暗雲立ち込める
部屋中に浮いた本は、の周囲を取り巻き、ぱらぱらと勝手にページが捲られている。
の目の前には古めかしい水晶玉があって、時々何かを映し出す。
頭を抱えたは難しい顔をして、本や水晶玉を覗き込んでいる。
過去のホグワーツにやってきてだいぶ時間が経った。
はもうホグワーツ中で有名になってしまったし、ここの生活にも慣れ始めていた。
だから、は焦っているみたいだ。
連日遅くまで調べ物をしている。それでもの浮かない顔を見ると、たいした手がかりは見つかっていないんだろうなと思うんだ。
「時の魔法は一朝一夕で生み出せるものではないわ。少し休んだらいかが?」
紅茶とお菓子のいい匂いがした。が笑顔での向かい側に腰掛けた。
ふっと軽く息を吐いたは、浮いている本を机の上にきっちり戻すと、の差し出した紅茶を受け取った。
入れたミルクが渦を巻いている。
「……まったく手がかりがないんです。天体の動きはここと向こうでは一致しないし、かといって、時を越える魔法は書物に記されていなくて。水晶玉が映すのは黒い粉末……僕にはそれがなんだかわからないんです」
「難しいことよ。焦らずゆっくり考えることね。私も出来る限り、禁断の書棚を見ているんですけれど、ホグワーツといえども、やはり時の魔法に関する本は少ないわね……アップルパイでもいかが?」
白い食器の上に載ったアップルパイの一切れを、はほんの少し口に運んだ。
「出来るだけ早くもとの時代に戻りたいんです。長くいれば長くいるほど、僕の存在が過去を変える可能性が高くなります」
はアップルパイを一口分、俺の前に置いた。
の作るいつものアップルパイだ。甘い味が口の中いっぱいに広がる。りんごのしゃりしゃりした感触が舌触り良く、すぐに口の中で解けてしまう。
満足げに口の周りを舐めると、それを見たに微笑まれて、俺は少し恥ずかしくなった。
美味しかったんだ、。
とんとん、と研究室の扉をノックする音が聞こえた。が席を立つ。
がそそくさと本や水晶玉を片付けていた。
わさわさと首筋を撫でられ、俺はに擦り寄った。不安と焦りばかりが伝わってくる。
ここ数日悪戯四人組やセブルス・スネイプとの接触が多かったから、当然なのかもしれない。
でも、そんなに焦らなくていいんだ。俺がいる。
(ありがとう、)
その音無き声と、がを呼ぶ声がほぼ同時に聞こえた。
は荷物を持って立ち上がり、俺はその後に続く。
「彼が、あなたを探していらしたみたいよ」
「やぁ、。一緒に中庭に行かないか?面白い本が手に入ったから、君と意見交換をしたくて」
黒いハードカバーの本を手にしたセブルス・スネイプがそこにいた。
が困ったような笑みを浮かべ、を見ていた。
教授であるはずのセブルス・スネイプは、これがあのスネイプ教授なのかと思うくらい、の前で無邪気な態度を見せる。
俺もも、まだ戸惑うんだ。
「いってらっしゃいな、。時には休息も必要よ」
がの肩を軽く叩いた。
はやっぱりまだ困ったような笑みを浮かべたままで扉のほうに歩いていった。
アップルパイも食べかけのまま、紅茶もあまり手をつけられていない。
最近、食欲もなくなってきたみたいで、なんだか心配だ。
「それでは、Ms.。ありがとうございました」
「また何かありましたら、いつでもいらっしゃってね」
形式的な挨拶を交わすと、は研究室の扉を閉めた。
俺たちはセブルス・スネイプと一緒に北塔の階段を下りる。
セブルス・スネイプの話し掛けに、がわざと笑顔を作って返事をしているのがとても気になるが……
こんなとき、俺はになんて声をかければいいのか、まったくわからなくてもどかしい。
「前回の薬草学で、杜若について少し習っただろう?あれがいろいろなものに使えるそうだ。その調合の記された本を見つけたんだが、きっとならわたしとの話にもついてきてくれると思って誘ったんだが。もしかして、先生と大事な話をしていたのか?だとしたら、無理やり連れてきてしまったかもしれないな」
「ううん。ちょっと占い学やホグワーツでの生活について助言をもらっていたところだったんだ。それに僕、その本にすごく興味がある。杜若ならヒューがいくつかサンプルを持っていたから、もし面白そうなものがあったら、調合してみたいな」
「そうか、それならいいんだ。天気も好いし、中庭で過ごすにはもってこいだと思っ……うわっ?!」
の隣を歩いていたセブルスの姿がいきなり消えた。
どたどたという音が聞こえた。
ぴたりとの足が止まり、階段下を見つめていた。勝ち誇ったように笑む四人の姿がそこにあった。
