抗えない調べ


 「別れの挨拶もせずに行ってしまうのかい?」

 静寂に包み込まれた谷に、風に乗るようにして落ち着いた声が響き渡る。
 ヴォルデモート卿は、まさに今目の前で禁忌と言われる魔法を発動させようとしている息子の姿を、その紅瞳で捉えた。
 淡く輝く円陣と、その周りに一定の規則のもとに配置された石。
 円陣の中央に立ち、杖を振り下ろそうとしていた腕が止まる。
 胸ほどの高さに浮いていた石が全て地に下ろされ、円陣はその光を失った。

 振り返ったのは、驚きと戸惑いを隠せずにいる息子だった。
 ヴォルデモート卿をその瞳に捉えると、一瞬目を見開き、そしてすぐにうつむいた。
 左腕に軽く触れるの手。ヴォルデモート卿は小さく首を動かし彼女のほうに視線を向けた。の瞳にもの瞳にも、同じ色が見える。

 「……いらして、たんですか……」
 「私たちにすら何も告げずにここから去ろうと?」

 うつむいて視線を逸らしたは、小さく首を縦に振った。ため息をつき、言葉を探しているようにも見える。
 からの手紙とからの連絡を受け、予定を変更してここにやってきて正解だった、とヴォルデモート卿は思った。
 偉大なる闇の帝王の後継者は、その身に膨大な魔力と知識を抱えながら、今はまだあまりに繊細すぎる。それはおそらく、隣で複雑な感情を上手く表現できずにいるに似たのだろう。悩んでいる時のこの二人の瞳はよく似た色を湛えている。
 あきらめたように悲しげな笑みを見せたが、円陣の中心から出てくる。
 ヴォルデモート卿も一歩進むと、向かい合った息子の肩に手を置いた。

 「せっかくの君の旅立ちを見送れないなんて、そんな悲しいことをさせないでくれよ、
 「父上……でも、消えてしまう記憶です。僕がここを去った後、あなた方はどうしてここに居るのかわからなくなるでしょう……」

 肩に置いた腕をそのままの背中にまわし、ヴォルデモート卿はを優しく抱きしめた。
 腕の中に収まった華奢な体のは、戸惑いを隠せずに居る。
 ……未来から時を遡ってやってきたが抱えるものは、この時代を生きる自分が抱えるものよりも遥かに大きくて難解な問題である。ヴォルデモート卿はそれを理解している。
 しかしだからといって、自分の後継として文句のない力を持ったを手放すことを容認するのは、ヴォルデモート卿にとって不本意な結論だった。
 出来ることならこのまま魔法の発動を阻止し、自分の手元に置いて自分をも超える偉大な魔法使いへと育て上げたいと思っている。
 けれどもそれは、時を歪めることになり、の気持ちを考えない行為になる。
 だからヴォルデモート卿は、後継者育てを未来へ託すことで、不本意な結論を受け入れることにしたのだ。
 ‘過去に手を加えることは許されない’と星見であるはよく言う。
 星見の力を受け継いだにも、おそらく色々なものが見えているのであろう。
 そしてそれがまた、この華奢な体に大きな悩みを抱えさせる原因となっているのだろう……と、息子を腕に抱いてヴォルデモート卿の中にも複雑な感情が生まれる。

 「僕らが忘れても、君が覚えている」
 「……」
 「僕らのことはいいんだ。忘れてしまうとしても、君が戻る時間までこの時代が進めば、また君に逢えるんだから」
 「大切なのは、の気持ちよ」

 がヴォルデモート卿の隣で同じようにをその腕に包み込む。
 は二人に抱きしめられる形となり、ますます戸惑っているようだ。
 震えた手は小さくヴォルデモート卿のローブを握っていた。

 「お二人はとても優しいから……最後に逢ってしまったら、元の時代に戻るんだ、って決めた思いが揺らいでしまう気がして……ごめんなさい。ちゃんとした連絡もしなくて」

 うつむいたままのが小さくつぶやいた。
 をじっと見上げている。と同じように少し不安の色を瞳に浮かべている。
 ヴォルデモート卿は、の不安を拭おうと背中に回した手で優しく彼の体を撫でた。小さな子どもをあやすような仕草をする。
 ……が愛に飢えているのをヴォルデモート卿は知っていた。
 自分のように初めから求めるものがはっきりしていたわけではなく、家庭環境も複雑さを極める。おそらく未来の自分は多忙で、現在同様家族という生活を営める状況にはないのだろう。
 そんな中で、ホグワーツで人と触れ合うことを知ったら……
 に似て、星の声をも聞き取るほどの繊細な心を持つが迷わぬ訳がない。ヴォルデモート卿はそう確信していた。
 事実、忙しさの合間を縫ってと過ごした日々で、如何に家族という存在にが憧れていたのかを実感した。
 だからこそヴォルデモート卿はこうして見送りにきたかった、と心の中でつぶやいた。

