液体のパン


 湯の沸く音が聞こえる。そして、注がれる音。陶器と陶器の触れる音。
 薄ら目を開けると、椅子に座って茶をいそしむの姿が目に入った。
 俺と目が合うと、柔らかな笑みを浮かべる。
 隣で眠っているは安心しきった顔をしていて、もうしばらく目覚めそうに無い。
 ……久しぶりに、のこんな顔を見た気がする。
 欠伸をして体を伸ばすと、の手が俺の耳元を撫ぜた。

 「はもうしばらく寝かせておいてあげてね。とても良い子なの。良い子すぎてなんだか心配になるくらい。私は母として頼りないのかしら。子供には無限の愛を注ぐってあの人と話をしたことがあるの。でも、実際に愛を与えるのって難しいわ。は私にとても遠慮しているように見えるの」

 の手がもう少し奥に伸び、眠っているの髪を撫でた。
 起きる気配は無かったが、の表情がまた柔らかくなったような気がする。
 常に敷布を握り締めて眠るの手が、今日はそれをしていない。

 「だから、昨夜は嬉しかったのよ、私。が初めて甘えてきてくれた気がして」

 の瞳も穏やかだ。
 珈琲の入ったカップを片手に机のほうへ向き直ったは、数冊の本と羊皮紙を広げた。手には真っ黒な羽根ペンが握られている。
 インクに浸されたペン先は、羊皮紙の上を流れるように動いている。
 の姿をじっと眺めながら、の温もりに触れもう少し眠るか、それともこのまま起きていようかなんてことを考えていた。
 そのうち、のペンの動きが止まった。
 研究室の前に、誰かが立っている気配がする。

 「先生、ヒューです。ヒュー・ノードリーです。こちらにいらっしゃると伺ったのですが」

 「お入りなさいな、ヒュー。鍵は開いていますよ」

 静かに扉の開く音がする。続いて大股の歩き音。ヒュー・ノードリーが部屋に入ってきた。
 部屋を見回す仕草をし、俺と目が会うと一瞬目を見開いた。
 いつのまに机の上を片付けたのか、は珈琲のカップをもうひとつ用意し、ヒューに椅子を勧めているところだった。
 香ばしい匂いが部屋中に漂っている。

 「……紅獅子がいるということは、もこちらに?」

 「ええ。を探しにいらしたの?まだぐっすりと眠っていらしてよ。もうしばらくは起こしてしまいたくなくて。……ヒューはホグズミードにはお出かけにならなかったのね。週末になると騒がしいホグワーツも、今日は静かですわ……」

 から受け取った珈琲に口をつけたヒューは、首を縦に振った。
 俺の隣で眠っているにちらりと視線を向けながら、珈琲を飲んでいる。
 俺もなんだか何か口にしたくなってきた。
 寝台を抜け出し、の隣の椅子に飛び乗ると、は笑みを浮かべて俺の鬣を撫でた。
 珈琲用に用意されたミルクポットから平たい皿にミルクが注がれ、俺の前に置かれる。
 無駄の感じられないの杖の動きを、ヒューが感心した様子で眺めていた。
 ミルクを舐める俺を面白い顔をしてヒューが見つめている。
 珈琲用のミルクは丁度良い具合に温められていて、甘くて体中に染み渡っていくようだ。

 「そう言えば前からよね。ヒューが第一回目のホグズミード行きに参加したのは、三年生の一番最初の日くらいじゃなかったかしら」

 「……この時期のホグズミードは、初めてあそこを訪れる生徒で騒がしいんです。好みの店もあまり無いので、僕には少し窮屈で。ただ、昨夜が部屋に帰ってきたら、ホグズミードの話をしようと思ってたんです。にとっては初めてのホグズミードですし、楽しんでもらいたくて。……といっても、まだここで眠っているみたいですが」

 ヒューは苦笑した。
 を見て微笑み、そのままヒューにも笑みを向けた。

 「昔のあなたもよくここに入り浸っていたわね、ヒュー。も同じ。がホグワーツに来て丁度二ヶ月が経ったわ。最初の一ヶ月でホグワーツの生活に慣れていく自分を感じ、二ヶ月経つ頃には自分の立ち位置を理解する。同じ学年の生徒たちとタイム・ラグのある転入生の辛い時期だわ……あの頃のあなたも、ここで一日中眠っていたことがあったわね。懐かしいわ」

 「……昔の話です、先生。の辛さは良く理解しているつもりです。転入生独特の孤独感は、僕が良く知っています。だから組み分けで彼がスリザリンに決まったとき、僕は心からを歓迎しました。……少し心配していたんです。最近睡眠時間を削ってまで何か思い悩んでいるようでしたから」

