隠しきれない本音


 花が、揺れる。
 水面に広がる波紋をデザインした透明な一輪挿し。薬草学の教授からいただいたエリカの花弁が、遊びにも近い感覚で揺れている。
 深夜近くに気まぐれな訪問客が来たみたい。
 覗き込んでいた水晶玉から視線を逸らすと、私はエリカの花弁を指先でくすぐるようになぞった。
 明らかに意図的に、私の指から逃げようと茎の部分すら動かすその花に、ほんの少しだけ悪戯がしてみたくなる。

 「珍しいわね。このところずっと、あなたの意識はに向いているものだと思っていたけれど」

 紅茶のカップを手に取り、とぼけたように花弁を動かす花を見つめる。
 何の前触れもなく、ある時いきなりやってくる‘地球’に、いつしか私は慣れてしまったみたい。

 <なんじゃ、驚きもせぬのか>

 「一体何年あなたの突然の訪問を経験していると思っているのかしら」

 <ふむ。つまらぬ娘になってしまったな。初めのうちは実にからかい甲斐のある娘じゃったのにの>

 「反応に初々しさを求めるのなら、私のもとに出向くよりもへ声をかけたほうがいいのではなくて?」

 素知らぬふりをする花弁に、私は微笑んでみせた。
 ‘地球’は、私のもとに初めて現れた時から唐突で気まぐれだった。
 こうして、私がこの手で包み込む対象からは外れてしまった今でも、その気まぐれさや唐突さは変わっていない。

 <は、いつ話しかけても良い反応を示すの。昔のそなたにそっくりじゃ>

 「私よりもよほど力のある子です。けれど、あなたの訪問にはまだ不慣れのようね」

 <ふむ。なんじゃ、複雑な目をして>

 エリカの花弁を見つめる私を見透かすように‘地球’が言った。
 ぼんやりとのことを思い浮かべながら、私は小さな苦笑を漏らした。‘地球’には何も隠せない。

 「複雑、だわ。あの子は星の試験をクリアした。それは、先の星見である私からの自立を意味する。私はもう、彼の運命を視ることは出来ても、そこに干渉することは許されない。あの子の星に何を視ようと、答えを導きだすような手だてをすることは出来ない、のよ」

 <……それが星見の運命。いずれそうなることはずいぶんと前からわかっていたじゃろうに>

 「わかっていることと、実際に体験することは違うのね。それに、あの子はまだホグワーツの四年生よ。いくらなんでも、母である私の手を離れるには早すぎるんじゃなくて?」

 <不満、かや?>

 「いいえ。あの年齢での試験クリアは誇らしいわ。ただ少し、子離れできていない親の心境なのよね。あの子がここにいることは時の歪みの現れだけれど……せっかく母親って言う自覚が出てきた頃だったのに、ね。本当にすぐに手を離れてしまうんですもの」

 紅茶をのどの奥に流し込むと、私は深いため息をついた。
 時計が、深夜を指す。
 ‘地球’は花弁を揺らしながら、軽く笑っている。

 わかっては、いるの。頭では理解しているの。あの子がどれだけ宇宙の星たちに愛されていることか……一介の星見である私の庇護下にいるよりも、星が彼を直接庇護したいという要望はずいぶん昔から……知っていた。それこそ、あの子がこの身に宿ったそのときから、星たちの間でひどい論争が起こっていた。
 早いうちにこの手を離れるであろうことは容易に予想が出来たけれど……まさか、まだ育てていないうちからそれを体験するとは思わなかったわ。

 しんと静まり返った部屋に、こつこつと小さな音が響いた。
 やがて扉が開く微かな音がし、足音と他人の息づかいが部屋の中に吹き込んできた。
 噂をすれば、ね。

 「いらっしゃい、
 「毎日夜遅くに申し訳ないです、母上」

 紅獅子を従えて、小さな荷物を手にしたが現れる。
 星と書物と占いの道具で埋もれたこの部屋が、が入ってくるだけでいつもよりも息吹が強くなる。
 本当に、あなたは愛されているわ。

