運命の分岐点
何度イツキの額に乗せた布を交換したのかわからない。
時々苦痛に顔をゆがめるイツキを、俺はじっと見つめているしかなかった。
イツキの意識は完全に閉ざされていて、俺はここで眠っているイツキの思いを受け取ることが出来ずにいる。
何をすればいいのか、何をしなければならないのか、イツキが何を思っているのか……
何もわからないまま、ただ時計の針だけが同じ速度で時を刻んでいく。
もどかしさと苛立ちが募る。
それは、この部屋でイツキの目覚めを待っているほかの奴らも同じみたいで、シリウス・ブラックはさっきから何をするのでもなく、部屋の中を行ったりきたりしている。
ピーター・ペティグリューはジェームズ・ポッターやリーマス・ルーピンの後ろで不安げな顔をしているし、平静を装っているジェームズ・ポッターの脚は小刻みに震えている。
ほんの少しの会話はあるものの、部屋は静かだ。
俺はこいつらと会話をしていない。
イツキに対する態度に憤っているし、話してしまったら全てを叫んでしまいそうで怖いんだ。
「ん……」
眉間にしわを寄せたイツキが、微かに声を漏らした。
左手が軽く動く。まるで何かを探しているかのように。
何度かきつく眉間にしわを寄せたイツキが、ほんの少しだけ目を開けた。
動き回っていたシリウス・ブラックが足を止めてイツキの顔を覗き込んだ。
「イツキ……」
慣れない声を必死に喉の奥から出して、イツキの名を呼ぶ。
視界が定まらないのか、イツキは天井をぼんやり見つめていた。
それから、何かに気がついたかのように首だけをゆっくり動かして、俺のほうを向いた。
動いた左手が、弱々しく俺の手を握った。
少し冷たい。
でも、確かなイツキの温もりだった。
嬉しくなってイツキの手を強く握ったら、イツキが驚いた表情をして俺を見た。
のそりとイツキが体を動かして起き上がろうとする。
手助けしてイツキの体を上半身だけ起こした。
まだ無理は禁物だ。
ソファの上にたくさん置いてあるクッションをイツキの背中に回すと、起き上がるのも幾分か楽になったのか、イツキが微笑んだ。
俺は、深いため息をついた。
「ラセン。僕のラセン……僕のこと、ずっと見ててくれたの?心配かけちゃってごめんね。もう、大丈夫だよ」
まだ少し熱っぽく赤い顔をしたイツキは、小さな声でそう言い、人型で抱きしめにくい俺の体をぎゅっと抱きしめた。
温かいイツキの体温と穏やかな気持ちが流れ込んでくる。
イツキの鼓動が聞こえる。
嬉しい、と心からそう言ってくれている。
なんだか俺の顔まで熱くなってきてしまった。
「まだ無理をすべきじゃない。……でも、嬉しい」
俺もなれない腕をイツキの体に回してイツキを抱きしめた。
俺の後ろで、俺たちの行動を見て目を丸くしている四人の姿が容易に想像できたけれど、気にしない。
どんな姿でいようが、俺がイツキを大切に思っていることは変わらない。
俺たちに姿の違いなんて気にならないことなんだ。
ふふ、と軽く声を漏らしたイツキが、俺の首筋を抱きしめる。
それだけで俺は大満足だった。
「……イツキ」
おずおずとしたジェームズ・ポッターの声。
一瞬イツキの心が戸惑ったが、すぐにその戸惑いは消えた。
……今までのイツキの心情とはどことなく違う気がする。
立ち止まったまま、イツキを呆然と覗き込んでいたシリウス・ブラックを、ジェームズ・ポッターがずずい、とイツキの前に押しやった。
慌てたシリウス・ブラックの妙に赤くなった顔が面白かった。
イツキはあまり嫌な顔をしていなかった。
ただ、穏やかに四人を見つめている。
(人の声を聞くことに怯えてはならないって、そう言われたんだ。今までの僕は自分のことに必死になりすぎていたんだよね、きっと。星の声やお告げにばかり耳を傾けて……本当は耳を傾けなくてはいけない人の声から逃げていたんだ。だって、誰かの声を聞くのってとても勇気がいることだから。でもね、それじゃだめなんだって……ラセンが僕のことをずっと見ていてくれている間に、そう気付かされた。だから、彼らの声、聞こうと思って)
何気なくイツキはそういった。
けれど、俺の腕を握り締めるイツキの手にはずいぶん強く力が入っている。
…俺もよくわかる。
彼らとちゃんと話すってこと、とても簡単に思っていたけれど、実際はすごく難しかった。
わけのわからない感情で胸の中が満たされてしまうんだ。
「イツキ……イツキ、ごめんっ!!」
しんと静まり返った部屋に、シリウス・ブラックの上ずった声が響いた。
イツキが驚いてシリウス・ブラックを見つめている。
ソファの上に頭がべったりくっつくぐらいに頭を下げたシリウス・ブラック。
その後ろで、ジェームス・ポッターたちも口々に‘ごめん’と頭を下げていた。
イツキが、四人をじっと見つめている。