 少し顔を赤らめた後、ヒューはそんなことを口にした。
 この数日、は魔法の研究にかかりきりだったのを思い出す。
 形式は出来ても、使う魔法式がわからないと悩み、星に訪ね、また悩み……その繰り返しだった。
 消灯してヒューの寝息が聞こえてきてからも、しばらくは寝つけずにいた。
 ヒューはなかなかのことを観察しているようだ。
 は微笑んだまま、珈琲のカップを机の上に置き、長い袖の中から小さな袋を取り出した。

 「ヒュー、ホグズミードまでお使いを頼まれてくれないかしら」

 「ホグズミード、ですか?先生の必要なものがあそこにあるんでしょうか……」

 「私に、というよりはあなたとに、かしら。必要な代金と買ってきていただきたいもののリストはこの袋の中に入れてありますから、ホグズミードについたら中を確認してくださいな。それとも、これから用事でもおありかしら」

 「いいえ、先生。わかりました。買い物が終わったら、ここに戻ってくれば良いでしょうか」

 「ええ、ありがとう、ヒュー。きっともあなたも喜ぶと思うの。にぎやかなホグズミードに足を運ばせてしまってごめんなさいね。よろしくお願いします。美味しいお茶菓子を準備してあなたの帰りを待ってるわその頃にはきっとも目覚めていると思いますし、三人で午後のお茶会でも開きましょう」

 から渡された小袋を大切そうにローブの中にしまったヒューは、小さくうなずくとに一礼して研究室を出た。
 ぱたん、と扉を閉まる音がした後、は食器を片付け出す。
 俺はの眠っている寝台に戻ると、掛布の下にもぐりこんだ。の温もりが残っていて、温かい。
 そこからを見上げると、俺の視線に気づいたのか、俺に向かって微笑んでくれた。

 「気になりましたか?ヒューが帰ってくれば、私が何を頼んだのかわかりますよ。それまでしばらくのそばにいて差し上げてね。がここに来て二ヶ月……私は、が他人のことを良く気遣う子だって言うことに甘えていたのね。母らしいことを全くしてあげられてないわ。きっと大きな不安を抱えていたんでしょうに……」

 少し曇った瞳で過去を見透かすようにを見つめる。

 「……あなたに押し付けるつもりは無いのよ、。母としての務めは果たそうと思っているわ。……ただね、にとって一番身近なのはきっとあなただと思うの。はいつもあなたと触れ合っているとき、すごく穏やかな表情を浮かべているもの。だから、これからもの傍にいてほしいの。私も彼も、いつ立場が脅かされるからわからないから余計、ね」

 耳元、首筋、そして鼻筋。は俺を優しく撫でると、横のに掛布を掛け直す。
 寝ている姿はまだ本当に幼い子供のようで、こんなに小さな体に大きな悩みを抱えているのかと思うと、なんとも言えない苦しさに包まれる。
 はホグワーツで生活している他の生徒と何ら変わりないはずなのに、その数奇な生まれと血が、が年相応でいることを許さないのかもしれない。

 「ん……」

 小さく声を洩らしたが寝返りを打つ。の手が俺の体を抱えるようになる。
 右手が俺の背中を軽く撫でている。

 起きたのか……

 の頬を舐めると、口元を緩めたい付きが薄ら目を開けた。
 紅い瞳がじっと俺を見つめている。

 「……」

 視界がぼやけているのか、何か考え事をしているのか……は天井を見上げた状態で俺の体をゆっくり撫で続けている。
 相当疲れが溜まっているみたいだ。

 「お目覚めかしら、。良く眠れましたか?」

 の目覚めに気がついたようだ。声のするほうに軽く首を動かしたの額に、の手が触れる。
 優しい気持ち、安心する気持ちが流れ込んできた。
 それからすぐに体中が熱くなるような感覚に襲われた。
 昨晩のことを思い出しているのか、ヴォルデモート卿と話したことや、に抱きしめてもらった時の感覚や映像が鮮明に目の前に現れる。
 すると恥ずかしくなったのか、は掛布の中に顔を半分隠すようにうずくまってしまった。
 の笑い声が響いた。

 「先日、‘地球’から与えられる試験を乗り越えたそうね。あの試験には肉体的、精神的負担が伴います。もう少し早く私が気づいていれば良かったわ。まだ疲れた顔をしているわ、。少し根を詰めすぎていたのではないかしら」

 上半身だけ起こしたは、俺に寄りかかりながらの手からホットミルクを受け取った。
 まだ少し戸惑っている部分があるのか、どこか態度がぎこちない。
 昨夜の自分の行動を恥ずかしく思っているらしく、の指に手が触れただけで鼓動が跳ねあがるようだ。