 <ほう……また面白い書物を抱えておるんじゃな>

 「え?」

 慌てて左右に首を振って辺りを見渡すの姿。私は思わず息を漏らして微笑んだ。
 紅茶の準備をしながら、水晶玉の側に置かれた一輪挿しを指差す。

 「そこに、来ていらしてよ」

 <何じゃ、教えてしまっては面白くないではないかや>

 「あんまりを困らせないでくださいな」

 一輪挿しを覗き込む
 テーブルに前足をかけ、鼻先でエリカの花弁のにおいを嗅いでいるようね。一輪の花には、彼の鼻息は強風なのかもしれない。エリカは茎をのけぞらせるようにから離れようとしている。
 けれど、そっと指先を出したには、花弁自ら寄っていくんですから、‘地球’もかわいいものね。
 入れたての紅茶をの前に差し出すと、は行儀よくそれを受け取った。テーブルマナーの出来の良さにも目を見張る。
 はつまらなそうに花から顔を背け、の隣の椅子に飛び乗ると、上半身をの膝の上に預ける。
 は華奢だから、上手に乗らないと獅子の上半身がの体の上に収まるのは難しい。小さなの頃の無邪気さを残しつつも、大きなはしっかり配慮もする。あの人の意図した通り、良い仲になっているみたい。
 そんなには、人肌に温めたミルクを差し出す。彼も、決してテーブルの上を汚さず音を立てずに飲む。

 <荷物の整理かや?>

 「ええ。母上が少しずつ星見の館に運んでくださると言ってくださったので、お言葉に甘えることにしたんです。それに、こうして荷物を整理することで自分の気持ちも少しずつ整理しているのだと思うんです」

 ‘地球’との会話に興じるをじっと眺める。
 少しのびてきた黒髪と紅い瞳が印象的な……本当に、彼によく似た姿をしている。
 その向きは違えど、純粋であるところもよく似ている。

 「……焦らないことよ、。感情の整理ほど難しいものはないわ」
 「母上……」

 星に愛されることの一番の害は……星に近しいだけ、人との距離が測れなくなるところ。ふとした瞬間、何かしらの兆候を相手に見つけてしまったとき、その狭間に果てしない距離を感じることがある。見えてしまうからこその孤独、とでも言うのかしら。
 そういった意味では、人として生きることに一番苦痛を覚えるのも、この世で一番星に愛されているなのかもしれないわね。

 「そういえば。あの小さな蛇はどうなさいまして?」
 「あ、彼女ですか?悪戯の成功の後、きちんとお礼を言って禁じられた森の奥へお連れしました」
 <ほう。禁じられた森とな>
 「ええ。本当は父上から母上への伝言をまかされていたみたいなんですが……彼女、その伝言の内容をすっかり忘れてしまったらしくて。思い出したらまた来る、と言ってましたけど……もしかしたら、父上に直接お聞きしたほうが早いかもしれません」
 「あら、そうだったの。でも、またここに来ても、私にはその蛇の伝えたいことを理解できるかどうか」

 私は小さく笑った。
 ホグワーツの北塔に蛇が入り込むなんてずいぶん珍しいことだと思っていたけれど、まさかあの人からの使いだったとは。
 そういえば、あの人ももパーセルマウスだったわね。

 「パーセルマウスが話す言葉を理解することは出来ても、蛇語を話すことは出来ないし、蛇そのものの言葉を聞き取ることも出来ないのよ、私。ここが、サラザール・スリザリンの血を引く彼との決定的な能力差ね」
 「母上には、絶大的な星見の力がありますから。父上の能力にも、母上の能力にも、僕は到底及びません」

 はそういって、私に無垢な笑みを向けた。
 自分の内なる能力には気づいていない。
 ……いいえ。能力に気づいていても、それがどんなにすごいものなのかをまだ彼は知らない。
 メルシードやセラ・をも上回るであろう能力を……この子はまだ、星見として持っていて当然の能力だと思っているのかもしれないわね。

 「大丈夫。あなたは私たちによく似ているもの。それで、悪戯の結果はどうなりまして?」
 「リゼルグ酸アミドの効果はばっちりでした。巨大な蛇に襲われると思ったのか、慌てて寮を飛び出してくる四人組に、イーノックが生クリーム爆弾を投げつけまして。……ふふ。彼らに出会って間もない頃の僕たちの姿に酷似していて笑ってしまいました」
 「あのときは、大変だったものね」
 「でも少し廊下を汚してしまったので、ホグワーツには申し訳ないことをしたかと。僕らの悪戯でまさか母上に教授会から何か言われたりしましたか?」
 「あら、大丈夫よ。先生方も、珍しくグリフィンドールの四人組が悔しそうな顔をしていた、って話題にしていたくらいですから」

