夢の醒めぎわ


 時計の針が午後六時をぴたりと指す。
 その瞬間、目の前に落ちてくる小さな黒い石。
 テーブルの上に音を立てて転がるそれを手で握りしめ、僕は静かに息を吐いた。

 実験の成功は、静寂を裂く音と共にやってきた。

 握った手をゆっくり開くと、そこには確かに、僕が三日前にホグワーツの庭から見送った石が姿を変えずにある。何度か繰り返してきた実験の最終的な成功。確実に時を越え、物質を運ぶことが可能になった証。
 それは喜ばしいことだ。僕はずっと過去の世界から元の世界へ戻る術を探していたのだから。時間はかかったけれど、これでやっと、僕は元の時代に戻ることができる。  安堵のため息をついた。  瞬間、僕は何とも言いがたい感情に襲われた。吐き気が起きるほどの気持ち悪さが体中を走り回る。開いた手は石がこぼれ落ちるほどに震え、体からは気持ち悪い汗が吹き出ている。
 ……この感情は、何?

 (、どうした?具合が悪そうだ)

 の心配げな瞳が僕を見つめていた。何でもないよ、と無理に笑おうとして、でもそれすら叶わず、僕は片手で顔を覆った。
 得体の知れない感情が僕の中に渦を巻いている。心の奥底から湧いて出るような気持ち悪さに、こうしてテーブルに向かって座っていることすらままならない。
 が僕のローブの裾を引っ張り、僕を寝台に寝かそうとする。
 ……少し横になろうか。
 に連れられるまま、僕は寝台に体を横たえた。隣に飛び乗り、僕の顔を心配そうに覗き込む。茶金の瞳が僕の姿を映し出している。

 (どう、したんだ?)
 「……僕にも、よくわからないんだ。でもなんだかすごく気持ち悪い。実験は成功した。喜んでいいことのはずなのに、心の奥で他の感情が湧いているみたい……」

 そう、喜んでいいはずなんだ。僕がこの世界に長く留まれば留まるほど、世界に歪みを作ってしまうから。帰る術を見つけた僕は、僕の存在をこの世界全体からすべて消し去り、世界の歪みを修正してここから去るべきなんだ。
 わかってる。わかってるんだけど……

 (……どれだけ頭でわかっていても、気持ちまですぐに変えることはできないさ。実験の成功は、こことの別れを意味しているんだから)
 「……」
 (の気持ち、なんだかよくわかるんだ。確かに俺も元の時代に戻りたい。ここにいることが歪みを作ってしまうことはよくわかる。でも……ここでの生活も辛いことばかりじゃなかったから。トモダチもできた。そういう色々なことを考えると、気持ちの整理を今すぐつけろって言うのは難しい)

 僕はの体を抱きしめ、顔を彼の体毛に埋めた。
 僕のこの得体の知れない感情は、僕がここで生活してきた証なんだろう。
 ……本来なら、持つべきものではない。万が一持ってしまったとしても、すぐに切り捨てなくてはならないものだ。
 いつから、いつから僕はこんな感情を抱いていたんだろう。人とは極力関わらないようにしてたときもあったのに。でも、一度触れ合って温かみを知ってしまうと、そこから抜け出すことは困難だった。

 「わかってた、はずなのにね」
 (……)
 「わかってたはずじゃないか。ね、。僕はここに長く留まりすぎたのかな。もっと早く実験が成功していれば、僕はこんな感情を抱くこともなかったのかな」

 悲しみだろうか、これは。別れを惜しむ気持ちだろうか。それとも、この時代にいたいと言うあってはならない願いだろうか。
 得体の知れない感情を僕は言葉で言い表すことができない。ただ、心の奥の感情と頭でわかっていることとの矛盾だけが僕の体に表れる。

 (、少し休もう。気持ちの整理がつくまで、さ)

 が僕の瞼を舐める。目を閉じ、の温もりに僕はしがみついた。
 頭の中に響く不思議な声。実験の成功をとがめるような、刺のある声。針に刺されるような体の痛み。
 首筋が熱い。

 部屋の扉が開く音がした。
 が首だけを動かし、扉を確認している。

 「、そろそろ夕食に……」

 聞き慣れたヒューの声。頭の中に響き渡る。僕の感情を増幅させるようなその声に、頭痛を覚えた。
 実験の成功はこの時代との別れを意味する。実験の成功は、彼との別れを意味する。

 「……?具合でも悪いか?」
 「ごめん、ヒュー……食欲、ないんだ」

 寝台に近づくヒューの足音。前髪を払い、僕の額に冷たい手が乗る。
 冷たくて心地よいそれは、僕が彼を信頼している証拠で、彼が僕を心配している証拠なのだろう。その一つ一つが、僕を安心させる。……だから、僕は苦しくなるんだ。

