冷たくなった手のひら


 図書室の窓から見える空は薄暗い。
 日が沈むまでにはまだ時間がありそうだったが、天気はあまりよくなさそうだ。
 数日前からの急激な冷え込みで、校庭には雪が積もっていた。
 数冊の魔法書を広げ、羊皮紙に羽根ペンを走らせていたの手がひたと止まる。
 ため息をついたはペンを置くと、腕を上げて伸びをした。
 状態をの膝の上に乗せた俺は、の顔を軽く舐める。
 窓の外に目を向けながら、が俺の首筋を撫でた。

 「……雪、積もったみたいだね」

 有色液体の調合という本をぱらぱらとめくるの手。
 寒いのかその体はやや冷たいように思う。
 机の上の羊皮紙には、無雑多にたくさんの記号や文字が書き込まれている。
 ところどころ二重線で取り消されていたり、書き途中のものもあるみたいだった。
 ……日進月歩、とはいかないか。

 「魔法は杖の動きと呪文によって発動する。呪文を唱えるとき、僕らは無意識に魔力を込めている。……ならば、発動するためには文字や表現にこめられる魔力が必要。込めるべき魔力の法則はわからないし、ただのインクに魔法を発動させる効果はない。おまけに時間を越える、なんて僕の頭では収集がつかないくらいの難題だ」

 深いため息をついたに、俺は声を掛けることが出来ない。
 魔法について全く知識の無い俺は、魔法の研究についての助けにはなれない。
 そんな自分が歯がゆくて悔しくなる。
 ぱたんと本を閉じたは、インクをしまうと羊皮紙をくるくると丸めた。

 「散歩でもしようか、。これ以上考えてても答えが出そうに無いや」

 が立ち上がり、図書室の入り口へ向かう。
 とんっ、と床に降りた俺は、の足元に擦り寄る形で歩き始めた。
 借りるほんの受付を済ますと、は廊下に出る。
 図書室内よりも廊下は肌寒かった。
 窓の外の雪景色は夕焼けに映え、銀色に輝いている。

 玄関ホールから外に出ると、いきなり強い風が吹きぬけ、俺の鬣を抑えつける。のローブが風になびいた。
 吐く息が白く見える。寒くて仕方が無い。
 両手をこすり合わせながら校庭を歩くと、寄り添うようになるべくお互いが暖を取れるようにしながら歩く俺。
 なるべく雪の積もっていない通路を選びながら広い校庭を歩く。
 足の裏に触れる地面がひんやりしている。

 「……ん、空気が冷たいね。まさか雪が降る季節になっちゃうなんて……まだ、帰る方法は見つかっていない。父上は、僕のことを残念に思うかな。冬休みの前までに帰る方法を見つけられなかった、なんて偉大な彼の息子にはふさわしくないかな」

 の表情が暗い。
 己の血を気負うことなんて無いはずなのに、は常にその体に流れる血を意識せざるを得ない。
 しかし、すっと顔を上げたは俺を見て小さく笑みをこぼした。
 少しだけ複雑な色をした紅い瞳が印象的だ。

 「でもね、本当は父上に会いたいって言う気持ちのほうが強いんだ。あんな風に父親の温もりを感じたことは無かった。それに、傍にいるだけで父の偉大さが伝わってくるんだ。何をしている人なのか、なんて気にならないくらい、彼はすばらしい人だった」

 ヴォルデモート卿の映像が浮かぶ。
 あいつが俺に触れたときのことを思い出す。
 ハリー・ポッターによって瀕死の状態になったとき、あいつの魔力は暴走しかけた。
 暴走しかけた魔力の影響は俺にも及んでいて、あいつと過ごしていた頃のことが記憶の片隅に追いやられてしまった。大分取り戻しつつあるけれども、それでもおぼろげだった記憶……
 あいつが触れてきたとき、少し思い出したんだ。

 俺は、あの手に惹かれていた。

 何をしているのか、を抜きにすればヴォルデモート卿がダンブルドアと同じかそれ以上に魔力のある偉大な魔法使いであることに違いはない。
 ただ少しだけ、他人と違うだけなんだ。

 小さく息を吐きながらが雪を踏む音がした。
 真っ白の大地に黒いローブのがよく映える。
 ……と、ひゅっ、という風を裂く音が聞こえた気がした。
 軽くが首を横に動かす。
 その横を、冷たい雪の塊が飛んでいった。

 「あー、やっぱりにはよけられちゃうなー」

 前身を雪で真っ白に染めたイーノックが雪黙りから現れた。
 頬はやや高潮し、吐く息は白い。
 に掛けよりの腰を思いきり抱きしめるイーノックに、硬かったの表情が和らいだ。