 ‘地球’もからからと鈴のなるような声を出して笑っている。この人は、とても感情豊だわ。

 「イーノックが大はしゃぎしてそうね」
 「ええ。喜び勇んで談話室でみんなに話してました。イーノックは言葉に力を持っているから、すごく人を惹き付けるんです。みんな熱心にイーノックの話に呑まれていって」

 <ただの騒がしい子ども、ではなかったか>

 「騒がしい、だなんて。あれが彼の魅力ですよ」
 「そうね。あの子の父親も、言葉の真意を探るのがすごく良く出来た子だったわ」
 「……アレンディ・フィルマーさん、でしたでしょうか」

 思わず指先が動いた。
 まさか、の口から彼の名が出るとは思わなかったわ。

 「あら、ご存知なの?」
 「……一度だけ、お会いしたことがあります」
 「そう……そうね。イーノックがホグワーツへの入学許可を受けたとき、一番動揺したのがアレンディだったみたいね。マグルとしての生活をしながらも、魔法界に大いなる憧れを持っていた……‘息子に許可証が届いた、どうしよう’……って、入学式前の夏休みに、ものすごく焦った声で連絡がきたの」

 年を取ったアレンディは、マグルとしては一流の地位についた。
 フィルマー家の資産を継ぎ、でも魔法界への未練は捨てきれなかったのだろう。彼が娶ったのは同じくスクイブの女性だった。
 私に対する想いも同じね。

 「ご連絡を……?」
 「アレンディの立場は、マグルと魔法使いの境。あまりにも中途半端で、利用価値の高い人物なのよ。私に対する過度な信頼も、昔と変わってない。使えるものは何でも使う、使えないものは切り捨てる。あの人もよく言うでしょう?」

 少しの表情が戸惑った。すると‘地球’が声を出して笑う。
 彼女にとっては、困った顔をするはからかいの種であり、笑いを誘うものであるらしい。
 紅茶を入れ直しながら、私も微笑んだ。

 「ふふっ。紅茶をもう一杯いかが?は、ホットミルクのおかわりでいいかしら?」

 のカップに紅茶を注ぎ、の皿にはミルクを注ぎ足す。
 紅獅子という存在は魔法界でも珍獣とされる生物で、その存在が確認できたのは、遥か古代にさかのぼると言う。でもそれも、ある日を境に突然姿を消したという伝説が残っている。そして、今は誰にも認知されず、ひっそりとヴォルデモート卿が連れている。
 まるで聖なる動物。
 眠たそうに大きくあくびをするの鼻先を指で撫でると、くすぐったかったのか、大きく顔を左右に振り、不満げなうなり声を出した。
 の手がの鼻筋に触れ、が彼に顔を近づけると、はあきらめたような光を瞳にたたえ、の頬を舐める。
 あまりにも仲が良すぎる。
 を扱う仕草はまるで自分の半身を扱うかのよう。
 ……素敵ね。

 <わらわにはないのかの、

 「差し上げたいですけれど。まさか、その一輪挿しに紅茶を注ぐわけにはいかないでしょう?」

 <ふむ。わらわにそのような態度をとるとは……>

 「ふふ。どうせなら、紅茶の飲める姿でいらせばいいのに。風であったり花であったり、あなたはいつも、そういう姿をおとりになるから」
 「そして、いつも突然に現れますよね……僕、いつも驚かされちゃいます」

 不満げに花弁を揺らす‘地球’。それを覗き込むように見つめる
 もうすぐ消えてしまう、ほんのひとときの夢だとしても、私は幸せだわ。でも……

 「……少し、困らせてしまうようなことを言ってもいいかしら」
 「え……?」
 「私ね、の荷物がここに届く度に少しずつ寂しくなるの」
 「母上……」
 「いずれあの人があなたを目覚めさせることはわかっているけれど……それがいつになるのか、私には予想することしか出来ない。あなたがここにいることは時の歪みそのものであるけれど……いずれ来る時間を待つには、あまりにも儚くて幸せすぎる思い出をあなたは私に残したわ」

