静寂


 「Menin aeide, thea, Pele-iadeo Akhileos……
 「まーた始まった、イーノックの朗唱!」
 「外国語過ぎてなんだかわかんねーぞっ!」
 「……でも、聞きたくなっちゃうんだよね」
 「言葉の魔力、だな」
 「ところで、翻訳するとどういう意味?」
 「……怒りを歌ってください 女神ムーサよ ペーレウスの息子であるアキレウスの怒りを……ってところかな」

 ……それは、いつもと変わらない日常の光景だった。
 暖炉の周りを取り囲み、中心に大きくて分厚いハードカバーの本を手にしたイーノックが、涼しげな顔をして叙事詩の一節を読み上げる。
 周囲に集まるスリザリンの生徒たちは、思い思いの作業をしながら、その耳のほんの少しでもイーノックの朗唱に傾ける。
 ヒューが横で解説をする日があれば、別の人間が解説をするときもある。叙事詩の内容に茶々を入れるのは、たいてい魔法薬学だとか論理的な思考が得意な人たちで……ただ熱心に聞き入り想像の世界に浸るのは、物語が大好きな生徒たちだ。

 それは、いつもと変わらない光景。

 談話室のソファーの一つに腰掛けて、の体を丁寧にブラッシングしながら、僕もイーノックの魔力のこもった朗唱に耳を傾けている。
 隣では、セブルスが魔法使いのチェスを年上の生徒と繰り広げている。その隣では、優雅に紅茶を楽しみながら、まだ一年生のイーノックの持つ言葉の力に魅了された女生徒たちがイーノックを見つめている。
 ホメーロスの叙事詩『イーリアス』の最初の一節。
 神話の時代に遡る今日の話は、スリザリンの生徒をどんな世界へと導くのだろう。
 イーノックが入学して、彼の朗唱の時間はMs.の月に一度のお茶会と同じくらいスリザリン寮の定番となった。
 決して他の作業を邪魔しない、背景音。けれど彼の声は背景音にしては随分と高度なもので、誰もがそれに耳を傾けたくなる魅力を持っている。

 ホメーロスの叙事詩『イーリアス』……
 ここで僕が聴く、最後の彼の朗唱……
 女神ムーサへの祈りから始まるホメーロスの叙事詩。今日のイーノックはいつにも増して、言葉に力を持っている。いつの間にか、セブルスたちの手も止まり、スリザリンの生徒のほとんどがイーノックの朗唱に耳を傾けている……




 澄んだ彼の声が途切れ、はたり、と本が閉じられる。寮内に響く余韻とともに、談話室はしばしの静寂に包まれた。
 いつもの無邪気な笑顔を見せたイーノックに、どこからともなく拍手が飛ぶ。
 恥ずかしげな、そしてどこか満足げな笑みを浮かべたイーノックは、叙事詩の解説をしてくれた上級生に礼を言い、分厚い本を持って暖炉の側から離れる。
 時計の針は消灯時間を指し、それに気がついたヒューが手を叩いて寮生たちをそれぞれの部屋へ戻るよう促す。

 「すごかったよ、イーノック」
 「へへっ!ホメーロスの叙事詩『イーリアス』は夢があるよね」
 「続きが楽しみになっちゃった」
 「でも、はこのお話、最後まで知ってるでしょう?」
 「内容は、ね。でも、イーノックに朗唱してもらいたいな。イーノックの声で聴くのが今までで一番心地よかったから」
 「ほんとっ?!それじゃ明日!明日は今日の続きから朗唱するよ!楽しみにしてて!」
 「ありがとう、楽しみにしてる。おやすみなさい」

 部屋に戻るイーノックに軽く手を振り、ブラッシングを終えたを従えて、消灯時間をやや過ぎたことが不満げなヒューの待つ部屋へと向かう。
 談話室に誰もいなくなったのを確認して、ヒューが談話室の明かりを消した。

 「イーノックは、本当に言葉に魔力を持った子だな」
 「うん。彼の言葉はとても魅力的だ。自然と聴き入ってしまうもの」
 「内容の矛盾やその不可能さを指摘する人間もいる。でもそれは、指摘できるほどしっかり聴き入っているってことだからね。すごいよ、イーノックは」
 「明日は続きを朗誦してくれるって。楽しみだね」

 冬用のカーテンを閉め、寝支度の整った僕らも静かに寝台に横になる。
 ややあって部屋の明かりは消え、あたりは静寂と暗闇に包まれた。
 寝台の上に伏せているの体にしがみつき、僕はじっと息を潜めている。
 ヒューが深い眠りにつくまで、寮のみんなが深い眠りにつくまで。