 「君は僕の偉大な後継者だ、。時を超える魔法も、より高度な忘却術も、君はここで完璧にやってのける。僕はそれを確信しているよ。だから、逢いたかった」

 やっと落ち着いてきたに軽い笑みを見せると、ヴォルデモート卿とはほぼ同時にその腕を離した。
 谷の間を駆け抜ける風が、小さな音を立てた。

 「あなたに伝えたいことがあるの、
 「母上?」
 「あなたがここに来てから、私の生活は変わったわ。悩んだり笑ったり泣いたり……あなたが私の生活にいろんな音色を与えてくれたの。それはすごく新鮮で心地よいものだった。ありがとう、

 少し肌寒い風に浚われる髪と肌。
 の瞳からはらりと温かい水滴がこぼれ落ちた。
 必死に袖で涙を拭い声を殺しているの姿。が差し出した絹の手巾を受け取るも、それは何の役割も果たせずただに固く握られたままだ。
 心配そうにの顔を覗き込むも、どこか穏やかでない瞳をしている。
 長い時を生きてきたヴォルデモート卿やでさえ、無意図的な力でやってきた未来のと過ごした日々を忘れることや、この先長い間と再会できないことを思うと、それを全て受け入れることは出来ていない。無理矢理に自分の感情を納得させるための理由を作り上げ、それをよりどころにしているに過ぎない。
 それを、まだ年端のいかぬが受け入れられるはずがない。

 「ごめん、なさい……帰らなきゃいけないのはわかってるんです。だけど、本当は……父上と母上と過ごした日々を忘れられなくて……ずっと一緒にいたくて……」

 嗚咽とともにこぼれる透き通った音は、言葉にならずに掻き消えるほどの旋律だ。
 ヴォルデモート卿の指が、の涙をそっと拭った。

 「僕も、同じこと考えてたよ。このまま君とずっと一緒に生活できたらどんなにいいだろうって。君ももホグワーツから連れ出して、世界を見せて回りたい」
 「……ヴォル……、私もあなたと離れたくないのよ。ずっと一緒にいたいといつもそう願ってたの」
 「でも、僕は……」

 もう音にすらならない声でが小さくしゃくり上げた。
 軽く肩に触れ、ヴォルデモート卿はの涙を優しく拭う。

 「ここに来たのは、お別れを言うためじゃないんだ。君の手紙にも書いてあったね。別れのために時間を裂くことはない、って。僕がここに来たのは、君と約束をするためさ」
 「……約、束……?」
 「たとえ忘れてしまっても。もしも未来の僕が君と逢うのを初めてだと認識しても。僕はこの約束だけは絶対に果たす。だから、思い出を全てその胸に秘めて旅立つ君に、覚えていてほしいんだ。僕は、君に世界を見せる。と僕とのみんなでともに生活する日々を君に約束する。少し時間がかかるかもしれないけれど」

 わっとの目から涙が溢れ出した。
 もう拭うこともせずにはヴォルデモート卿の胸にしがみついて涙を流した。
 の足下に行儀よく寄り添っている。
 の手が、の背中を優しく撫でる。

 「約束するわ、。あなたとの素敵な日々を。ここでの生活よりももっと素晴らしい日々をあなたと共に過ごすことを」
 「父上、母上……」
 「時を歪めることは絶対の禁忌。だから僕は、君との生活を未来に託す」
 「……全ては星の御心のままに……あなたに逢えてよかった、
 「君にとっては一瞬の、僕らにとっては少し長い別れ、かな」
 「そうだわ。写真をとってもいいかしら?」

 写真?とが涙を拭って顔を上げた。
 が杖を振ると少し離れた場所に魔法使い用のカメラが現れた。

 「写真。魔法使い用の写真だから、記憶を書き換えたのならば、あなたの姿はこの写真には写らないわ。魔法が成功したかどうかを確かめるためにも使えるんじゃないかしら」
 「……悪くないね。君が失敗するなんて考えられないけれど、成功を確かめる術はあったほうがいい。それに、記念になるしね」
 「全て消えてしまうのに?」
 「全て君の中に残るよ」
 「そうね。書き換えられるとしたら、私はヴォルに逢うためにこの谷を訪れた、という記憶に、かしら。写真を見ても何も思わなかったら、きっと気まぐれに写真がとりたくなっただけと認識したのなら、魔法は成功ね」
 「あんまり写真に写るのは好きじゃないけどね。となら別だ」