 「少し熱があるみたいだね。食事、持ってくるからここで寝てるかい?それとも医務室に行く?」
 「……ごめんね、ヒュー」
 「気にしないで、。具合の悪いときは無理しないほうがいい。少し寝てたほうがいいみたいだね。夜まで様子を見て、これ以上悪くなるようだったら医務室に行こう。ゆっくり寝てるといいよ」

 優しい瞳で僕を見つめたヒューは、掛布を僕との上に掛けてくれた。そして、いつもと変わらず部屋を静かに出る。
 みんな優しい。みんなが優しいから、僕は彼らの優しさに甘えたくなるんだろうか。それとも僕は、本当にこの時代に残りたいんだろうか。

 (何にも考えないで、眠ってしまえばいいんだ)

 僕をなだめるようにはそう言う。彼に習って僕も目を閉じた。

 でも……


 結局眠ることなんてできなかった。目を閉じても目の前が回っているような不快感がした。誰の声もしないはずなのに、どこかで誰かが僕を咎めているような声がする。相変わらず体は針がさすように痛かったし、首筋も熱かった。
 就寝時間になって、ヒューが電気を消しても、ヒューの寝息が聞こえてきても、僕は全く眠れなかった。気持ち悪さだけが体にまとわりついている。

 そうして、こっそり寮を抜け出し、に支えられるようにして、北塔までやってきてしまった。
 きっともう起きてはいないだろう。わかっている。わかっているんだけど、どうしても、ヒューと一緒にいることが苦しかったんだ。
 ……ヒューは優しいから。その優しさに甘えたくなるから。実験の成功を、心のどこかで望んでいない僕がいるのかもしれない。

 扉を小さくノックする。
 きっと、返事はないだろう。
 ……だけど扉は、音もなく開いた。

 「こんな遅くに誰かと思ったら……お入りなさい、。顔色が優れないわね」

 黒のショールを纏った母上は、優しい笑顔で僕を招き入れた。いつもと違うどこか安心する香りが部屋中に漂っていた。星の瞬く研究室が、なんだか心を落ち着かせる。
 と一緒に部屋に入ると、母上は笑顔で僕に椅子を勧めた。
 目の前には、ガラス製のカップが置かれている。

 「ちょうど贈り物が届いたところなの。カモミールジャーマンですって。どこを旅して、どこで手に入れているのかしらね。いい香りでしょう?夜ですから、ミルクで割ってお腹に優しくしましょうか」

 ポットから注がれる透き通った液体。それに温かいミルクを加えると、ティースプーンでかき混ぜる母上。
 ガラス製の透き通ったカップに注がれたそれは、すごくきれいだ。
 どうぞ、と勧められ、一口喉に流し込む。柔らかい香りとミルクの甘さが口の中でとろけ合って、なんだか心が落ち着く。
 温かいミルクだけを平たい皿に入れてもらったも幸せそうだ。
 柔らかい笑みをたたえた母は、僕をやんわりとした光をたたえた瞳で見つめている。なぜ僕がここにきたのか、その理由を尋ねることもなく、いつものように茶の準備をし、いつものようにそこにいる。

 「眠れなかった?」
 「……はい」
 「時々そういう日もあるわ」

 母はそういう。ハーブティーに口づけた彼女は、僕を笑顔で見つめた。
 きっと、母には見えているんだろう。穏やかな光をたたえた瞳に映るのは、表面上に現れる僕の姿だけではないはずだ。  それでも母は何も言わなかった。沈黙が部屋の中を支配する。
 一度深くため息をついた。
 伝えなくてはならないことだ。たとえ彼女が僕の内を知っていたとしても、僕の口から伝えなくてはならないことだ。

 「……実験が成功したんです。元の時代に戻る術が、完成しました

 母の目が一瞬色を変えた。僕はそれを見逃さなかった。今あなたは何を思っているのでしょうか。
 ハーブティーの香り広がる研究室、僕はそれ以上何も言えずうつむいた。

 「素晴らしいことね。私はあなたを誇りに思うわ、
 「……母上……」
 「でもきっと、あなたは悩んでいるのよね、。だから、ここを訪れたのでしょう?」
 「それ、は……」

 見透かすような母の瞳。でも決して不快なものではない。

 「頭ではわかっていることでも感情が納得しない、納得したくない……そういうことも世の中にはあるわ。だから人は悩み、苦しむの。時を越える魔法の完成が、あなたの感情を揺さぶったのかしら」

