きっかけ


 <ずいぶん面白い夜じゃったが>

 鈴のような音を響かせて風を操りながら、‘地球’は屈託ない笑い声を上げている。
 冬の昼下がり、晴天。
 ホグワーツの中庭に仰向けに寝転がった僕は、空をゆっくり流れていく雲を眺めながら小さくため息をついた。隣に伏せたのひげが僕の頬に触れて、なんだかこそばゆい。

 「……僕は内心冷や冷やしてたよ。まさか彼らの方から正体を明かしてくるなんて思ってもなくて……」

 あの夜のことを思い出す。
 ホグワーツに戻ってきた日、僕は彼らの秘密を知ってしまった。‘何も知らない’はずの僕が知ってしまった。
 ……秘密を共有することは、心の中に何か一つのつながりを作る。本当なら彼らとのつながりは無いほうがいい。つながりがあればあるほど、最後に胸を締め付けられるのは僕だから。でも、僕の意志に反して彼らの好奇心は僕のもとへ及び、悪戯仕掛人たちは何かあると僕をかまうんだ。
 彼らとの関わりはすごく心地がいい。だけど、最後の最後に胸に痛みが走るんだ。
 ‘地球’は相変わらず、柔らかく風を操りながら、鈴を鳴らすような音を出して僕の様子を観察している。穏やかな視線で僕を見て、彼女は少し笑っているのかもしれないな。
 隣のに手を伸ばす。
 風になびくたてがみを一房手にしてそれを弄びながら、の鼻筋に頬を寄せる。
 喉を鳴らして僕の顔を覗き込むに、僕は笑顔を見せた。

 <それで、時代が変わっても変わらないもの、は見つかったのかや?>
 「全く。僕には皆目見当もつかないよ。、君は何か思いついた?」

 は茶金の瞳で僕をじっと見つめるとすまなそうに耳を下げて首を横に振った。そうだよね。そんなに簡単に見つかるものじゃない。流れる雲を見つめながら僕は小さく息を吐いた。

 「あなたは、知っていらすんじゃないんですか?」
 <さぁ、どうじゃったかの>
 「またそうやってはぐらかして……まぁ、でも。あなた方が教えてくれることはなさそうですね」
 <教えたところで、自分で見つけなくては意味がないものなんじゃよ>

 ‘地球’は僕の姿を見ては笑みを浮かべ、笑みを浮かべては巧みに風を操って僕の体をなでていく。
 確かに彼女の言っていることは正しいから、僕は何も答えることができず、ただ困ったような笑みを浮かべるだけだ。
 僕自身が見つけないと意味がない。
 理解して呪文を使うのと、理解せずに使うのとでは効果も危険度も違ってくるからね。
 まして僕が編み出そうとしているのはこの世の禁忌。時を超えるなんて大きな魔法、理解せずに使うことがどれだけの危険を孕んでいるのか……そんなこと、誰に教えてもらわなくてもわかる。
 ‘地球’もほかの星たちも、それを理解しているから僕が尋ねても笑って言葉をはぐらかす。
 僕が答えを求めて彼女らに尋ねている訳じゃないってことを理解しているんだろうけれど、僕が困っている姿を見るのが楽しいんだとも言われたっけ。
 の舌が僕の頬をなめた。
 ざらりとしたその感触がこそばゆくて、僕はに視線を戻す。

 「どうかした?
 (……何となく)

 ふふっと声を漏らして笑い、の首元を優しくなでてあげた。
 答えが見つからないから、僕は悩んでいる。でも、がいてくれるから、悩みながらも前に進もうおと思える。ありがとう、

 <まぁ、ゆっくり答えを探すことじゃな。焦って闇雲に探してもそこに真実は見えぬよ>
 「あなた方の言葉はいつも深くて難しいんだもの」
 <安易に人にものを伝えることはさけなくてはならないからね、
 「そう、ですよね。でも、僕が悩んでいる姿を見てあなたが楽しんでいるんじゃないかと思うんですよね」
 <ほほう。眼力も鋭くなってきたかの?>