 「……全身雪まみれだね、イーノック。大丈夫?あまりはしゃぎすぎると風邪をひいてしまうよ」

 「大丈夫!が一緒にお風呂に入ってくれるもん!それより、こっちに来てよ。見せたいものがあるんだ」

 ぎゅっと赤くなった手での手を握ったイーノックは、校庭の端のほうへ走る。
 引っ張られるように前かがみになりながら、がイーノックについていく。
 雪だまりに人の足跡が二人分、そして俺の足跡がつく。
 走る少年たちと俺。
 広いホグワーツの校庭の端には、大きくて所々泥のついたいびつなスノーマンが立っていた。
 手の長さは違う。

 「すごい……イーノックが一人で作ったのかい?」

 「うんっ!に見せたかったんだ。でも、ちょっと変な形になっちゃった」

 「十分素敵だよ。すごいな……僕、雪遊びってあんまりしたこと無いんだ。こんなに大きなスノーマンが作れるんだね……」

 へんてこりんな帽子をかぶったスノーマンは、心なしかとイーノックを優しく見守っているような気がした。
 昔、と雪の中で遊んだことがあったけど、が作ったのはもっと小さな手のひらに乗るくらいのスノーマンだった気がする。こんなに大きなものを見るのは、初めてだ。
 周辺は雪がざっくり無くなり、湿った土が露出していた。
 赤くなった手で雪を握ったイーノックは、それをおもむろにに向かって投げる。
 無駄の無い動きでそれをかわしたも、しゃがみこんで雪だまを作ると優しくイーノックに向かって投げる。
 楽しそうな笑い声が校庭に響く。
 柔らかい雪は握るだけで固形になるが、そこまで強いものではなく体に触れれば大した痛みも無く崩れてしまう。
 体を動かしたくなるような軽い雪だまの応戦。
 に飛んできた雪だまを口でくわえると、冷たい水が口の中に溢れた。
 水となって消えていく雪だま。なんだか物足りない。
 口のまわりを舌で舐めまわすと、イーノックが大きな声を立てて笑った。

 「僕の雪だま、食べちゃった!

 も声を立てて笑っている。
 見れば俺の体もの体も(イーノックはもちろんだが)雪で濡れていた。
 やや濡れた髪をかきあげたは、何を思いついたのか体をかがめるとイーノックに耳打ちをした。
 木の間から見える何かを指差している。

 なんだ?何かするのか?

 首をかしげ耳を動かす俺にの手が触れた。
 もう片方の手は指を立てて唇に触れている。
 俺は体を小さくして木の間を覗いた。
 とすん、という音と共に、校庭を歩くヒューの足元に雪だまの跡がつく。
 眉をひそめて立ち止まったヒューの姿にが声を殺して笑う。
 心から楽しんでいるようだ。
 の手の中に小さな雪だま。イーノックが木の影から飛び出して走り出す。

 「ヒュー!」

 「イーノック?!……さっきの雪だまは君か……なっ?!」

 のときと同じようにヒューに抱きつくイーノック。
 ひゅっ、という音が耳を掠めていく。
 振り返ったヒューのローブに雪だまが当たると、バランスを崩して大きくしりもちをついた。
 イーノックがけらけら笑う。
 ここでもこらえきれずに声を出して笑った。
 驚いた顔のヒューは、木の影から現れたを大きく見開いた目で見てから、困ったような笑いを腹の底から響かせた。
 はヒューに手を差し出し彼を助け起こす。
 音を立ててローブについた雪を払うヒューだったが、ローブは既に湿っていた。

 「見て、ヒュー。これ、僕が作ったスノーマンなんだ!」

 「ずいぶん大きいのを作ったんだね、イーノック。それにしても雪遊び、か。久しぶりだな。、ずいぶん雪まみれだね。……イーノックは言わずもがなだけど」

 「ふふっ、僕、雪遊びなんてほとんどしたことが無いから、なんだか楽しくなっちゃって」

 体温で溶けた雪がの髪に水滴となって滴っている。
 ヒューがに面白い顔を見せての髪をくしゃくしゃ撫でた。は笑っていた。
 イーノックはせっせと行きだまを作り、柔らかく俺に向かって投げている。
 口で受け取ったり尾で叩き落としたりする俺の仕草が面白いらしい。
 ヒューがおもむろに投げた雪だまが、の足元に落ちる。
 も雪だまを投げて応戦している。