 母はゆっくり柔らかくしゃべる。
 耳に心地よい声は僕の心をいくらか落ち着かせる。

 「この感情の説明を、僕は上手にすることができません。言葉に表すことができないんです。何か気持ち悪いものが心の奥からわき上がってくる、としか……」

 母は小さく笑みを浮かべた。

 「は、自分の感情を表に出すことが苦手よね。私もあの人も、それが不得手だから……あなたの気持ち、よくわかるわ。実験の成功はここから去ることを意味する。ここから去ることは、ここで関わってきた人との別れを意味するものね」

 母は二杯目のハーブティーをカップに注ぎながらつぶやくようにそう言った。
 でも別れは仕方のないこと。ここにきてしまったことを知った最初の日から、ずっと僕は覚悟できていたはず……
 僕の不可思議な表情に気がついたのか、母はハーブティーの香りを楽しみながらまた口を開いた。

 「頭ではわかっているのよね。ここから去らなくてはならないことも、ここにいてはいけないことも。でも、ここにいて、あなたは確かに成長したわ。その成長は、ここに存在したからこその成長だっただろうし、この世界にいなければできなかったトモダチもたくさんできたでしょう?頭では覚悟できていると思っていても……心はきっと、この世界で出会った数々の出来事を惜しんでいるのよ……」
 「………」
 「体調が優れないんじゃないかしら?魔力が少しあなたの内側を傷つけているように見えるわ」
 「え……」
 「感情の波を表に出すまいとする無意識の行動がそうさせているのかしら……いいのよ、泣いても。時には自分の思いを外に吐き出してしまうことも大切だわ」

 席を立った母が僕の肩をそっと抱いた。
 母の温もりは優しく僕のすべてを包み込むみたいだった。
 振り向いて母の腰にしがみついた。まるで幼子のようだ。自分の行動に失笑するしかない。……でも、母上は僕を優しく抱きしめてくれた。母の胸に僕の顔が埋まる。母の鼓動が僕の鼓動を安心させる。まるで、共鳴しているかのように。

 「こんな感情、持つべきものじゃないんです。わかってたから、極力人との触れ合いを避けていたのに……でもみんな優しくて……僕はついその優しさに甘えて……だから、僕が弱いから、こんな感情が湧くんです、きっと……」
 「いいえ、あなたは決して弱い子なんかじゃないわ、。ただ少しだけ、感情の表現が上手くないだけ。誰にだって同じような感情を抱くことがあるもの。今まですごく我慢してきていたのよね」

 なだめるように僕の背中を優しく撫でながら、母は言葉を紡ぐ。
 ここにいたときの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡り、その一つ一つが僕に取って大切なものなんだと実感する。
 ……特に、そう。クリスマス休暇は忘れられない。

 「……家族で、あんなに温かい休日を過ごしたのは初めてでした。父上も母上もお忙しい方ですから……ヒューは本当に兄みたいに僕のことを気遣ってくれて、イーノックは弟みたいで……スリザリンの生徒たちはみんな素敵な人たちばかり。グリフィンドールの四人組も、リリーも……一緒にいることがすごく楽しかった。いつかこの場所を去るってわかっていても……」

 目の前に広がるのはたくさんの思い出たち。イーノックが作ったスノーマン。悪戯仕掛人たちを大きな布で包み込んでしまったあの日、セブルスと初めて出会った日……リリーと一緒に星の勉強もした。<動物もどき>になった悪戯仕掛人たちと遭遇した。‘地球’とも‘月’とも……いろんな人や星たちと会話した。ここにきてからの長い長い思い出が流星のごとく駆け巡る。
 でもやっぱり、一番は家族で過ごしたあの冬休みだ。
 あんなに温かい気持ちで眠ったのは初めてだった。父上と母上に囲まれて、大好きなも一緒で……温かかった。
 自然と目から涙があふれた。母の指がそれを優しく拭う。

 「今すぐに感情の整理をつけようと焦らないことよ。これまで根を詰めて魔法を探し求めてきたんでしょう?には少し休息が必要なんだわ」
 「でも僕が長くいればいるほど……」
 「……大丈夫。あなたは先が見えなかった魔法の研究を見事にやってのけた。ほんの少し休むくらい、誰もとがめたりしないわ」
 「母上……」

 扉を叩く音が聞こえた。
 母が僕に柔らかい絹の手巾を僕に手渡し、扉へと足を向ける。
 こんな時間にいったい誰だろう。ささっと涙を拭うと、僕はを抱きしめた。静かに僕と母上を見つめていたは、僕が近づくとそれに応えるように鼻をすり寄せ、喉を鳴らしてくれた。
 ありがとう、