 、ヴォルデモート卿が言ってただろう。が遠慮していたらどうしようもないって、さ。

 が寝ている間、が俺に呟いていた言葉を思い出す。

 「……帰る方法が見つからなくて……」

 「、そんなに独りで思い悩む必要なんて無いわ。あなたにはたくさんの仲間がいるわ。遠くにも、近くにも。不安ばかり背負って日々を過ごしていても、生きていくのに疲れていくだけよ。どの時代にいても、は私と‘あの人’の子。子は親に愛を求めていいの。そういうものよ」

 かたかたと震えるの握ったマグカップ。
 がそのカップを受け取り、机の上に置く。
 悲しい感情は流れていないが、の頬に一筋の涙が伝う。
 ……心の中の穴が埋まるような感覚がする。

 「……僕は、僕が星見のの息子であることが恥ずかしい。母はとてもすばらしい方で……だから僕は、少しでも近づきたいんです。母が誇りに持てる人間になりたくて……」

 そっとの肩に手を回したの服にがしがみついた。
 の胸に顔をうずめて上ずった声で搾り出すように呟くと、いきなりはっと我に返ったのか、から体を離し、恥ずかしそうに顔を赤らめた。いつのまにか涙も止まっている。

 「食事にしましょう、。もうお昼を過ぎているの。きっとお腹も空いていることでしょうし、たまには一緒に食事をするのも良いと思いませんか。イングリッシュ・マフィンを焼いたの」

 は微笑んでをテーブルのほうへ促した。
 が寝台から降りている間に、杖を取り出して何事か呪文を唱えたのだろう。部屋の奥から、湯気の立った食事が宙を浮いてやってきて、テーブルの上に降り立った。
 部屋中に漂う美味しい匂いに、鼻先を動かして反応した俺を見て、がやっと微笑んだ。

 そうやって笑ってるが好きだ。

 俺はの隣の椅子に飛び乗り、のひざの上に状態を預ける。
 顔をへ向け頬を摺り寄せると、くすぐったそうな笑い声が響いた。

 「イングリッシュ・マフィンを焼くのなんて久しぶり。ホグワーツは食事も出るし、宴も盛大に行われるから、料理をする機会があまり無いのよね」

 テーブルの上に色とりどりのサラダや焼き立てのイングリッシュ・マフィン、クリームやチーズが並んでいる。
 温かいスープは昨日の名残か、ほんのりカボチャの匂いがした。
 紅茶の注がれたカップがの手元に置かれる。
 久しぶりの、本当に久しぶりのの食事風景が目の前に広がった。
 俺は小さく安堵のため息をついた。
 ヴォルデモート卿の言うように、の抱いている気持ちに気づいていたんだろう。そしてきっとも悩んでいたんだろう。あまりにあいつに似ていると、どう接すればいいのかを。
 の気持ちに答えを与えたのは、ヴォルデモート卿の存在だと思う。あいつとが別人であることを認識したことで、心の中でもつれていた糸が解けたのではないだろうか。
 ……なんにせよこれからが元気になってくれれば良いと思う。
 穏やかな心持ちでイングリッシュ・マフィンに手を伸ばすを見ながら、俺は何だか温かい気持ちに包まれた。

 「本当は少し迷ったの。今日はせっかくのホグズミード行きの週末ですし、こっちに来てからは初めてのホグズミードでしょうし、起こしたほうが良かったかしら。あまりに安心しきった表情で眠っているから、起こしたくなくて……」

 「ホグズミード……もうそんな時期なんですね」

 ホグズミード……
 その言葉に、と飲んだバタービールの映像が浮かぶ。
 俺もニトやに会いたくなってきた。
 元の時間を懐かしむようにの心の中が波立つ。

 「……そう言えば、グリフィンドールの四人組と仲良くなったみたいですね。彼らとの間がぎくしゃくしているようでしたから心配していましたが……」

 「‘地球’に言われたんです。星の声には耳を傾けるのに、人の声から耳を遠ざけているなんてと。だから、彼らの心の声を聞いてみようと思いまして」

 「‘地球’がねぇ……紅茶のおかわりはいかがかしら」

 のカップに二杯目の紅茶が注がれていく。
 の目は柔らかい光を称えてを見つめていたが、それはの心を透かして見ているようにもみえる。

 「……星見はホグワーツ創設のずっと以前から存在していたわ。けれど、メルシードとセラ・が、星との契約と共にその姿を隠すことを決めたの。でもそれでは一族は長くは続かない。私の曽祖父かその前の星見のときに、一族は存亡の危機を迎えた。危機を回避するために、星見の職を生業とすることを決め、それから星見のが世の中に広まっていったわ……」