 「それじゃ僕には当たらないよ、

 「ヒューこそ、玉の動きが見え見えだよ」

 「ていっ!」

 みんな全身ぐしょ濡れだった。
 湿った俺の体毛は肌にくっついて気持ち悪い。
 それでも無邪気に雪だまを投げるイーノックに、ついつい俺もも、ヒューですら応戦してしまう。
 柔らかかった校庭の雪が、俺たちの足跡で踏みしめられ、雪だまを作るのが困難になるくらいになった頃、一度大きく風が吹いた。
 風が体についた水を乾かし、熱と共に体温を奪っていく。
 が真面目な顔に戻り、両手で体を抱くようにしながら身震いした。
 ……夕日はもうホグワーツの裏に沈みかけている。
 辺りは急に暗く鳴り出した。
 の指先は赤くなり、かじかんでいるような気さえする。
 濡れた体をに摺り寄せるのをためらった俺は、傍にだけよる。

 「……寒くなってきたね」

 「もうこんなに暗くなったのか。風邪をひく前に戻ってお風呂に入ったほうがよさそうだ」

 ヒューが雪だまを作る手を止めてそう言うと、イーノックもはっと気がついたように雪だまを投げようとしていた手を止め、の横に駆け寄ってきた。
 の手を握り、もう片方の手でヒューの手を握る。

 「じゃ、帰ろ!!」

 「……イーノックの手、冷たいね」

 「夕食前にお風呂に入ろうか。監督生用のお風呂ならきっと空いているから」

 「監督生用のお風呂なんてあるんだ?!すごいっ!ねっ、、頭洗ってくれる?の手で頭を洗ってもらうと気持ち良いんだ」

 全員ローブから水が滴っている。
 濡れたは沈む夕日に微笑みながら、イーノックにひかれホグワーツに歩いていく。
 の無邪気な笑い声を聞いたのは久しぶりだった。
 なんだか嬉しくなる。
 は笑っていたほうが綺麗だ。
 濡れた俺の鬣を梳かすように、の指が俺に触れた。
 冷たくて、動きがいつもよりゆっくりしていた。

















 「スノーマンなんて、おうちで作ったら怒られるんだ。ホグワーツはすごく楽しいところ。……でも、冬休みはおうちに帰らなくちゃ」

 手早く着替えをまとめ、風呂に向かうときにイーノックが言った。
 暖かい空気の充満した湯殿に、が入っていく。
 先に入っていたヒューも、まずは全身を綺麗に洗っているようだ。
 しなやかで、綺麗な体つき。
 お湯を全身に浴び、俺にもかける
 それは冷えた体に丁度よい温度だった。
 ぐっ、と体に力が加わる。顔をしかめたが、俺を押しのけるようにイーノックがの前に立った。
 まだ子供の体つきが残るイーノックは、の前に座ると洗剤をの手に渡した。
 の細い指がまずイーノックの髪に触れ、彼の顔に水がかからないよう細心の注意を払いながら髪を濡らしていく。
 の手の上であわ立った洗剤を、イーノックの髪に優しく載せる。
 きゃっきゃとイーノックが笑う。

 「……冬休み、ねぇ」

 浴槽に浸かりながら、大きく息を吐きヒューが呟いた。
 がイーノックを洗い終えるまで、俺は横で伏せて待っているしかない。
 顔に泡がつかないよう上をむいたイーノックがを見ている。

 「ヒューはどうするの?おうちに帰るの?は?」

 「僕は今悩んでいるところさ。どうせ帰っても子供の相手をするだけだろうしね。僕が使っていた部屋も新しくきた子が使っているって言ってたから、広間くらいしか居場所が無いだろうしな……」

 「ヒューのおうちは家族がいっぱいなんだね!」

 「……孤児院だからね」

 さらりと言ってのけたヒューの言葉に、一瞬の手が止まる。

 ……

 俺が問いかけるとすぐにイーノックの髪についた泡を流し始めただったが、何か不思議な目をしている。

 「なんて言ったらいいのかな……ま、いいか。いわゆる例のあの人が幼少期に生活していた孤児院なんだ。……なんだいイーノック、そんな不思議な顔をして。体を洗い終わったなら、こっちに来て湯に浸かるといい。外より温かいとはいえそのままでいると体が冷えるよ」

 のところからヒューの浸かる浴槽へ足を入れるイーノック。

 やっと俺の番だな。

 の前に俺が立つと、柔らかいお湯の感触が体中を駆け巡った。
 全身の毛がお湯に濡れて重くなる。
 お風呂用のブラシで絡まった毛を丁寧にほぐしてもらい、その後に泡立てた洗剤で体中を洗ってもらう。
 耳の後ろ、首の回り、脚の付け根……は指と指の間まで丁寧に洗ってくれる。

 「、気持ちよさそうだねっ!喉がぐるぐる鳴ってる」

 泡が目に入らないよう細心の注意を払って洗ってくれるから、何も心配することは無い。
 濡れた毛が重くなるから、歩くのは負荷がかかって大変になるが、の手は全身を柔らかく包み込むみたいで全てをゆだねたくなる。

 気持ち良い。

 (あんなにはしゃいだあとだから余計だよね)

 上を向くとと目が合った。
 優しく微笑んだに、俺は泡だらけの首筋を摺り寄せた。が笑う。
 浴槽からは激しい水音がして、イーノックがヒューに近づいている。

 「ねー、ヒュー。『例のあの人』って誰?

