スタートライン
窓から差し込む朝日がまぶしくて僕は目を開けた。寝台の横の小さな机に置かれた目覚まし時計が、いつもと同じ音をけたたましく響かせている。
目覚まし時計の音を停止させ、寝台の上で伸びをした僕は、小さく隙間の開いたカーテンを全部開ける。素足に触れたフローリングがひやりと冷たい。
随分と寝苦しい夜だったな、と思いながら大きな欠伸をした後、部屋履きに足を通すと、僕は自分用のマグカップを棚から取り出し、珈琲を飲もうとポットの電源を入れた。お湯が沸くまでの間、いつものように本棚にすぐ手が届く位置にあるテーブルにカップを置いて待つ。
今日は珍しくよりも先に僕が目覚めたみたいだ。いつもなら、僕が起きるときには既にこのテーブルに水晶玉を乗せて、大きくて紅い獅子と一緒にそれを覗き込んでいる。だけど今日は、どうやらのほうが僕に「お寝坊さん」と言われるようだ。
自分は役目を終えたぞ、とばかりにポットが小さな音を立てる。あらかじめ挽いてある珈琲を珈琲プレスに入れお湯を注ぐ。そのまましばらく待つ。
こうして自分で珈琲を入れるのも久しぶりだった。いつもはが先に準備をしていてくれる。僕の全身の血流が良くなる頃には、目覚めにぴったりのほろ苦い珈琲が目の前に登場していたっけ。
それにしても珍しいな。もうすぐ起床時間だって言うのに、音にも光にも敏感ながこんな時間まで眠っているなんて。
「、いつまでも寝ていると朝食と授業に遅れるよ」
僕はの眠っている寝台の方を振り返り、そして唖然とした。
そこには何もなかったんだ。が転校してきた日、慌ただしくホグワーツの屋敷僕妖精が運んできた生徒用の寝台も掛布も、の姿も。
冷たいフローリングがむき出しのままそこにある。ただそれだけだ。
まさか僕は夢でも見てるのか?
両手で目をこすり、頬を軽くつねり、そしてもう一度部屋の中を見回した。部屋の中にあるのは、僕の所有する本が詰まった本棚と、テーブルと椅子、僕専用の寝台、それから生活に必要なものたち。
どれもこれも、全て僕のもの。
「あ、れ……」
出来上がった珈琲を飲むのも忘れ、僕はただ目の前の光景が信じられずに呆然としていた。
これじゃまるで、まるで僕が恐れていた最悪の結果じゃないか……
起床時間を知らせる鐘の音が寮内に響く。それぞれの部屋から人が動き始める気配が伝わってくる。静寂な空気が裂かれ、人が活動する時間帯になる。談話室にも何人か集まってきたようだ。
夢か、それとも彼の気まぐれによる悪戯か。
談話室に顔を出せば、いつもと変わらぬが笑顔を僕に向けて待っているかもしれない。僕を驚かせようとしているだけなのかもしれない。
珈琲をカップに注ぎ、ローブを羽織った僕は、動揺を悟られないように寝癖を撫で付けながら部屋の扉を開けて談話室に出た。
誰かが火をともしたばかりの暖炉はまだ勢いが弱く、談話室の空気は冷たかった。
僕と同じようにローブを着た下級の生徒たちが暖炉に一番近いソファーに腰掛けていたけれど、そこにはの姿はなかった。
嫌な予感が、した。
「おはよう、ヒュー。てっきりヒューが暖炉の火をつけてくれてるんだと思ってたよ」
「いつも一番に談話室にいるのに、今日は珍しいわね、ヒュー」
普段と変わらない寮生の姿。ホグワーツの中に何か異変が起きたとも思えない。談話室にの姿はないけれど、ただそれだけであって、それが誰かに影響をもたらしているとは思えない。
まるで、が転校してくる前のホグワーツに戻ってしまったみたいだ……彼がいない、夏休み前までのホグワーツの日常がそこにあった。
やがて、ぞろぞろと生徒が談話室に訪れる。みんな思い思いの場所に座りながら朝の談笑を楽しんでいる。
掲示板に新たに掲示されたことはないか確認し、今日の授業の準備などをしている。そう、何も変わっていない、ホグワーツの日常が目の前にあった。
ただ、僕の中にはがいないと言う違和感が存在する。
「おはよう。ところで、を知らない?」
「?……誰、それ?」
「ヒュー、寝ぼけてるの?なんて名前、聞いたことないよ?」