「本当に、階段から落とすつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ!」
「ただ、イツキとちゃんと話がしたかっただけなんだ。ただ、イツキに話を聞いてもらいたくて起こした行動が、イツキを驚かせちゃったみたいで…ごめん」
じっと四人を見ていたイツキは、不安そうにイツキを見つめている四人に、軽く笑みを見せた。
ざわり、と空気が変わる。
それはおそらく、人型の彼らには初めて見せるイツキの笑顔だった。
「……いいんだ。元々体調が悪かったのは僕のせいだから。君たちが謝ることはないよ、今回の件については、ね」
「いや、謝らせてくれ、イツキ。僕たちはこれまで君にいたずらしかしてこなかったんだ。他にすることたくさんあったのに、ね。例えば普通に話しかけるとか…色々。それなのに僕たちは全く君の気持ちを考えていなかったんだ。……イツキのこと、本当はもっと知りたいし、友達になりたいって……ずっとそう思ってたんだ」
まっすぐな瞳でイツキを見つめたジェームズ・ポッターから告げられた言葉は、何の抵抗もなくすっとイツキの心の中に入っていった。
イツキは彼らの言葉一つ一つをゆっくり飲み込むようにしている。
その姿は、星の声を聞いているときとよく似ている。
「実は結構苛々してた。イツキは俺たち以外の奴には笑顔だったからさ。だからいつも悪戯してたけど……本当は笑ってもらえないのも当然だったのかもしれないよな……って、みんなで話してたんだ。俺たち、イツキが笑ってくれるようなこと、一度もしたことなかったんだって……やっと気付いてさ。それなのに階段から落としちゃって……ごめんっ!」
「僕たち、イツキと仲良くなりたいんだ。……もちろん、今まであんなにいっぱいひどいことをしておいて、今になってこんなこと言うなんて、虫がいい奴だって思われても仕方がないと思ってる。それでもやっぱり、イツキと仲良くなりたいんだ」
四人は真剣にイツキを見つめている。
イツキはまだ俺の腕をぐっと強く握り締めている。
あふれる思いが流れ込んできて、俺は目を瞑った。
イツキが迷っているのは、こいつらがした悪戯が許せないからじゃない。
こいつらのことを心底嫌っているわけでもない。
ただ……ただ、イツキの存在がイツキの心を迷わせている。
やがて、イツキは静かに口を開いた。
「僕も謝らなくちゃ。ごめんね。なんとなくわかってたんだ。君たちがどうして悪戯してくるのか、何で僕にばかり執着しているのか。でも、僕には勇気がなかった。君たちを受け入れる、って言えばいいのかな。なんだか少し怖かったんだ。どう接すればいいのか全くわからなかった。寮も違うから余計、ね」
迷ったイツキの心はゆっくり言葉をつむぎだした。
俺の腕を握るイツキの手の力は少し弱くなった。
これでいいのか、と戸惑いを隠せない部分は多々ある。
それでもイツキは彼らに噛み付くのをやめて、言葉を向けた。
噛み付いて拒絶してしまうほうが胸の痛みは少ない。
でも、噛み付いているときよりも今のイツキのほうがなんだか穏やかだ。
「…友達に、なれるかな……」
ジェームズ・ポッターが右手を前に差し出した。
イツキがその手をじっと見つめる。
まるで何かの分岐点のように、ジェームズ・ポッターの手が目の前にあった。
(僕はこの手を握ってもいいのかな……僕はこの先の彼らのことを知っている。僕が生きているのは、彼らの未来があったからなんだ。ね、ラセン、それでも僕は彼らとのほんのわずかなこの時間を楽しんでもいいのかな。たとえ未来で離れ離れになってしまうってわかっていても、彼らと同じ時間を過ごしている間は……一緒に笑いあってもいいのかな……)
イツキが、そうしたいなら。
俺はそう言った。
イツキは軽く息を吸った。
イツキの手が俺から離れ、ゆっくりジェームズ・ポッターの手に重なった。
大きな不安、悲しい未来……いろんなものが見えた。
でも、それをかき消すようにジェームズ・ポッターは飛び切りの笑顔を俺たちにみせた。
イツキの口元も緩んだ。
「イツキ、僕も僕も!」
「……僕も」
笑顔のリーマス・ルーピンと少しおどおどしたピーター・ペティグリューがジェームズ・ポッターの後に続いてイツキの前に手を差し出した。
イツキは小さく笑いながら、丁寧に彼らの手を握っていく。
最後にイツキはシリウス・ブラックを見上げた。
少し顔を赤らめたシリウス・ブラックはためらいがちに手を出した。
「…俺だって、イツキと友達になりたかったんだ。今まで色々やらかしちまったけど……その……」
「……もう、いいんだ。僕も頑なに君たちを拒んでいた部分もあるんだ。もうこれ以上過去の話は…いいよ」
イツキがシリウス・ブラックの手を握る。
部屋にいる全員の顔がほころんでいた。
それからイツキは幾分か体調が安定してきたのか、ソファから立ち上がろうとした。
何をするんだ?