 「……イーノック、知らないのかい?

 「うん。は?は知ってるの?」

 きょとんとした顔のイーノック。
 は鬣を洗う手を止めず顔だけをイーノックのほうに向け、小さくうなずいた。
 ‘例のあの人’……その言葉に、の鼓動が早くなる。
 もヒューも外の気配を気にしているが、誰もここに近づいてくる気配はなさそうだった。

 「その人って有名なの?そう言えば寮で時々話題になるけれど、どんな人なのか、僕知らないや」

 全く持って純粋な瞳。
 とヒューは目を合わせた後でくすりと微笑んだ。
 イーノックの無知さと純粋さは、時折緊迫した空気を和ませる力があると思う。
 湯を手ですくってヒューにかけきゃっきゃと笑う。
 もヒューも、無邪気なイーノックを優しい目で見つめている。

 「闇の帝王って言ったら良いのかな。いわゆる闇の世界の住人なんだけど、その道では名を馳せたカリスマさ。その世界ではひどく力のある魔法使いでね。悪人なのかもしれないけれど、信者はすごく多い。彼の目的に共感する人も少なくないしね」

 「ふーん……僕、本当に何も知らないんだね。だってさ、僕のおうち、ひどく魔法界的なのに誰も魔法について教えてくれないんだ。唯一、お母さん方のおばあちゃんのおうちに遊びに行ったときだけ、魔法のお話をしてもらえるんだけど。僕にホグワーツの入学許可証が届いたときも、お父さんもお母さんもすごく戸惑ってた。可笑しいよね。二人とも魔法使いだっていうのいさ。魔法に頼らずに生活したいからっていうんだ」

 泡が流れ落ちる。
 湯が滴り落ちる。
 の顔を舐めた俺は、の前からどいた。
 やっとの番だ。
 湯を浴びて全身を洗い始めたから、イーノックに似た男の人の映像が流れ込んでくる。
 一度会ったことがあるかないか程度の記憶しかないが、この人は誰だっただろう。

 「……たまにはそう言う人もいるさ。選択授業でマグル学って言うのがあるんだけどね。時々それにひどく心を動かされる人もいるっていうしね。僕は自分の子供にまでその思想を強制するのはどうかと思うけどね。ただね、あんまり安易に口にしちゃいけないよ。『例のあの人』っていう言葉も……」

 「ヴォルデモート卿っていう言葉も」

 言葉に詰まったヒューに、がさらりと言葉を続けた。
 ぎょっとした表情を見せたヒューだったが、すぐにもとの表情に戻り、濡れた髪をかきあげると、イーノックに水飛沫をかける。

 「わかった。でも、やっぱり冬休みはあんまり帰りたくないな。クリスマスは大切な行事かもしれないけれど、ホグワーツのほうがずっと楽しいもの。あ、ねぇ、は?は冬休みはどうするの?」

 と言う言葉にの鼓動が跳ねあがった。
 ここは本来の居場所じゃない。そんな俺たちに家なんてあるんだろうか。
 家、という言葉から浮かんでくるのは、いつもの時代のいつもの星見の館で……
 はしばらく考えてから口を開いた。

 「多分帰宅することになると思うけど……汽車に乗るかどうかはわからないな……」

 「どうして?」

 「ほら、僕って転校生じゃない?ここでは寮で生活しているけれど、僕の家は汽車の止まらないところにあるから。もしかしたら帰らないかもしれないし、別の方法で帰るかもしれない」

 「そっか……でも、帰る時にと一緒に汽車に乗れないのは寂しいな。ね、ヒュー」

 そう言いながら、浴槽に足を入れたにお湯をかけるイーノック。
 笑顔で応戦するの心は……少し動揺している。

 家って、どこなんだろう。
 今の俺たちにとって、帰宅するところってどこなんだろう。

 そんなことを考えると、なんだか少し寂しくなった。






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 ‘雪だるま’じゃなくて‘スノーマン’なんです。