 ……僕が、ここを去る日がやってきた。

 それは、前々から決めていたことだった。
 禁忌と言われる時を越える魔法も完成した。記憶を描き直す忘却術も完璧だ。
 全ての準備が整った今、僕がこれ以上この時代に長く留まる理由はどこにもない。
 時間の歪みの修整を施すためにも、一刻も早くこの場から立ち去り元居た時間軸に戻らなくてはならない。

 ……心配げなの瞳が僕を覗き込む。
 彼の額をそっと手で撫でながら、僕は小さく大丈夫、と口にした。
 ほんの少し、胸に痛みが走る。
 彼らにくる明日は、僕の居ない明日だ。
 いいや、彼らがホグワーツで僕とともに過ごしたこの長い期間も全て……明日からは僕の居ない日々として書き換えられる。
 僕がこの場を去ると同時に、僕にほんの少しでも関わった全ての人たちの記憶が描き直される。……そう、全て。
 それは僕が望んだ結末であって、僕がやらなくてはならないことだ。
 この部屋にある荷物を整理し、荷物の詰まったトランクに鍵をかけ、それと同時に自分の心の整理をし記憶に鍵をかけた……
 でもまだ、胸が痛いよ。


 月明かりがカーテンの隙間から部屋に差し込む頃、深い眠りに落ちたヒューを起こさぬようそっと寝台から起き出した。
 に導かれるように、窓から部屋を抜け出す。
 万一にでも、談話室やホグワーツの中で誰かに見られてしまうことを回避するために、いつもとは違う窓から部屋を抜け出す方法を選んだ。
 僕がここに居る理由はもはやどこにもない。僕はここから去らねばならない。
 の背中にそっとまたがり、窓を閉めると僕は空へ旅立った。

 (いいのか、誰にも何も言わずにここを去って……)

 が空を駆けながら、僕を気にかける仕草をする。

 「……いいんだ。きっと辛くなるだけだから」
 (……)
 「それに、挨拶をしても、明日の朝にはみんな全て忘れてるんだから……」

 の体を撫でながら僕はつぶやく。
 僕の感情もの感情も複雑なものだ。
 父上や母上と過ごした日々は忘れられない。出来ることならここに留まっていたいほど、この時代での生活はあまりに甘美だった。
 ……でも、一介の魔法使い見習いである僕に、時間を歪めることは許されない。

 (行き先は?)
 「……星降る谷、へ。あそこが一番誰にも知られずに魔法を使えるよ」
 (わかった)
 「ありがとう、
 (ん?)
 「僕のこと、心配してくれてるんだよね」

 は自分の不安を口にしない。自分の感情も口にしない。
 いつも僕を一番に考えてくれる。本当はだってこの時代に恋しさを感じているんだろうし、この時代の思い出を整理しきれていない部分だってあるんだろうに。
 空を駆けるの邪魔にならないようそっと、僕はの首筋を撫でた。
 欠けた月、輝く星。
 彼らがざわめいているのは、彼らも僕らに興味を持っているから。



 星降る谷。
 谷のややひらけたところにが降り立つ。
 ゆっくりの体から降りた僕は、大地を踏みしめた後、その場にごろんと仰向けになった。
 星がよく見える。一斉にいろんな星が僕に語りかけてくる。
 となりに行儀よく伏せたは、僕の体に身をすり寄せて、僕を見守ってくれている。片手で彼の体を抱きしめながら、僕は星の瞬く夜空をじっと見つめた。
 星たちの賑やかな会話しか聞こえない、随分と静寂した夜だ。この谷では、風の声と星の声しか聞こえない。

 <、どうしたの、暗い顔をして>
 <そうだよ、。そんなに暗い顔をしていると僕らまで不安になってしまうよ>
 <でも、ここに到着してすぐに旅立たずに、私たちを見上げてくれて嬉しいわ>
 <との挨拶、したかったもの>
 <まさか私たちにまで忘却術の影響がある、なんて言わないわよね?>
 <あら、嫌よ私。のこと忘れちゃうなんて。せっかく話しかけられるようになったのに>
 <同感。僕たちが君に話しかけられる日をどんなに心待ちにしていたことか>

 普段よりも珍しい光景だった。
 数多の星がそれぞれ思い思いに会話をしている。
 集まった星の意志が多すぎて、僕の周りが若干光を帯びているようにも見える。
 が怪訝な顔をして僕を見て、体の周りのにおいを嗅ぐ仕草をする。