 少し考える仕草を見せた後、は涙で腫れた顔を精一杯笑顔で飾ろうとした。
 足下のを呼び寄せ、の体に抱きつくようにして据えられたカメラを見つめる。
 の横にヴォルデモート卿とがそれぞれ並んだ。
 複雑な思いが交錯する谷を、勢い良く風が駆け抜け谷間から割れるような音が響いた。

 ……と、同時に。
 軽く光が三人を包み込み、三枚の写真が宙に舞った。
 つかみ取った写真を覗き込む三人。
 泣きはらした顔で精一杯の笑顔を作ろうとすると、を心配しているが真ん中に写り、その横にとヴォルデモート卿が写っている。
 この特殊な状況さえなければ、何の変哲もない家族写真だ。は手渡された一枚を食い入るように見つめている。

 「あなたが写っている写真なんて随分貴重なものになったわね、ヴォル」
 「自分の姿を残す必要がないからね。写真なんてホグワーツを卒業してからずっと無縁のものだったよ」

 ヴォルデモート卿は、その写真をローブの中に大切にしまった。は片手にそれを持ったままで、の肩に手を触れる。
 両手で写真を握ったは、触れられた温もりに気がついて顔を上げた。

 「真実は、あなたの心の中に」
 「母上……」
 「あまり長く引き止めていても、あなたを手放したくない気持ちが増大するばかりね」
 「僕との約束、覚えておいて、。たとえ全ての人間が忘れても、君が覚えていてくれることに価値があるんだ」

 握りしめた写真をローブの中に大切にしまい込んだは、ぐっと小さく拳を握り、強い光を湛えた瞳でヴォルデモート卿とを見つめた。

 「絶対に忘れません。僕は、この時代で父上と母上に出逢えて幸せでした」
 「さようなら、じゃないわね。いってらっしゃい、
 「少し先の未来へ、か。大丈夫、僕らにとっても君にとってもほんの一瞬の出来事さ。少し先の未来で再会できるのを楽しみにしてるよ」

 穏やかな光を浮かべた紅い瞳は、驚くほどまっすぐだ。これが闇の帝王なのかと思うほど、ヴォルデモート卿は澄んだ笑みをに向けている。
 両手で涙を拭ったは、まずと抱擁を交わした。
 の髪を優しく撫で、にしがみついているように見える。
 二人の抱擁が終わると、ヴォルデモート卿がの体を抱きしめた。
 あまりに華奢で繊細すぎる、不世出の魔法使い。偉大なる闇の帝王ヴォルデモート卿をもしのぐであろう未来を約束された後継者。
 その年齢よりも遥かに高度な魔法と知識を使いこなす反面、時にあまりに幼い姿を見せることがある。
 側に居られれば一番いいのだが。そんな考えが頭の中をよぎることもあるが、ヴォルデモート卿は一瞬の儚い思いを静かに心の中に封印する。自分にはやるべきことがある、と。

 ヴォルデモート卿との抱擁を終えたは、一度深く息を吸った。
 ローブの中から杖を取り出し、それを強く握る。
 光を失った円陣の中心にもう一度立つと、軽く杖を振った。
 円陣はヴォルデモート卿がここを訪れたときと同じように淡い光を放ち、周囲にちりばめられた石はの胸の辺りと同じ高さまで浮遊した。
 ほのかにの体も光を帯びているように見える。
 円陣の中心にの姿。小さな羊皮紙の切れ端が広げられる。
 聞き慣れない言葉が、風の音に乗って響き渡る。

 "soles occidere et redire possunt nobis, cum semel occidit brevis lux, nox est perpetua una  dormienda."

 時の流れに逆らうことは許されない。
 過去から未来への介入も、未来から過去への干渉も。
 ……魔法とは、なんと便利なものだろうか。
 忘却術を使えば、時の歪みという禁忌を修正することはいとも容易く出来る。
 それは、まさしく抗ってはならないもの。
 ヴォルデモート卿は自分の体に何か魔法が干渉するのを感じた。たとえそれが抗ってはならないものだとわかっていても、他人の魔法を無防備にその身に受けるのは不愉快極まりなかった。
 それでもヴォルデモート卿は静かな声で呪文を唱えるの姿をじっと見つめていた。
 例え忘れてしまう記憶だとしても、この目でしかと見届けたい。そう思っていた。

 "nox erat, vino somnum faciente iacebant corpora diversis victa sopore locis."

