越える魔法は禁忌なの。一部合法化されているものもあるけれど、長く時を越えることはできない。過去を変化させてしまったら、未来にまで大きな影響が出る。魔法省をはじめ、多くの人間はそれを恐れている。過去の過ちを訂正したくなる人間が出てきてしまうのは必至。それに、ヴォルデモート卿がもっと力を強大にするでしょう……」
は軽く息を吐いた。の猫はまだミルクを飲んでいる。
皿の上のチェリータルトは半分ほど残っている。
は紅茶を両手で握り、何か考えている。
過去を変えてはいけない。一年前の夏、俺たちはそのことで悩んだ。
ほんの少し前には、ホグワーツでも、過去に起こった出来事はそのままに命だけを助ける、なんて難しいことをした。
わかってる。長く過去にとどまり続けちゃいけない。
…でも、帰る方法は…?
「逆転時計はどうでしょう。あれだったら…」
「…私も思ったわ。でも、あなたが来た時代とこの時代はずいぶん離れているわ。逆転時計での移動は数時間単位でしか…それ以上は大きなリスクを抱えることになる。何十年も時間を飛んでいくあの感覚に体が耐えられないでしょう…」
「では、黒曜石と天体の力を使って、というのは…」
「星の勉強をよくしているのね、嬉しいわ。でも黒曜石の力は大きすぎる。百年以上の時を越えるなら不可能ではないと思うけれど…でもこれも今はまだ机上の空論。天体の動きも関わってくるから、あなたが生きていた時代とこの時代は近すぎて、同じ動きをするとは思えない…成功した例もないの」
はうつむいてしまった。
が席を立ち、の顔を覗き込むようにしゃがんだ。ミルクを飲み終えたの猫が、の足元に擦り寄る。
は無造作に俺の体を撫ぜた。不安と迷いが流れ込んでくる。
よくわかる、よくわかるよ。でも俺はずっと一緒にいるよ。
の手がの肩に触れた。がゆっくり顔を上げる。
「こっちにきたんですもの、帰れるわ。きっと来たときと同じ方法で帰るのが一番確実だわ。ここで研究したらどう?私も可能な限りお手伝いするわ。…気を落とさないで。あなたは独りじゃないんですもの。私も、それにあなたの隣にいる紅い獅子もいるわ」
は優しく微笑んでいた。も少し表情を和らげる。
は立ち上がった。
「ダンブルドアを呼んでくるわ。私たちだけで考えていても始まらないものね。校長という立場と権力なら、あなたの身の振り方もすんなり通せると思うの。使えるものは何でも使うものよ」
紅茶のカップを片付けると、は部屋を出て行った。ゆっくり足音が遠ざかっていく。
は深くため息をつき、俺に抱きついた。紅い瞳は不安と混乱で渦巻いている。
泣きそうな切ない気持ちが伝わってくる。
俺は喉を鳴らしてに応える。俺も不安だけど、大丈夫だよって。
「…ありがとう、。どうしてだろう。今日はいつもより君のことがたくさん伝わってくる気がするんだ。僕のこと心配してくれてるんだね…」
の胸元に、淡く輝くものを見つけた。月の欠片…ヘルガにもらったやつだ。
もしかしてこれが俺にの思いを伝えているのか?いや、それならもっと前から…
もそれに気がついたみたいだ。顔を上げている。
「ヘルガにもらった…どうしてこんなに輝いているんだろう。あれ、リドルの日記が…ああ、そうか。机の上に置いてきてしまったんだった。彼の力を借りることはできないんだね。今度は僕ひとりで…」
俺が唸る。
はいつもひとりで抱え込みすぎなんだ。俺はいつもそばにいるし、にはたくさん友達がいる。
確かに不安だけど、はひとりじゃない。
月の欠片が少し輝きを増す。
うつむいたが顔を上げて俺を見る。
やっぱり、これが俺の思いをに伝えているみたいだ。でもどうして今更…?
が月の欠片に触れる。
「…そうだね、。君はいつも一緒にいてくれた。…リドルの日記がないからなのかな。ヘルガは純粋だったから、闇の力の強いリドルの日記に負けちゃって、今まで本来の力が発揮できていなかったのかも…」
が俺の体を撫ぜる。それがとても心地よい。
「ホグワーツで生活している母上に会えるなんて思わなかった。もうダンブルドアが校長なんだね。僕たち、帰れるかな…」
俺の首筋に顔をうずめる。
わかってる、俺も不安だ。でも前もやってのけたんだ。今回だってきっと大丈夫。
は小さくうなずいた。
とここまで意思疎通ができるようになって、俺はなんだか嬉しかった。
足音が二人分、扉の前で止まった。
扉が開く。人影がこっちに近づいてくる。
…ひげに真っ赤なリボンをいっぱいつけたダンブルドア校長がいる。俺が知っている彼よりも少し若い。
でも、このころから既に変な格好だったのか…
が小さく笑みを見せた。
がダンブルドアに椅子を勧め、彼はの向かい側に座った。
の準備した紅茶も手にしている。
「ほほーう、これはまた…よく似ておる。なぁ、」
「ええ。私も最初は驚きました」
「名前は、なんと言ったかの?」
「です、ダンブルドア校長。・」
ダンブルドアは茶目っ気たっぷりの顔で笑い、の紅茶を一口飲んだ。
俺もも真剣だけど、この人はこの難しい状況さえ楽しんでいるかのようだ。
の姿に驚いているようだが、笑顔だ。
「の姓を持つとは珍しい。大体の話はから聞いている。そこでわしは君に提案があるんじゃ」
「提案…ですか?」
「ホグワーツは明日から新学期が始まる。いつ出来上がるかわからない魔法を、毎日研究し続けているだけでは気が狂ってしまうと思わないかね?幸いなことに、君はホグワーツの学生という。明日からこの時代で学校生活を楽しんでみてはどうかね?もちろん魔法の研究もしつつの」
は静かに微笑んでうなずいていた。
確かに、部屋にこもりきりよりは学校生活をしていたほうが気分転換にはなると思う。
はまだ迷っているみたいだけど、どうせ今日の明日で帰れるわけじゃないんだ。ここにいたほうが何かと情報も入ってくると思う。
しばらくしてからが口を開いた。
不安と安心が半分くらいずつの心の中にあるみたいだ。
「…お願いします。なるべくこの時代に影響がないよう努力します」
「うむ、いい返事じゃ。ええと、寮はどこじゃね?学年は?早速新学期に必要なものを取り揃えねばな。なにしろ、明日の夕食には大勢の生徒がホグワーツにやってくるんじゃからのう」
「スリザリンです。新学期から四年生になる予定でした」
「よしよし。必要な手続きは済ませておこう。今は休みたまえ。、彼をここで休ませても問題ないかね?できればホグワーツ滞在中もここにいさせたいのじゃが。寮でもいいじゃろうが、魔法の研究をするなら、他の生徒の目につかないほうが都合がいいじゃろう?」
「かまいません、校長」
「では成立じゃな。今夜はゆっくりお休み、」
話はとんとん進んでいった。
ダンブルドアは笑顔での肩に手を置いた。
紅茶のカップをに返すと、彼は笑顔のまま部屋を出て行った。
ダンブルドアが出て行くと、がに寝台を用意してくれた。
やっと緊張がほぐれたのか、は小さく欠伸をした。がそれを見て微笑んだ。
寝台はふかふかしていて、俺たちはすぐに夢の中へ旅立った。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さんとの出会い。と意思の疎通。
いろんな人との触れ合いを描きたい。