 「……随分と珍しいですね。あなた方が集まっているから、にも若干星の意志が見えているようですよ」
 
 <あら?私、その紅獅子にはいつも星の声が聞こえているものだとばっかり……>
 <しーっ!それは言わない約束じゃないっ!‘地球’様に怒られるわよ>
 <あ、あ、そ、そうよね。ごめんなさい、。今の話は忘れてちょうだい?>
 <……それにしても、とお別れなんて……寂しいな>

 しんみりとした星の声に、今日までの記憶が波のように押し寄せてきた。
 たまらずのほうを向き、の柔らかい体毛の中に顔を埋める。

 (……)
 「……本当はね、気持ちの整理なんて出来ていないのかもしれない。帰宅するための魔法も、時の歪みを修整する術も見つかった今、僕がこの場に居続ける理由は何もない。でも……やっぱり、長く留まりすぎたかな。随分と情が移ってしまったみたい」

 星の瞬きが僕を包み込む。穏やかな風がの毛並みを浚っていく。
 星降る谷は静かだ。星の声と風の声しか聞こえない。

 <、悲しい顔をしないで?>
 <ここで完全なる終わりを迎えるわけじゃないさ>

 「……僕を、励ましてくれているの?」

 <だって、すごく悲しそうな顔をしているんだ>
 <心配になるよ、
 <あなたが悲しい顔をしていると、私たちも悲しくなるの>
 <、君はここでの別れを今生の別だとでも思っているのかい?……そんなことはないよ。だって、の胸の中にはたくさんの思い出が詰まっているんだから>

 「……僕の居た時代には、僕のことを知らない彼らが存在するんだ。僕との思い出など持たない彼らが……それも、僕よりも成長した姿でね、存在しているんだ。それを考えると胸が苦しくなるよ……」

 深いため息をつく。
 明日、朝日が昇れば……その目覚めと同時に僕の存在はこの場所から消えてなくなる。明日、日が昇れば僕とこの時代の人々の交わりはなくなる。
 ……それは、たとえ無意図的であれ、この時代を訪れてしまった僕へ課された試練だ。
 僕はこの胸の痛みに耐えなくてはならない。
 だけどまだ……辛いんだ。
 の茶金の瞳が僕を心配げに見つめている。彼のざらりとした感触の舌が、僕の頬を何度も舐める。
 くすぐったい感覚が、彼の体温が直に伝わってくるそれが今は君との繋がりを感じさせてくれる。

 「僕は君に救われているよ、
 (……たとえみんなが忘れても、が覚えてる。が覚えてることは俺も覚えてる。忘れたりなんてするものか。もう絶対……)

 深い色の瞳。その奥に秘められた強い決意。
 ……僕に出会う前のは、僕よりもほんの少しだけ早くこの世に生を受け、僕と出会うまでにいろんなことを経験している。
 きっと、僕の知らないその経験が、のこの瞳の中に現れているんだろう。
 ただ僕は彼の体を優しく撫でた。

 <辛い?>

 「……ええ。そう簡単に受け入れられるほど単純な感情ではないみたいです」

 <の辛さは僕たちも一緒なんだ>
 <私たちも、と同じ>
 <あなたが去った後、あなたが生を受け、あなたが試練を突破する年齢に達するまで、私たちはあなたに話しかけることが出来ないの>

 「……それ、は……」

 <時を歪めることは私たちにも許されないの>
 <が帰宅したその後の日まで、僕たちはとこうして話した日々を黙秘する>

 「ごめんなさい。あなた方にも負担をかけることになるなんて……」

 <勘違いしないで、。私たちはそれすら受け入れている>
 <そう、いいの>
 <少し辛い日々を送ることになるけれど、いいのよ>
 <だってその先に、またと話せる日がやってくるんだから>

 風に包み込まれるような感覚がする。淡い光に包まれる僕の体は、誰かに見守られているような温かささえ感じる。
 の温もり、彼の呼吸、鼓動。一つ一つが僕のそれらと呼応している。
 の体をぐっと抱きしめ、その体毛に顔を埋めた。やっぱり僕は、君の存在に救われている。

 <私たちは、この先訪れる、ほんの少しの日々を過ごす覚悟が出来ているのよ>
 <辛いけれど、その先のにまた逢いたいから>
 <だから。君は魔法をしっかり発動させて、帰らなくちゃ>
 <他の子たちにしたって、たとえの存在を忘れていたとしても……全てが全て、もう二度と同じように振る舞えなくなる訳じゃない>
 <時の歪みの修整のためにここで失った日々は、未来でもう一度創造できるよ、
 <そう、だから大丈夫>