 紅茶を口に含む。困った顔をするに私は微笑んだ。

 「もちろんあなたの立場は十分承知しているつもり。それに、あなたはここで知り合った全ての人間から……もちろん町ですれ違っただけの人間から親密になった人間まで……全員から記憶を消すつもりでしょう?時の歪みの修整は記憶の修正だものね」
 「……ええ」
 「複雑な感情を話してもいいかしら。……あなたとここで過ごした記憶を持ったまま、あなたが去った後の生活を送るのはきっと辛いわ。思い出してしまうでしょうから。けれど、辛いと感じられるほどに幸せだったこの時間を、全て忘れてしまうほうが……もしかしたら、辛いのかもしれないわ」

 <小娘の戯れ言じゃ、耳にするでないぞよ、

 息を深く吐く。
 横から口出しした‘地球’は花弁を揺らしながらやや不満げな声を出している。

 「小娘、なんて。いつまでも子どものように扱うんですから」

 <皆子どもじゃよ、わらわの。星見は天文学者や一般の占い師よりもわらわたちに近しい。特別目をかけるというものじゃ>

 「あら、それは嬉しいこと」

 <おまけにそなたときたら、成人の折から全く姿が変わらぬ。いつ見に来ても常に小娘じゃよ、本当に>

 ……地球の言葉を受け、成長したアレンディの姿を思い出す。彼は人のごとく年をとり、人のごとく生活をしている。もちろん、見た目にも年をとったとよくわかる。
 いつからあの人が永遠を求め始めたのか、この見た目が変わらないのはあの人の呪文。いくら不死となっても、老いていくばかりでは……なんてつぶやいていたわね。
 確かに私の姿は、成人のときから何一つ変わっていない。

 が大きな牙を見せるようなあくびをし、がつられて小さなあくびをした。
 就寝時間はとっくに過ぎている。
 あまりここに長居させてしまっても、明日の授業に支障が出るわね。

 「そろそろお休みになる?明日は占い学の授業もありますし、夜更かしをしすぎるのも体によくありませんしね」

 <なんじゃ、つまらぬ>

 「人の身を案じてくださいな。たとえ姿形が変わらなくとも、生命の営みには逆らっていないのですから。はまだ成長期ですしね。夜更かしばかりしていると背が伸びなくなってしまうわ」

 テーブルの上の片付けを手伝うにありがとうと言いながら、ささっと布巾でテーブルの上を拭き、水晶玉を片付けた。
 テーブルの中央に残された一輪挿しは、不満げに花弁を垂れ、それがあまりにもしおらしくて、の笑い声がする。

 「それとも、ここでお休みになりますか、

 私自身も就寝の支度をしながら何気なくそう聞いてみる。
 一緒にいたいという気持ちは、私のほうがもしかしたら強いのかもしれない。
 全ての準備を整え彼がここを去るまで、残された時間はわずか。
 たとえ全て忘れてしまうのだとしても、その残された時間を出来るだけ長く一緒に過ごしたいと思うこの気持ちは……親心、なのかしら。

 「母上……」
 「ごめんなさい、気にしないで。他の先生方に気づかれないように寮にお戻りなさいな」

 けれどは、研究室の扉に手をかける前に振り返った。

 「……ここで、一緒に休んでもいいですか?ヒューのこともみんなのことも大好きなんですが、彼らの中にいると心の整理がつかないばかりか、寂しくなってしまってなかなか寝付けなくて」

 照れ隠しなのか、多少のうつむき加減。
 が下からの顔を伺うように見上げている。

 <親子、じゃの>

 茶々を入れる‘地球’の声も聞こえたけれど、何も答えなかった。
 そうね、親子だわ。感情の表現が不得手で、自分のことを理解するのに時間がかかる。
 本当に、親子だわ。

 「感情の整理がつかないのは、あなただけではないのよ、。不安にならなくていいわ」
 「母上……」
 「それに、たとえ全て消えてしまうんだとしても……後少しだけ、あなたと一緒に過ごせる時間を、私は大切にしたいの」