 やがて、の体は強い光に包まれた。
 音も立てずに地から足を離したの姿は……そのまま空を裂く音のみを残して、大気の合間に掻き消えた。
 光は消え、浮遊していた石も、円陣もどこにも痕跡を残していない。
 ……ひしり、と小さな音を立てたのを最後に星降る谷は深い静寂に包まれた。








































 「……ヴォル……」
 「……」
 「どういう、ことなのかしら。これは……」

 不可思議な表情を浮かべたがヴォルデモート卿の顔を覗き込んだ。その手には、写真が一枚握られている。
 左右にヴォルデモート卿との姿が写り、その間は全く不自然な空白。
 写真をいやがるヴォルデモート卿を無理矢理写真に収めた、とも見えなくもない。

 「……完璧にやってのけたようだね。さすが僕の後継者」
 「でも、私の中には記憶が残っているわ……写真の中からは消えているのに」

 ヴォルデモート卿は最後に風に乗って聞こえてきた微かな音を思い出した。
 おもむろにローブの中に手を入れると、チェーンの先につなぎ止められた紅玉を取り出す。
 それには、半分に割れるか割れないかというほどの大きな亀裂が入っていた。
 それを目にするとヴォルデモート卿は小さく口端を上げた。

 「ごらん、。君もこれと同じものを持っているだろう?」
 「これは……クリスマスの時に、からもらった……」
 「紅く輝く宝石に宿る力は昼を司る太陽の力。絶対的な力によって、あらゆる物を留めておく能力を持つ……昔、君が僕に教えてくれたことだ」
 「……紅玉が、の忘却術に逆らって記憶を留めた、と?」

 信じられない面持ちでヴォルデモート卿の手の中に収まった紅玉を見つめる
 亀裂の入った紅玉からはもう魔力を感じない。

 「この程度の大きさだと、手にした一人の記憶を留めておくことで精一杯だったんだろう。その写真が示すように、彼の魔法は寸分の狂いもなく成功しているはずさ。僕らを除いて、ね」
 「抗えないものに、意図せずして抗ったのね……」
 「最後に聞こえた小さな音が、時の修正に対抗する音色だったとはね。まさかも思ってもいないだろうな……」
 「これは大きな問題だわ。時の歪みの修整は星の大意。こんな形で残ってしまうなんて」
 「ならば星は、意図せずして残ってしまった僕らの記憶を消す、とでも?」

 風が吹く。
 ヴォルデモート卿の言葉に、風になびいた髪を払いながら、が首を横に振った。
 空を見上げてみたが、ヴォルデモート卿には星の声など聞こえるはずもなかった。

 「また逢う時まで、決して口外せぬよう……それが星の意志よ」
 「……へぇ……」

 は円陣の描かれていた中央へ足を運んだ。
 そこに円陣の痕跡は全く残っていない。

 「どれくらいの時を過ごしたら、またと過ごせるのかしらね……」
 「きっと、そんなに長い時間じゃないよ」
 「そう、かしら」
 「僕がにした約束、覚えているかい?」

 の隣に足を進めたヴォルデモート卿は、彼女の肩をそっと抱いた。
 振り向いたがヴォルデモート卿をやや見上げる形になる。視線が合うとヴォルデモート卿は屈託ない笑顔を浮かべた。

 「君にも同じ約束をここでするよ。僕は、君に世界を見せる。と僕とのみんなでともに生活する日々を君に約束する。時間がかかっても、必ず」
 「ヴォル……」
 「あまりにも長く僕たちは一緒に暮らせていないからね。……君とは、出来る限り僕の計画から遠ざけておきたいんだ。来るべき日まで、君たちの身に危険が出来るだけ訪れないように。でも、君には少し辛い思いをさせているのかもしれない。と一緒に生活して思ったんだ」

 懺悔するかのようなヴォルデモート卿の声に、は小さな笑みを浮かべた。白い腕がヴォルデモート卿の顔の輪郭に触れる。

 「私が寂しがっているとでも?」
 「多少は、ね」
 「いつまでも子どもじゃないわ。あなたのしていること、しっかり理解しているつもりよ」
 「さすが、僕のだ」
 「……でも、そうね。みんなで一緒に過ごせる日を夢見るのも悪くないわね。それがどんな形であろうと……その日のために、もう少し待ってみるわ」
 「もうすぐ、もうすぐだよ、きっと」

 と同じようにヴォルデモート卿の手が彼女の輪郭に触れる。
 腕の中に収まったの髪からは、と同じ香りがした。


 星降る谷に流れる旋律は、風の奏でる調べ。
 静寂に包み込まれひっそりと存在する谷に、誰のものとも知れぬ歌が響く。
 二人の姿は闇に溶けこんだ……






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 実はを泣かせたかっただけだって言う……(笑)