俺が首をかしげると、イツキは微笑んだ。
(せっかくこの部屋にいるんだもの。僕、彼らとゆっくりお話してみたいんだ。もちろん、まだ不安はたくさん残ってる。でも、彼らの手を握ったのは僕だから……今は、僕が出来る限りのことをしたいんだ)
それなら俺がやる。イツキは、みんなと一緒に座ってればいいんだ。
ぴんときた俺は、その場からいつもイツキが飲み物やちょっとしたお菓子をしまっているほうへと足を向けた。
いくら体調が安定してきたとはいえ、まだ熱があるイツキに無理をさせたくなかった。
「ラセンが?……そう、じゃあ僕はこっちで待ってるよ。ね、お菓子とお茶があるんだけど、あっちのテーブルで食べない?僕、もう少しみんなと話がしたいんだ」
「もちろんっ!」
「わーい、お菓子だってっ!僕大好きなんだ」
にぎやかな声が聞こえる。
慣れない手で奥の棚から珈琲のカップを五つ取り出す。
珈琲の入れ方なんて知らないな……えーっと……とりあえずお湯か?
「ところで、イツキ。彼って一体……」
「ん?…ああ、彼は僕の大切なラセンさ。いつもは紅い獅子の姿をしているから、人型になるのを見て驚いたかな。時々ね、人型になって僕のこと助けてくれる。僕のことものすごく大切に思ってくれてて、僕もそれと同じくらい彼のことを大切に思ってるんだ。小さいときからずっと一緒にいて……」
熱っ!!
それは悲鳴のように聞こえたのかもしれない。
いや、もしくはイツキにしか聞こえなかったのかもしれない。
「ラセンっ?!」
からん、からん、とポットが床に転がる音が響く。
ばたばたと慌てて俺のいる場所にやってくる足音が聞こえる。
熱湯の入ったポットをこぼした俺の指が、少し赤くなってひりひりしている。
イツキたちはこんなに熱いものをいつも持ってたのか……
心配げな顔をしたイツキの手が俺の手を握った。
「慣れないこと、無理してしなくてもいいのに……でも、ありがとうラセン。はい、少し水で冷やしておくといいよ。ポットはね、ここの持ち手を持つと熱くないんだよ」
慣れた手つきでイツキがポットを持っていく。
シンクに流れ落ちる水に指を浸しながら、俺は四人に茶の準備をするイツキをじっとみつめていた。
笑顔は大分自然になりつつある。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?……ん、お砂糖もミルクもいっぱいあるよ。お菓子、あいにく今はクッキーしかないんだけど、よかったらどうぞ」
「ふうん……なんでもあるんだね。まるで寮の部屋みたい。いや、寮より居心地いいかもしれない。僕、コーヒーがいいな」
「クッキーおいしそう!これ、イツキが作ったの?」
「さてはイツキ、俺たちがいくら探しても見つけられなかったときここにいただろ?こんなに自分本位に使いやすくしちまって……これじゃ、ホグワーツの新しい隠された部屋を見つけたって素直に喜べないじゃないかっ!……ところで、俺は紅茶がいいんだ」
からからと笑い声が部屋に響く。
結局イツキに全部やってもらってしまって、俺はただの足手まといになってしまったな……
少し落ち込まずにはいられなかった。
これでまたイツキの体調が崩れなければいいんだが。
どことなく無理をしているような気がしなくもないんだ。
なんていうか……やっぱりそう簡単にすべてを受け止めることってできないと思うんだ。
拒絶しないことではじめて知る痛みっていうのも絶対にあると思うんだ……
(足手まといなんかじゃないよ、ラセン。ラセンが僕の手伝いをしてくれてすごく嬉しかった……ん、もう大丈夫だね。痛みを抑える薬を塗っておこうか。ラセンも一緒にお茶しよう?あ、ラセンはミルクがいいかな)
ひょこっと現れたイツキは、水を止め俺の手についた水分をふき取った。
ひんやりする薬が俺の指に塗られる。
鼻につんと抜ける薬のにおいに顔をゆがめると、イツキは笑みをこぼした。