「そ、そうだっけ?なんだかずっと一緒にいたような気がするんだけどな……」
「やだ、ヒュー。まだ頭の中の半分が夢の世界にいるんじゃないの?」
「それなら僕がとっておきの目覚ましをあげるよ!」
同級生の強烈な平手打ちを右手で防御する。よけられた、と彼は小さく舌打ちをしながら笑った。これは、やっぱりいつもの光景だ。
……の存在だけ、奇麗に掻き消えている。
「そっか、それならやっぱり夢だったんだな。っていうすごく奇麗な男の子が転校してきてさ。僕とルームメイトになるんだ。頭が良くてすぐに首席になるし、ホグワーツでも大人気になる。いつも紅い獅子を連れてて……なんて、夢、見てた」
「すっごい生徒だな、そいつ。本当にいたなら、な」
「ヒューの夢物語かー。それにしても、現実にいそうでいなそうな感じよね、それ」
「もしかして、ヒューの願望の集大成じゃないのか?」
「僕が、頭が良くて人気者で紅獅子を連れて歩くような子を求めてるって言いたいのかい?」
「もしかしたら、ヒューはそうなりたかったんじゃないの?大丈夫よ。ヒューだって、ホグワーツの有名人で大人気じゃない」
「監督生だし、頭はいいし。先生からの信頼も厚い!面倒見はいいし、見た目だってその辺の奴らよりよっぽど整ってるわよ」
ソファーに腰掛け珈琲を喉に流しながら、僕は彼らの談笑に加わり苦い笑みをこぼしていた。
友人らの話を聞いていると、の記憶がある僕のほうがおかしいんじゃないかと思ってくる。僕が記憶だと思っているとのいろんな出来事は、実は全部この一夜の中で見た夢物語だったんじゃないかとすら思えてくる。
ともかく、この談話室にもの痕跡は全くなかった。
……本当なら、談話室に準備された長いテーブルの上には、が作ったテーブルクロスが掛けられているはずで、本当ならお手製のコースターがテーブルの中央に準備されているはずなんだ。お茶会のときはみんながそれを手にしていたし、僕のようにこうして珈琲を手に談話室を訪れる生徒はみんな、の作ったコースターを使用していた。
でもそんなもの、ここにはないんだ。
僕の記憶が間違っているのか、彼らの中からの記憶が全て消えてしまっているのか……
珈琲の苦みはいつもと同じ。でも美味しくない。ただ、苦い現実を僕の目の前に突きつけているだけだ。
「広間に朝食に行こう。そしたら、今日は魔法薬学と、変身術と……それから……」
「占い学、でしょ。先生の授業を忘れちゃだめよ」
「そうだ、占い学だ。楽しみだなー」
ホグワーツの日常は変わらない。
勢いよく燃えだした暖炉の火を少し弱めると、寮生全員が広間に向かったのを確認して僕も談話室の外に出た。
ただ一度振り返ると、入り口の肖像画に尋ねた。
「、という少年をご存じないですか?」
肖像画は首を横に振った。
肖像画の隣に座っていた血みどろ男爵にも同じことを尋ねたけれど、やはり皆一様に首を横に振るばかり。
彼の存在は夢だったのか、それとも僕以外のみんなが忘れているだけなのか……今の僕には判断がつきかねる。
大広間への道を歩きながら、考えるのはのことばかり。
それから僕は一日中いろんな生徒や教員にのことを尋ねたけれど、誰一人として彼のことを覚えている人はいなかった。おまけにホグワーツの中からはがいた痕跡が完全に奇麗さっぱり消え去っているんだ。本当にという生徒は元々ここに存在していないんじゃないかっていうくらいにね。
さすがの僕も、自分の記憶を疑い始めた。一日中これだけ頑張って探したって言うのに、の姿はどこにも見当たらない。それどころか彼の痕跡はホグワーツの中から完全に消え去っている。僕以外に彼の記憶を持っている人もいない。まさか本当に夢幻だったのだろうか……なんて、そんなことまで考えて落ち込んできた。
談話室で気の利いた生徒が用意してくれた珈琲を飲みながら、僕はソファーに足を組んで腰掛けている。もう今日何度ついたか知れない深いため息がまた漏れる。
「今日はため息ばっかりだね、ヒュー」
「え、あ、うん。そうかもしれないな……ちょっと、考えることが多くてさ」