 紅茶を飲むの視線は何処か遠くを見つめている。
 の目が真剣になり、食事をする手が止まる。
 の話に釘付けになっているようだ。

「私がそれを知ったのは成人してからだったわ。星の試験を終えた後‘地球’が教えてくれたのよ。……星たちに食らべ手、私立ちの生は短いわ。それならもう少し今を楽しまなくちゃ、と思わない?」

 が紅茶のカップを机の上に置いたのと、研究室の扉がノックされるのがほぼ同時だった。
 待ち望んでいたかのように笑顔でノックに応じる
 予想通り、大きな袋を手にしたヒューが研究室に入ってきた。
 は彼のための椅子と紅茶を用意しているが、その横でが少し不安げな顔をして俺を見ていた。

 「遅くなりました、先生。でも、これで本当に良いんですか?」

 「もちろんよ、ヒュー。寒い中ありがとうね」

 「先生の頼みですから」

 ヒューはにっこり微笑んだ。
 それからテーブルの前に行儀良く座っているに視線を向けた。
 は少しうつむいていた。
 昨日の夜、部屋に帰らなかったことを悪く思っているんだろうか。

 「おはよう、ずいぶんゆっくり眠っていたみたいだね。なんだか安心した」

 「……おはよう、ヒュー。昨日は、その……部屋に戻らなくてごめんなさい」

 「気にしなくて良いよ、。僕も昔はよくこの研究室で寝かせてもらってた。独りになるのは怖いけど、ルームメイトたちと一緒に眠ることも出来なくてね。先生の研究室って僕にとってもにとっても安心できる場所なんだろうね」

 ほっとが胸をなでおろした。
 やっぱり少し後ろめたいところがあったんだろう。
 とはいえ、が昨日経験したことは以外に話せるわけが無くて、言葉を捜していたんだろうな。
 とヒューの横で、がヒューの持ってきた袋を開ける音がした。
 大きなグラスに入ったバタービールの良い香りがする。
 がわぁと声を洩らすと、ヒューが笑った。

 はこれをヒューに頼んでいたのか……

 三つのグラスが、ヒュー、それに俺の前に置かれる。
 ……
 俺が戸惑った顔でを覗くと、すぐに気がついたのか、はバタービールを平たい皿に移し変えてくれた。

 「、ホグズミードは心の疲れを癒すのに丁度良いところよ」

 「今回は連れていってあげられなくてすまなかったと思ってる。昨日が帰ってきたら話すつもりでいたんだけど……にぎやかな良いところだよ。これは、そのホグズミードの人気ドリンク、バタービール。美味しいよ」

 「バター……ビール……」

 と飲んだバタービールの味が口の中に広がる。
 の目が遠くを見つめ懐かしいものを探す輝きに変わる。
 グラスを両手で握り、ゆっくりと全体を眺めている。

 「体が温まるわよ。ビールといってもアルコール分は含まれていないからご安心なさいな。ビールと言っている理由は味と発泡性よ」

 がバタービールを眺めるを微笑んでみている。
 はバタービールを一口口に含み、ふっとため息をついた。
 部屋の中にはバタービール特有の匂いが漂っている。
 平たい皿に移されたそれを俺も舐めてみたが、どうにもごくごくと飲むもののようではないようだ。
 口の中を発泡性の液体が駆け巡る。
 不可思議なものを味わう俺の顔を見て、が声を立てて笑った。

 「美味しい……」

 「三本の箒っていう店の商品なんだ。ホグズミードにはいろんな店がある。例の悪戯仕掛人たちは今日も騒いでいたよ。初めてのホグズミード行きを許可された三年生たちもはしゃいでた。ちょっとした丘からは‘叫びの館’も見られるんだ。夜な夜なうめき声が聞こえてくる少し無気味なお屋敷さ。作りも古いみたい。次のホグズミード行きの休日はも参加しないかい?僕が案内するよ」

 ヒューは笑顔でを見つめていた。
 はゆっくりうなずいた。
 とヒューとは母と兄弟のように見えて、なんだかすごく不思議な気分だった。

 (……こんなに僕のことを思っていてくれたなんて……僕のほうが今まで母上に不安を感じさせていたのかもしれないね。昨夜、あんなに優しく抱きしめてもらいながら眠ってしまったなんて……僕、もう子供じゃないのにね)
 は少しばつが悪そうに微笑んでいた。

 ヒューがホグズミードで見てきたことを話すと、が笑う。
 ホグズミード行きの週末、静かなホグワーツ。
 明るい笑い声のする北塔。
 首筋に触れたの手に寄り添うように体を近づけ、俺は喉を鳴らした。

 何処にいたって誰といたってなんだ。ここで飲んだバタービールの味はここでしか味わえない。
 ここにいる奴らとしか味わえない。
 今のこの時間を大切にしよう、






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 液体のパンとはビールのこと。