 いらっしゃいな、と研究室の奥の奥へ足を運ぶ。
 教員用の寝台は、寮に配備してある生徒用のそれよりもずっと大きくて寝心地のいいものだ。
 多くの生徒はそれを知らないから何も言わないけれど、どうにもやはり、ホグワーツの教員という立場は多少敬われる立場なのかもしれない。

 「……あの人に、挨拶はしていくの?」
 「……手紙で出立の日をご連絡しようとは思っているのですが」
 「そう……いつ頃になりそうか、大体のめどはついてらして?」
 「次の満月がすぎた頃かな、と思っています。満月の日は月の力が大きすぎるので、力が落ち着くのを待ってから、魔法を作動させようと思いまして」

 天井をじっと見上げながら、寝台の上で会話を続ける。
 の横にいると密着して離れない。
 そっとのほうへ体を向けた私は、の髪を優しく撫でた。

 「あなたにとっても私にとっても、あの人にとっても……一時の儚い夢なのかしらね。夢にしては甘美すぎるわ」
 「……たとえ、僕以外のみんなが忘れてしまっても……たとえ僕が、全てを封印して元の時間軸で生活を続けても……僕は、ここで母上と父上と過ごせた日々を絶対に忘れません」

 そうつぶやいた後、は目を閉じ、体を私のほうに寄せた。
 自然と彼の体を抱きしめる形になる。

 「おやすみなさい、。安息なる眠りが得られますように」
 「おやすみなさい、母上、

 耳元で、‘地球’がささやく。心の整理が出来ていないのは、そなたのほうではないか、と‘地球’は楽しそうに言う。
 私は小さく頷く。
 ついこの間の彼のように、頭ではわかっていても感情がそれに追いつかない。
 それに、私は気づいてしまった。
 この先に何が待ち受けているのかを。が私たちにもたらした情報はわずかだったけれども、の存在が私に気づかせてしまった。
 ……だからこそ、感情の整理が追いついていないのかもしれない。
 この子がここを去ること、それはこの子がまた元の時代での苦難の道に戻るということ。
 未来の私は何を思うのだろう。
 そのほんの一瞬の間に、が自分の庇護下から離れ、星の手に委ねられることを、私はどう思うのだろう。
 時の歪みの修整は存在の削除。
 今年の夏、私はホグワーツの新学期が始まる前に何事もなくホグワーツに到着する。
 新入生の中に紅獅子を連れた転校生はいない
 グリフィンドールの四人組に目を付けられるのはではなく、組み分けの儀式のときに派手に転んで人目を引いたイーノック。
 生クリーム爆弾を浴びたのは彼ひとり。だからお返しをするのも彼ひとり。
 ヒューは監督生としてひとり部屋で何事もなく生活し、時々いつものようにここに顔を出す。
 月に一度のお茶会も何事もなく行われ、誰一人そこに転校生がいないことに疑問を持たない。

 忘却術には二つの術がある。
 単純に忘れさせてしまうものと、矛盾の無いように描かれた別のストーリーと真実の記憶を入れ替えてしまうもの。
 より高度で、そして記憶を取り戻す可能性が低いのは後者のほう。
 ……私は、一度が失敗したのを知っている。
 学生時代、あの人が見つけた書物に残っていたの名。
 おそらく普通の忘却術を使ったのでしょう。そして、想いが強いものにはそれが効かなかった。
 だから多分、は今回、後者の魔法を使うでしょう。
 あの子が今日手にしていた本が何よりの証拠。

 ……深い眠りについたの表情を見つめながら、なおも脳裏に浮かぶのはと過ごした日々。
 せっかく持った親と言う自覚を、失ってしまうのも寂しいものね。

 <それがこの子の意思なのならば>

 ‘地球’のささやきは、頭の中に響く音無き声となる。
 静かに眠りにつくを見つめながら、私は深く息を吐き出し、目を閉じた。
 眠りは一時の逃げに過ぎず、目が覚めればまたこの気持ちに感情が揺れることを知っていても……逃避のわずかな快楽に身を委ねることしか私には術がない。

 <それが、人の性か>

 ‘地球’のつぶやきは闇にとけ込んでいった。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 悩んでるのはだけじゃない。