「ふぅん……そう言えばさ、さっきヒューに相談したいって誰かが言ってたよ。確か一年生か二年生だと思ったけどな」
論理的思考の証明問答で上級生を言い負かした五年生の生徒が僕の隣に座りながらそう言った。確かに今日の僕はため息ばかりついている。彼の傍らでは、下級生との問答に負けた六年生が苦虫をかみつぶしたような顔をしている。でも誰も、彼の肩を持つ生徒はいない。
暖炉の前のソファーは人気だ。上級生が上級であることを掲げて先に座っていた下級生を押しのけようとすると、下級生は先に座っていたんだと自分たちの権利を主張する。小さないがみ合い。それもスリザリンらしいやり方で勝敗を争っているから、僕は彼らのやり取りに口を挟みはしない。幸いにして、暖炉の火が一番心地よいこの席に座りたいと申し立ててくる生徒もいない。
もう一口珈琲を口にしたところで、僕の肩が誰かに軽くたたかれた。
左肩の方を振り返る。ブロンドヘアーの青い目をした一年生の女の子が、とても緊張した面持ちで僕を見つめていた。張りつめているのか、表情が硬い。
「どうかしたかい?」
珈琲カップをテーブルの上に置くと、僕は彼女と視線を合わせた。
誰がソファーに座るかなんてことでは上級生が下級生に上級であると言う権利を無条件に押し付けることがあるけれど、格式高いスリザリンの生徒は、上級であるから、だとか下級だから、とかで生徒を選別しない。とはいえ、最上級生と最下級生との間には肉体的にも精神的にも大きな幅があって、下級生はなかなか上級生に声が駆けづらい状態なのも事実だ。ブロンドヘアーのお嬢さんのことは認識していたけれど、彼女から僕に話しかけてくるのはこれが初めてかもしれない。
体の正面で組んだ手をしきりに動かしながら、震えるか細い声で彼女は口を開いた。
「あの、あの……喧嘩を、止めてもらいたくて……」
「喧嘩?」
「朝から、イーノックとその他の一年生男子がずーっと喧嘩してるの。止めようと思って頑張ったんだけど、私じゃ無理なの……」
「そう言えば、朝から一年生の寮部屋は騒がしかったね。そうか、イーノックたちが喧嘩なんてしてたんだ……」
「……喧嘩、止めるの手伝ってくれますか?」
「もちろん」
ソファーから立ち上がる。僕はこの一年生の少女に少し感心していた。僕に全て丸投げするわけではなく、手伝ってくれ、と助けを求めた。その意思を大切にするために、僕はあえて彼女にイーノックたちがもめている部屋へと案内してもらうことにした。イーノックの部屋なら知っているし、自分でいくほうが早いんだろうけれど、この子の意思を尊重することが大切だ。
「朝からって、朝食の時から?」
「そう、なの。ずっと、もうずっと。授業中もね、みんな騒いでて大変だったの」
「そっか。それは問題だな」
「でもね、でも、イーノックが全部悪いわけじゃないって、私思うの」
イーノックの生活している部屋の扉は今にも引き裂かれるんじゃないかと思うほど大きく震えていた。中からはひどい罵声や怒号が聞こえてくるし、ものを投げ合っているのか時折がしゃんという音が聞こえてくる。
扉に鍵はかかっていなかったので、僕は彼女に外で待っているようにと告げると、部屋の扉を静かに開けて中に入った。
部屋の中はあまりの惨状だった。
イーノックもその他の生徒もみんな泣き叫んでいる。寝台の上でシーツにくるまったイーノックがヒステリックな声を上げて、部屋中のものを投げている。その他の生徒は彼に罵声を浴びせながら、掛布で飛んでくるものをよけ、お返しとばかりに棚の中にあるものを投げている。部屋の中は泥棒にでも入られたのかというくらいの散らかりようで、彼らはともに興奮していた。フローリングが全く見えなくて足の踏み場もない。おまけに興奮状態の彼らは僕が部屋に入ってきたことにさえ気づきもしないんだ。
「ほらほらほら!一体何をこんなに騒いでいるんだ?」
大きく手を叩き声を出して彼らの注目を集める。ものを投げていた手がとまり、皆の視線が一様に僕に集まった。
泣きじゃくって目を腫らしたイーノックが寝台を飛び降りて僕に駆け寄ってくる。