 ‘地球’はまた屈託なく笑った。

 ……と、が顔を上げて耳を小さく動かした。
 猫のように僕と戯れていたから、きりっとしたの姿に変わる。
 どうかした?
 僕もにつられて体を起こすと、がしきりに見つめている方向に目を向けた。ホグワーツと中庭をつなぐ扉の方向だ。
 誰かが勢いよく僕らのほうに向かってきているみたいだ。

 <ふむ。これはまた、にぎやかになりそうじゃの>

 とん、と僕の体に重みが加わる。起こしたはずの上半身が冬のにおいのする大地とまたこんにちは。黒いローブが風に揺れている。風に運ばれて僕の鼻に届く、清潔な香り。

 「!こんなところにいたんだー!探しちゃったっ!!」

 聞き慣れた声。声だけでも彼がどんなにはしゃいでいるかよくわかる。声変わりの始まっていないイーノックの声はまだ女の子みたいで耳障りがいい。
 胸の上から大きな瞳で僕を見下ろし、心からの笑顔を見せるイーノック。
 僕もイーノックに笑みを返した。
 僕の上からおりると、僕の隣に腰を下ろして、膝の上に両腕をのせるようにして今度は下から僕を見上げている。まるでがいつも僕を見上げているときと同じような格好で……なんだかかわいい。
 でも隣に座っているは何が不満なのか、イーノックの体を押しのけるように僕の上に乗ってくる。
 イーノックがの鼻筋に指をのばすけれど、は乗り気ではないらしい。首を横に向け、ただ僕に体をすり寄せている。
 どうしたの?イーノックに嫉妬でもしたのかな?
 ほら、地球も笑ってる。

 「んっ。今日のはいつもよりとくっついていたいみたいだね。いいじゃない、いつもと一緒にいるんだから、僕が膝の上に乗ったって。そうそう、それよりさ、。これ見て!」

 の鼻先を指で軽く弾いたイーノックは、片手に持っていた古めかしいハードカバーの本を僕の前に差し出した。
 鼻先を舌でなめながら不満げな声を出す
 の鼻筋を優しくなでながら、僕はイーノックの出したその本を見つめた。
 表紙にラテン語の文字。僕も読んだことがある本だ。オウィディウスの『祭暦』か。イーノックはそれをぱらぱらとめくりながら首を横に傾げている。

 「ラテン語の本なんだ!呪文学の先生にもらったんだよっ!!」
 「へぇ……オウィディウスの『祭暦』かい?」
 「うんっ!ラテン語を勉強すれば、呪文に対する学問がもっとはかどるし知識も深まるからって。あーあ。呪文学とか魔法史とかだけがホグワーツの授業なら、僕だってに負けないくらい成績いいのになっ!どうしてこの世には薬草学だとか魔法薬学なんてものが存在するんだろう……全っ然わからなくて頭が痛くなるだけなんだよね」

 まるでそれがこの世のすべての悩みであるかのように盛大なため息をつきながらつぶやいたイーノックは、それでも僕の方を見てにっこり微笑んだ。
 確かに呪文学の教員は間違っていないだろう。僕らの使用する英語にはラテン語に由来する言葉も多数存在するし、魔法の呪文の所々にラテン語の痕跡がみられる。言葉を学び巧みに使いこなすことができるものは、自然とその意味も知らずに魔法を使うものよりも優れた能力を発揮する。とりわけ、イーノックのように言葉に力を持った者ならば、その力は顕著に現れるだろう。
 僕はイーノックに笑みを返した。