階段を滑り落ちたセブルス・スネイプの下には滑りやすく加工された大きな布。
これを階段に広げて足を取ったらしい。
「おやおや、スリザリンのお二人さん。連れ添ってどこに行くんだい?北塔から出てきたってことは、先生のところにでもいたのかい?」
ぞくっとした。の感情が流れ込んでくる。嫌な予感がする。
、こいつらのことなんか気にしないで早く中庭に行こう。
何かこのままここにいてはいけない気がした。動物としての俺の直感かもしれない。
まったく、どうしてこいつらは飽きもせず俺たちの前に現れるんだろう。
「お前たちの悪ふざけに付き合ってる暇はないんだ。そこをどけ」
「やだなぁ、セブルス。そんなに熱くなっちゃって。僕らちょっと君たち二人と遊びたいだけなんだよ?」
「うわっ?!」
そういった瞬間、ジェームズ・ポッターはセブルスが踏んでいた布を勢いよく引っ張った。その反動で、セブルス・スネイプがまた段を落下する。
それを見て笑う四人。セブルス・スネイプはむきになって四人に反抗していたが、一人と四人じゃどっちが勝つかは目に見えている。四人はセブルス・スネイプをからかって遊んでいるのだ。
(こんなの……見たくない)
が一歩後ろに下がった。
心の中の嫌な気持ちと葛藤しているに、俺は寄り添っていることしか出来ない。
このままこの場を逃げ出すことは難しそうだった。それにがセブルス・スネイプを見捨てるはずがない。
三人の目がのほうに向いた。
三人。そう、三人だった。
はっとが後ろを振り向く。
後ろには大きな布をまさににかぶせようとしているシリウス・ブラックの姿。
(もう…もう、こんなの嫌なんだ、。僕は彼らに関わりたくないだけなのに……っ!)
ぶわっと俺の目の前に広がった布は、俺たちの体にかからなかった。
俺たちの体を包む前に、空中で裏返しになった布は、そのままシリウス・ブラックを包み込み、それだけでなくそのまま大きく旋回して残りの三人の体も飲み込んでしまった。
空中には四人を包み込んだ布がもぞもぞ動きながら浮いている。中からはやセブルス・スネイプを罵倒する言葉が聞こえてくる。
、反抗するなんて珍しいな。
俺はまるで何かの糸が切れるような感覚を味わった。
浮いていた布包みがいきなり落下してくる。
おい、!どうした?!いくらなんでもそこまでしたら、あいつら全員怪我してしまう!!
流れ込んできたのはの記憶だった。
の顔、ハリーやロンやハーマイオニーの顔。もちろんの顔も。スネイプ教授やダンブルドア校長もいる。
…の、誰にもいえない、誰にも言わない、望郷の本当の理由。
(…っ!!)
今にも布包みは床と接触しそうだった。
俺は思わず目を瞑った。セブルスが何か叫んでいるように思ったが、よく聞き取れなかった。
音はしなかった。
恐る恐る目を開ける。
呆然と目の前の様子を見つめているセブルス。何が起きたのかまだ把握できていないらしい四人。
の腕が、俺の体にかかった。片膝を床について、少し息が荒い。
ほんの少しだけからだが光に包まれているみたいだったけど、その光はすぐに収まった。
(僕、とんでもないことをしてしまった……ああ、。もうここに居たくないよ。帰りたい。帰って、みんなに会いたいよ)
、落ち着けよ。大丈夫だ。絶対に帰れる。が焦ることなんて何も無いんだ。
ほど無くして状況を理解したらしいシリウス・ブラックがの胸ぐらをつかもうとして、それを必死にジェームズ・ポッターとリーマス・ルーピンが止めていた。
「なんてことをしてくれるんだ、!!俺たちは魔法は使ってねぇ!それなのに、お前は魔法を使って俺たちをっ!」
「先に手を出してきた奴が言う言葉か、それがっ!がやったという証拠はどこにあるんだ!!」
「落ち着け、シリウス!誰も、杖を出していないんだ。誰もっ!」
「…じゃぁ、今の状況は誰がやったって言うんだっ!!」
怒鳴るシリウス・ブラックに、負けじとセブルス・スネイプも怒鳴り返す。
床に両膝をついて屈んだは、呆然と彼らの姿を眺めている。
記憶がいくつか瞬間的な映像として頭の中に浮かび上がってくる。
の左手が額に触れていた。
「ねぇ、大丈夫?なんだか具合が悪そうだけど……」
不安なまなざしでを見つめていたピーター・ペティグリューが、しゃがみこんでの肩に手をかけようとした。
不意にヴォルデモート卿に仕えているピーター・ペティグリューの映像が見えた。友人を裏切ったねずみ。
激しい眩暈に襲われた。
同時に流れ込んでくる、深い悲しみと嫌悪の感情。重くて、苦しい。
「…っ!僕に触れるな、汚らわしい」