 「いらっしゃい、ヒュー」

 扉の閉まる音が微かにして、部屋の中に母とは違う足音が聞こえる。
 僕の姿を捉えたヒューは、眠そうな目をこすりながら安堵の表情を浮かべた。

 「心配したよ、。目が覚めたら君の姿がないんだもの。談話室にもいないし。具合が悪そうだったのに、こんな夜中に外に出たんじゃないかって思ってた」
 「……ごめんなさい、ヒュー」
 「気にしなくていいよ。僕もよくここにきてた」

 母がヒューの前にガラス製のカップを置く。注がれるカモミールジャーマンのハーブティーは新しく入れ直したものだ。僕のカップにも温かいものが注がれた。部屋に広がるハーブの香りが、どこか心を落ち着かせる。それでも涙で腫れた目はごまかせないだろうか。

 「具合はどう?」
 「ちょっとだけ落ち着いた、かな」

 無理に笑ってみせる。ヒューには、あまり心配をかけたくない。

 「でもまだ本調子じゃなさそうだね。疲れたのかな?ってば、よく無理をするからね。目を離せないんだ」

 ハーブティーの口を付けながら笑うヒュー。僕は素敵なトモダチを持った。……うん。だから、僕はこんなに辛いんだ。
 胸を刺すような痛みを必死に押さえて、僕は笑みを見せる。気取られちゃだめだ。ましてや……ヒューに教わったことが僕の魔法を完成させたなんて……そんなこと、絶対に言えない。

 「ヒューもあったわね。いきなり夜中にやってきて、どうしてだかわからないけど不安で眠れないんだ、って。ここで一晩中泣き叫んでた」
 「……あのときの僕は、まだ心の整理ができてなかったんです」

 照れ隠しに肩をすくめて笑うヒュー。

 「そうね。だからね、。誰にでもあることなのよ。心配しなくていいわ。少し休息を取って、体も心も休めれば、次第に自分の心の動きもつかめるようになってくるでしょう」
 「でも先生の処にいてよかった。外にいたらどうしようかと気が気じゃなかったからね」
 「ごめんね……全然眠れなくて。でも、ヒューを起こしちゃいそうだったから、部屋にいるのもな、って思ってさ。談話室で一人になると、今度はその孤独が辛くて。こんな夜中なのにMs.にも迷惑を……」

 が僕の頬を舐める。
 ヒューの存在は、僕に取ってとても大切なものだ。
 でも……僕は、この時代で関わった人すべてから、僕の記憶を消してしまわなければならない。
 すべて忘れて、変わりのない日常生活をすることと、すべてを忘れさせてしまって自分だけ記憶を持っていることと、どっちが辛いんだろう……

 「そうだ。週末のホグズミード、僕と一緒に参加しないかい?もちろん体調が良くならなかったら無理に強要はできないけど……気晴らしになると思うよ」

 ヒューが笑顔を見せる。
 ホグズミードか。そういえば、この時代では一度も足を踏み入れてなかったな。

 「そうね。気分転換もいいかもしれないわ。でもまずは、しっかり睡眠を取って体を休ませることが重要よ」
   「すいません、先生。夜遅くにお訪ねしてしまって」
 「かまわないわ、ヒュー。他の先生方に見つからないようにそっとお戻りなさいな。はどうしますか?」
 「え……」
 「ヒューと一緒に部屋に帰ってもいいし、ここにいてもいいわ」
 「無理しなくていいよ、。寮に帰ることが不安なら先生のお言葉に甘えるのもいいと思う。ここ、すごく落ち着くからね」

 ヒューが母上を手伝ってポットやカップを片付ける。窓から見える外は真っ暗闇。時間は真夜中を過ぎずいぶんと遅い。ヒューにまで迷惑をかけてしまって、いったい僕は何をしているんだろう。
 が僕を見上げている。心の中をかき混ぜるような感情の波は依然収まらず、体の痛みもまだ多少残っている。
 僕はこの気持ちに整理をつけなくちゃならない。
 母を見つめ、ヒューを見つめた。

 「ごめんなさい、ヒュー。探しにきてくれてありがとう。今日はここにいてもいいかな……」
 「ん、わかった。あんまり無理しないようにね、

 それじゃ、といつもと変わらぬ姿でヒューが研究室の扉の外に出る。
 すまなそうに母を見つめると、でも母上は優しく微笑んでくれた。

 「いらっしゃいな、。久しぶりに一緒に寝るのはどうかしら?」

 差し出された母の手は柔らかくて温かくて、握り返した手に少し力がこもる。
 魔法研究の成功は、こことの別離を意味する。
 でも、もう少し、ほんの少しだけ……僕の気持ちの整理がつくまで、この優しさに甘えてもいいですか……?





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 そう簡単に受け入れられる感情ではない。