 「ラテン語を勉強するのはいいことだよね。それに、ラテン語の文章って面白いこと書いてあるからさ」

 するとイーノックはめくった本の途中で手を止め、文章の途中を指差して僕に見せた。

 「ところで、この文章わかる?意味はわかるんだけど、うまく英語に訳せないんだよね」

 nos erat, et vino somnum faciente iacebant corpora diversis victa sopore locis.
 がひどく困惑した感情を抱いたのか、僕の中にそれが流れ込んできた。僕にも、この言葉が引っかかる。
 この文章、僕はどこかで声に出して読んだ気がする。

 「……?」
 「あ、ああ、ごめん。これは多分、夜が来て、眠りをもたらす葡萄酒に酔って、睡魔に負けたからだがあちらこちらに横たわっていた。なんて訳すといいのかな。僕にも翻訳は難しいな。意味を取るのは簡単なのにね」
 「わー、でもすごいっ!僕あちらこちらにって表現わからなかった」
 「慣れてくればそのうちわかるようになると思うよ」
 「そっかぁ。がんばるっ!でもさ、昔も今も変わらないよね」

 イーノックの言葉に、一瞬心臓がはねた。
 ‘昔も今も変わらない’だって?
 それは、いったい……

 「……変わらない?」
 「うん。だって、僕も睡魔に負けるとおやすみなさいって寝るもん。昔の人の方がすごくゆったりした生活をしているように見えるし、今の僕らとは前々生活様式は違うんだろうけどさ。もちろん言葉もね?でも、地球上で人の営みが行われていることは変わってないし、ある人がその時代に生きていたって言うことは変わらないもんね。たとえ、歴史には記されていなくてもさ、確かに人の営みは続いているし、こうして僕イーノック・フィルマーがこの世に存在しているってことは変わらない事実だよね。それを僕以外の誰もが知らなくても、僕が知ってるもの」

 僕はまずと顔を見合わせた。
 ‘地球’は涼しげな顔をして僕らを見ていた。
 それから僕は、声を漏らして笑った。なぜ僕が笑っているのかわからないのか、イーノックは最初不思議な顔をして僕を見ていたけれど、そのうち僕の笑いにつられるように笑い始めた。
 は、少し呆れている。僕も自分に少し呆れた。だって、こんな簡単なことにどうして気づかなかったんだろう。

 「そう、だよね。僕がここでこうしてイーノックと一緒にいるってことは事実だもんね。みんなが忘れてしまっても、事実なんだよね」
 「うんっ!僕、に会えてとってもうれしいんだっ!こーんなにたっくさんの人の中で、みたいにすてきな人に出会えたなんて、本当に幸運だよっ!僕とがホグワーツで出会ったこと、誰もが皆忘れてしまったとしても、変わらないんだ」

 イーノックは言葉に力を持った子だ。
 その天性の才能は、僕が解けなかった問題を簡単に解いてしまった。
 その考え方に、その言葉遣いに僕は驚きを隠せない。そして、彼の能力を賞賛せずにはいられない。
 イーノックの頭を優しくなで、ぎゅっと体を抱きしめた。なんだか無償にそうしたくなったんだ。不思議とは何も不満な声を上げなかった。
 きゃっきゃとはしゃぐイーノックは、僕がイーノックにしたのと同じように僕の体をぎゅっと抱きしめてくれた。

 「ありがとう、。これでもっと先まで読み進められる!もっとと一緒にいたいんだけどさ、僕、魔法薬学の成績があまりにも悪いからって呼び出されちゃったんだよね……どーしよー……やっぱり、授業中に全然わからないからって、材料を全部お鍋に放り込んで放っておいたのが悪かったのかな?爆発しちゃったんだよね」

 しかし少しも悪びれた風もなくイーノックはそういい、僕に向かってにかっと笑った。
 それじゃぁね、と大きく伸びをして立ち上がると、僕にむかって大きく手を振りながらホグワーツの校舎へとかけていく。
 騒がしい風みたいな少年だ。でも、すごい。