それは、の口から不意に出た言葉だった。
ピーター・ペティグリューの手が恐怖におびえて小さく震えている。
引っ込められたピーター・ペティグリューのとぉ、リーマス・ルーピンが握った。
言い合いをしていたセブルス・スネイプたちも俺たちのほうを向いた。
周囲の空気は冷たかった。
普段のからは想像できないほどきつい視線で、は四人をにらみつけている。
「そこまで言うこと無いだろう、。ピーターは君を心配して……」
「心配してほしいなんて、僕は言ってない」
立ち上がったはローブについた汚れを払いながら、強い口調でそういった。
冷たい心だった。
心配そうな顔をして近づいてきたセブルス・スネイプに、彼が落とした黒いハードカバーの本を手渡す。
空気は重かった。
「君たちの低俗な悪戯に付き合ってるほど僕は暇じゃない。これで何度目?僕に近づくなって言ったよね。学習能力の無い低脳な動物は嫌いなんだ。僕にかまっている暇があるなら、占い学の宿題でもしたらどうだい?Mr.ペティグリューは、あまりにも星の声が聞こえないみたいじゃないか」
冷たいに、セブルス・スネイプが躊躇いがちに声をかける。
「行こう、。こんな奴らと話している時間が勿体無い」
セブルス・スネイプがの肩に手を置く。は険しい表情をしたまま、セブルスのほうを向いた。
軽く握られた拳は、必死に感情をこらえようとしているのか、小刻みに震えている。
階段を下りてくる上品な足音と衣擦れが聞こえたので、俺は耳を動かした。すぐに聞きなれた声がした。
「大きな音がしたみたいですけれど、どうなさったのかしら?」
悪戯四人組と俺たちが対峙しているのをみて、或程度の状況を把握したのか、は硬い表情で階上から俺たちを見つめている。
がの顔を見て、今にも泣き出しそうな表情を見せた。
本当は、全部話してしまいたい心を、必死に抑えている。俺にもよくわかる。
未来のであるは、過去のであるに心から助けを求めることが出来ない。
俺たちは、どこまで話してしまっていいのかわからない。
きっと唯一の立場を知っているに、今すぐにでもすがりたいんだろうと思う。
でも、はぐっと拳を握り締めて、その一言を口にしまいとする。
ここにいるのは良くない。
なぁ、。ここから離れよう。少し、頭の中を整理したほうがいい。
うなずく代わりには、俺の首筋をそっと撫でた。
「また悪戯、ですか。前回の件も報告を受けています。ホグワーツでの生活を楽しむのは良いことですが、少々度が過ぎているのではないでしょうか。誰かを不幸にしてまでするほど、価値のある遊びですか?少し考えてみたほうがいいかもしれませんね」
の言葉は穏やかだった。
しかし、その穏やかさが逆に胸に突き刺さる。
「グリフィンドールの皆さんは寮へお戻りなさい。そしてゆっくり考えてください。誰かを悲しませるほどする価値のあることなのかを。……それから、セブルス。あなたは医務室へお行きなさい。足を怪我していらっしゃるでしょう?、あなたはどうします?」
の問いかけに、やや間をおいてが答えた。
「ひとりにさせていただけますか、Ms.。頭を冷やしたいんです」
四人が静かにその場を離れる。
足の怪我を見破られたセブルス・スネイプは苦い顔をしてに頭を下げる。
これからと過ごす時間を台無しにされて、セブルス・スネイプは不機嫌のようだ。に一言いってから医務室の方へ歩いていく。
もに頭を下げた。
「。一人で抱え込まないで。時には我慢せず、思いのたけを吐き出してしまうことも重要ですよ」
「……お心遣い感謝します。少し頭の中を整理してから、またお伺いしてもよろしいですか?」
「いつでもいらっしゃいな。出来る限り力になると約束しましたもの」
がどこに行くのか、なんとなく見当はついていた。
寮のほうへ歩いていったは、よくと二人で利用してる隠し部屋の扉を開けた。
この時代に来て、ここに足を踏み入れるのは初めてだ。
中には木のテーブルや柔らかいソファが置いてあった。
誰かがかなり前に使用していた跡があったが、最近は人が訪れていないのか、少し埃っぽい感じがする。
そんなことはまったく気にせず、がソファに腰を下ろした。
深くて長いため息が聞こえる。
「どう、したらいいんだろう、僕は。帰りたいのはここに影響を与えてしまうからじゃない。それは忘却術でどうにでもなる。僕は見たくないんだ。ここに生活している彼らの姿を」
ちがう、と俺は低く唸り声を上げての隣に飛び乗った。
どうして俺の前出まで強がるんだ、。強がる必要なんてどこにも無いんだ。俺には全部わかってる。