いつもの姿に戻ると俺はイツキについて四人の待っているテーブルへ歩いていく。
イツキの用意したたくさんのクッキーはすでに半分以上なくなっている。
ひょいとイツキの隣に飛び乗ると、四人は俺をじっと見た。
視線がむずかゆくなって俺が顔を背けると、四人も視線を俺からイツキに戻したみたいだった。
「ね。イツキのこと、もっと話してよ。こんな時でもなきゃ、イツキとゆっくりと話せないからね」
「そうそう!何しろスリザリンの監督生、ヒュー・ノードリーがいっつもイツキと一緒にいるんだもんねっ!彼、本当に厄介な人なんだ」
「大体何かあるとすぐに寮監に言いつけるしさ。天敵だよ、彼。……ところで、イツキはここに来る前はどこにいたの?いきなり四年生からの転入なのに、魔法とか授業とかに戸惑うところ見たことない。占い学なんか特に……」
ふっとイツキは軽く息をもらして苦笑した。
みんながイツキのことを気にするのは当たり前のことだった。
どんなに初心者らしく振舞ったって、三年も過ごしたホグワーツを知らない足取りで歩くのは不可能だった。
イツキの魔力は強いし、知識もある。
だから、それをひた隠しに隠して生活を続けるのだって困難だった。
当然みんな疑問を持つはずだ。
「…ずっと、ずっと遠くにいたんだ」
「ずっと?どれくらい?海の向こうとか?それに、そこでも魔法を使っていたの?」
「うん。世界は広いもの。ここだけが魔法の学校って言うわけじゃないんだ。やっぱりここのように寮があって、友達と生活してた。占い学はたぶん、普段から少し星や天体に興味があったから、多少知識があるんだと思う……」
珈琲を片手にイツキは微笑みながらそういった。
なぜか胸が痛む。
イツキのもう片方の手が俺に伸びる。
本当はずっと未来のホグワーツで生活しているんだ、なんて口が裂けてもいえない。
もどかしさを流し込むようにイツキが珈琲を飲んだ。
テーブルに置かれたポットから、三杯目の紅茶を注ぎながら、ジェームズ・ポッターがイツキを探るような目で見ている。
「……どうして君たちは僕に執着するのかな……確かに転入生という立場ではあるけれど、僕はもうホグワーツの一般生徒となんら変わりないのにな」
「一般生徒だって?!イツキ、君は自分の魅力に気づいてないよ!君のその姿が入学式のあの日、どんなに人目を惹いたと思ってるんだい?僕、最初イツキは女の子じゃないかって思ってたんだ。特にその紅い瞳は印象的だった」
「一目見て、これは話しかけなくちゃ、ってみんなで話してたんだ。だけどよりによってイツキが選ばれたのはスリザリン。すぐにスリザリンのやつらに囲まれちゃって話しかける隙がなかった」
「それで悪戯を試みたけど、イツキったら平気で悪戯をかわしちゃうんだから。入学式の日に声をかけられなかった。で、次が生クリーム事件。あれじゃ僕らのことを覚えてもらうという点は成功でも、印象が悪くなるのは当たり前だったよね」
ティースプーン十杯目の砂糖を紅茶に入れながらリーマス・ルーピンは言う。
「でもやっぱり、君たちの悪戯に理解できない部分もあるよ。僕にもそうだったけどそれ以上に、君たちはセブルスにずいぶん付きまとっている気がする。ああいうのを見ていると、少し悲しくなるな」
「そんなこと、イツキが心配することじゃない。セブルス・スネイプとはいろいろあるんだ」
イツキの言葉を割るようにシリウス・ブラックがうめいた。
まるでセブルス・スネイプという名を聞きたくないというかのように。
イツキの鼓動が一度だけ大きく脈打った。
イツキ、まだ体調が芳しくないんだ、無理をしちゃいけない。
(大丈夫だよ、ラセン。僕が彼らの手をとったんだもの……)
笑顔でお茶を楽しむ四人を横目で見ながら、まるで自分に言い聞かせるかのようにイツキはそう伝えてきた。
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それでもやっぱり胸は痛む。