 「びっくりした。あんなに簡単に僕が悩んでいる答えを導きだしちゃうなんて」
 <あの子は言葉に才能を持っておるな>
 「うん。確かにイーノックの言葉は一つ一つがすごく力を持っているんだ。呪文学が得意だって言うのもよくわかる。そっか、なんだ、そんなことだったんだ……」

 が僕にすり寄ってきた。
 オウィディウスの『祭暦』の中の一節。なんてことはない、ただのお話といってしまえばそれだけかもしれない。でも今、その一節が僕にとってすごく大切なものになった。

 「now erat, et vino faciente iacebant corpora diversis victa sopore locis. 夜が来て、眠りをもたらす葡萄酒によって、睡魔に負けた体が、あちらこちらに、横たわっていた」
 <今よりずっとゆったりした生活の時代の話かや>
 「……僕はね、時代が変わっても変わらないものの答えは太陽だと思ってた。でも、違った。目先のものにとらわれてたんだね。やっぱり焦っていたのかもしれない」
 <どうじゃろうな>

 そうやってはぐらかす‘地球‘はただ僕とを見守っているように思える。

 <しかし、どうして太陽だと?>
 「太陽は、毎日昇ってきてまた沈んで……を繰り返す、その様はどの時代の人間も変わらず見てきたことだろうから……って思ったんだけど、時代や場所によって必ずしもそうじゃないのかもしれない。変わらないのは今この瞬間、僕がこの場所にいるってこと、僕が生きているってこと、僕がいたっていうこと……そこで起きた事実、だね」
 <ほう……>
 「もちろん、古代の人からしてみれば、太陽は不変だったかもしれないな。たとえば、ラテン語で言うのなら、カトゥルルスの『第五歌』の中にこんなものがある。
 soles occidere redire possunt
 nobis, cum semel occidit brevis lux, nox est perpetua una dormienda.
 太陽は、没してはまた戻ってこられる。でも、僕たちは人生の短い光がいったん沈んでしまったら、終わりのない一夜を眠らなければならない。
 もうずっと昔から、それこそ人類が誕生するずっと前から地球に光を注ぎ続けていた太陽を、昔の人が不変だと思うのもよくわかる。でもそれより、イーノックの導いた答えの方が妥当な気がする」

 の耳が小さく動く。
 耳の付け根を指でこするようになでると、彼は少しだけ首を横に振り、瞳を閉じた。伸びをするような体制で、決して気を緩めてはいないもののなんだかくつろいでいるように見える。

 「でもこれだけが答えじゃないとも思うな。人それぞれ何か答えがあるのかも。さて、研究に進展がみられそう。今夜は少し夜更かし、かな」
 <ふふふ。根を詰めすぎては体に毒じゃぞ>
 「ありがとう。でも僕は帰らなくちゃ。まだ影響の少ないうちに」

 一度大きく手を頭上に伸ばして伸びををした。冷ややかな空気が肺に流れ込んでくる。全身に行き渡る冷たくて新鮮な空気は、僕の体を洗ってくれているかのようだ。
 ローブについた土を払いながら立ち上がると、ものっそり立ち上がった。体の毛に付いた土を丁寧に払い落とし、多少の毛づくろいをする。
 そろそろ次の授業が始まる。

 「それでは僕はこれで」
 <そうじゃの。まぁ、焦らず悩むことじゃ。悩む先に道は開けるものぞ>

 去り際に風を強く流し、僕の体を包み込んだ‘地球’は笑い声とともに去った。
 去った、とはいえ興味の対象が僕から別の者にずれただけで、きっと僕が声をかければすぐに応じてくれるんだろうとは思うんだけど……
 どう構成すれば魔法式の研究が進むだろうかと考えながら、僕は次の授業へと急いだ。
























 その日の夜遅く、未完成の羊皮紙に新たな文字が書き込まれた。
 それでもまだ、帰る術は見えない。






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 ラテン語、見覚えありませんか?