 星が僕の名を呼ぶ。
 が僕の体と空を交互に見上げ、納得したのかしていないのか、一度低いうなり声を上げた。
 の体の全体をゆっくり撫でながら、僕は深く息を吸った。

 (たとえみんなが忘れてしまっても、俺が覚えているよ、
 「……」
 (ここで過ごした誰にも語れない秘密は、俺と語ろう、。きっとのことだから、帰ってからも悩むんだろうな。は優しいんだ。悩んだら、俺といっぱい語ろう)

 まるで星の言葉が聞こえているかのようには僕の気持ちを慰めてくれる。
 どうしてはこんなに優しいんだろう。
 体を折り曲げてと同じくらいの大きさになる。冷たい大地と空気に触れながら、僕はありがとうと何度もつぶやいての体を抱きしめる。

 <……紅獅子は、とてもいい子ね>
 <さすが、の護衛に抜擢されるだけあるわね>

 「は僕の大切な半身です」

 星の言葉に呼応するようにが小さく鳴く。
 月は頭上高く登り、今にも数多の星が降ってきそうな澄んだ空をしている。
 その名の通り星降る谷だ。





 僕はしばらく黙って星を眺めていた。
 僕がここに来てから今日までのことを思い思いに語る星たちの言葉に耳を傾け、と思い出を共有する。
 ここに来た日の夜、不安だけが支配する心で眠った日。
 母上の母上らしくない態度にものすごい困惑を受けていた日々。
 父上との初めての出会い。
 イーノックやヒュー、セブルス、グリフィンドールの四人……いろんな人と過ごした日々は思い出すだけでも笑いが止まらなくなるくらい楽しい日々だった。
 月に一度のスリザリンの茶会で、いつの間にか母上と一緒に茶菓子の準備をするようになったこと。
 どんなにがんばってもヒューは卵も割れないくらい料理には疎いってこと……
 ホグワーツの台所に居る屋敷僕妖精たちは、最初は僕の姿におびえていたけれど、そのうちの体を見て回るくらいに仲良くなって、が僕の後ろに逃げるくらいにまで、彼にじゃれついていたこと……
 思い出は語り尽くせないほどある。
 辛い日々も多かったけど、それでもここで過ごした日々は楽しかった。

 そんなことをしばらく思い出した後、僕は大きく息を吐き出し、体を起こした。
 思い出を語るのは、終わりにしよう。
 僕は、僕の責務を果たさねばならないんだ。

 (……もう、いいのか?)
 「うん」
 (でも、……)
 「迷いは、残ってる。これからもとの時代に帰った後のことを考えると辛い。でも、辛いのは僕だけでいい。この時代の人にまでその辛さを背負わせることはないよね。時を歪めることによって出来た僕という存在をずっと認知しているほうが、突然居なくなったことに戸惑い、思い出を整理する時間も与えられず混乱するはず。それならずっと、僕が一人でその辛さを背負うよ」

 そう。記憶さえ消えてしまえば。
 僕という存在のことすら知らず、この時代の人々は何も気に留めることなく生きる。
 ……本当はわかっているんだ。この時代から去りもとの時代に戻ることで辛いのは僕だけだってこと。
 記憶のない人々は僕と出会うことを辛いとも懐かしいとも思わない。
 だから、僕の気持ちが整理できればいいんだ。

 「それに、がいるもの、僕には」

 ローブの中から杖を取り出しつつ僕はに小さな笑みを向けた。
 整理できない事柄はたくさんある。
 元の時代に戻った後の辛さを乗り越えられるかどうか不安な部分も多々ある。
 でも、が居る。
 星たちも、僕と共有する長い辛さを受け止める覚悟をしてくれている。
 ……あとは、僕だけなんだ。

 杖をぐっと握った。
 目をつむり、体中の感覚を研ぎすまして魔力を集中させる。
 そして一筋、僕の周りに大きな円を描いた。
 獣帯十二宮図にも似た、円陣。星の光に照らされて、ぼんやりとその筋が浮かび上がる程度の薄い円だ。
 魔法石をその円上に配置させ、星の光のもとで僕は僕という存在のない日々へ記憶を書き換えるための忘却術を準備していく。
 石の配置を少しずつずらし、計算式に当てはめていく。
 思い出を書き換える。いいや、違う。僕の中にだけこの思い出を封印するんだ。

 石が配置されるたび、道筋が円上に描かれるたびに胸が締め付けられるような息苦しさを覚える。
 だけどこれは、僕がやらなくてはならないこと。前に進むために、僕が選んだ道。

 ……あと、少し。
 円の中心に僕と一緒に居るが、物珍しげに大きな円陣の中に魔法式が組み敷かれていく様を眺めている。

 さようなら、素敵な思い出たち。
 さようなら、僕が歪めてしまった時代。

 最後の石を、配置した。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 帰宅するための最後の心の整理。