俺はの手を軽く甘噛みした。
その手の甲につめたい粒が落ちてきた。
ほんの少し海の味がする。
「……」
目に涙をいっぱい溜めたが、俺の体を強く抱きしめた。
水平線に沈む夕日のような瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
否定するように何度も涙をぬぐうけれど、涙はとめどなく溢れてくる。
強がらずに泣いてしまえばいいんだ。俺の温もりでよければ、いつまで触れていたっていい。
「帰る術がまったくわからないんだ。本当はセブルスとだってどう接していいのかわからない。僕がいることで彼への悪戯は減ったみたいだけど、それでもやっぱり、僕が一緒にいると今日みたいに被害に遭う。この時間軸にいないはずの僕が、どうあがけばいいんだろう。何をしても、歯車がかみ合わない」
深く息を吸ったは、勢いよくその息を全て吐き出すと俺の体を離した。
の胸の痛みは俺にも伝わってきていて、の思いもよくわかるのに、言葉が出ない。
本当は、知ってる。
なぁ、。は悪戯仕掛人の姿を見るのにおびえて、早く帰りたいわけじゃないだろ。ここが俺たちのいる場所じゃないって、嫌でも理解してしまう瞬間がたくさんあるから、帰らなくちゃならないって焦っているんだ。
はっとが顔を上げ、驚いた目で俺を見た。気づいていたの?とでも言いたげな瞳の色だ。
気づかないわけがない。俺だって、ひしひしと感じているんだから。
「まいったな。どうして知っているの、。ずっとごまかそうって思ってたのに」
自分自身を、か?
無理に微笑もうとするの声を遮って問いかけた。
えっ、とは声を漏らし、何ともいえない色を浮かべた瞳で俺を見つめている。
もしかしたら自身も気づいていないのか……いや、たぶん気づかないふりをしているんだろう。
俺は苦く笑った。
俺だって、気づきたくなかった。
直接に会ったことの無い奴らとは、が心さえ閉じなければ何の問題も無く付き合っていけるはず。
現にヒューやイーノックを始めとする大半の奴らと、はうまく付き合っている。
……そう、心さえ開けば、直接話したことのないジェームズ・ポッターとはうまくいく。それに、残りの三人に関してだって、子供時代の彼らと話したことはないんだから、ほんの少し考え方を変えれば、付き合いをうまく行かせるのに時間はかからない。
でも……
「母上は、僕のことをどこまで知っていらして、どう接すればいいのか、僕にはわからないんだ。僕は、母上の同じようで同じでない態度に、すごく戸惑ってる。頼り方が、わからないんだ。母上の瞳が、僕の姿に父上の姿を重ねているとき、僕は嫌でもここにいるべきではないことを理解してしまう。この先、父上がどうなるかなんて……僕は、母上に話せない」
俺たちは、戸惑っている。
自分に近しいものの過去に足を踏み入れることが、どんなにしてはいけないことなのか、この身でひしひしと感じているんだ。
姿の変わっていないは余計、だ。
「に会いたい。ニトにも、ドラコたちにも。スネイプ教授の授業が受けたい。ハリーや他のみんなは元気かな?きっとハーマイオニーは相変わらずだろうし、ロンも大勢の家族に囲まれて日常を過ごしているんだろうな。母上はいつものように占いをして、時々ふくろうが窓を叩きにくる。ふくろうの首に下げられた小さなポケットに、僕が作ったクッキーを何枚か入れてあげて……」
の作ったお菓子の味を思い出した。
そういえば、こっちにきてしまってから忙しくて、星の観察もお菓子作りもしていないな。
の唇が少し緩んだ。
「お菓子、作ろうか」
呟くようにが言う。立ち上がって隠し部屋の奥に歩いていく。
ついていくと思ったとおり、お菓子作りに使うあらかたの道具がそろっていた。
水にくぐらせればどれも使えそうだ。
の作るお菓子は久しぶりだ。そうさ、気分転換が一番だよ、。
「母上のお菓子、味はまったく変わらないんだよね。それが余計に苦しいの…かな?」
まだの心はすっきり晴れていない。それは俺も同じことだ。
でも考えすぎるのは体によくないだろう。
ここなら、他の奴らにも見つからないし、存分にや他の奴らの思い出にも浸れる。
それに、今は俺との二人きりだ。うそをついてごまかしたり、涙をこらえる必要なんてまったく無い。
少し浮かれた俺を、が微笑んで見つめていた。
「何を作ろうか、」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
過去で生活して、一番辛いのはこれだと思う。