「はっ!弱虫がっっっ!」
「ヒューならかばってくれるとでも思ってるのか?!この嘘つきっ!」
「う、嘘じゃないもんっ!何度言ったらわかってくれるのさっ!!は絶対ここにいたもんっ!みんなが忘れてるだけだもんっ!」
「証拠なんかどこにも無いじゃないか!!」
僕に抱きつくイーノック。僕とイーノックを取り囲むようにして枕を握った一年生たちがやってくる。イーノックは僕にすがりついた。
「ヒューは信じてくれるよねっ!ヒューは覚えてるよねっ!はいたよねっ!!どうしてみんな忘れちゃってるの?!どうしてみんなのこと覚えてないの?!」
「そんな変な名前の奴ホグワーツになんているわけないだろー!」
「ヒューにお涙ちょうだいしようとしたってだめなんだから!ヒューは僕たちより大人なんだよ?!どっちのいい分が正しいのか分かりきった話だろう、ヒュー」
詰め寄る生徒、泣きじゃくるイーノック。
イーノックが握りしめている紅玉には見慣れない亀裂が走っていた。
「……事の真偽の検証は、君たちが冷静になってからにしようかな。喧嘩はここでおしまいだ。スリザリンにあるまじき姿だぞ、君たち。物の投げ合いなんて言葉を知らない赤ん坊がする行為だ。喧嘩をするにしてももっとレベルの高いものにしてくれ。さて、冷静になるために君たちには部屋の片付けをしてもらおうかな。きちっと奇麗にするんだ」
「イーノックは?!物を投げたのはイーノックも一緒じゃないか。それなのに僕たちだけに片付けをさせるの?!」
「落ち着いて。君たちとイーノックが一緒にいればすぐにまた言い合いになるだろうからね。話を聞く所によると授業中にも小競り合いを起こしていたんだって?これは由々しき事態だ。だから、イーノックは僕と一緒に先生の処に来てもらう」
渋々枕を引きずり引き下がる生徒たち。僕はイーノックの手を引くと部屋を後にする。振り返ってイーノックが思いっきり彼らに向かって舌を出したのをとがめると、部屋の扉を閉めた。
外ではブロンドヘアーの少女がおどおどした表情を浮かべて僕らを出迎えた。事の経緯を説明すると、僕はイーノックを連れて先生の研究室に向かった。
廊下に出たところで、口を固く結んだままだったイーノックがやっと声を出した。
「……ヒューも、が居たこと、忘れちゃったの?」
か細く悲しげな声。僕はイーノックの手を引きながら首を小さく横に振った。僕を見上げていた彼は驚いたように目を大きく見開いている。
「僕も、朝からずっとがいない事に疑問を持っていた。僕は、イーノックよりも多少ホグワーツで過ごしてきた期間が長いからね。さすがにみんなと喧嘩をするところまでには至らなかったけど……でも、今まで同じ部屋で過ごしてきたルームメイトがいきなりいなくなったんだ。驚かないはずがないだろう?」
北塔の研究室へ続く階段を上ると、大きな扉を軽くノックした。
口数少なく必死に涙をこらえようとしゃくり上げるイーノックの手を軽く握りしめる。
ここに来て、答えが出るだなんて思ってはいないんだけど……多分おそらく、他のどの先生に相談するよりも、先生が一番僕らの事をわかってくれるだろう。そんな風に思ったんだ。占いに精通している先生ならば、もしかしたらの居場所や何かを教えてくれるかもしれない。そんな小さな希望すら持った。
しばらくして扉は音もなく開いた。先にイーノックを中へ入れると僕も中に入る。途端扉はまた音もなく閉まった。
紅茶のいい香り漂う室内。先生は木目調の大きくて広いテーブルの前に腰を下ろし、紅茶を手にしながら僕らに笑みを向けていた。大きな水晶玉が淡い光を放つライトを反射してほのかに輝いているように見える。
「お二人揃って心の中に大きな渦を抱えていらっしゃるのね」
「いきなりお伺いして申し訳ありません、先生」
「気になさらないで。あなたたちが来る事は予想していましたから」
いつもと変わらぬ淡い笑みを浮かべた先生は、僕らに椅子を勧めた。
僕らの目の前に先生お手製の茶菓子と、入れた手の紅茶が用意される。紅茶を入れる手つきやお菓子の味がのそれとあまりにそっくりな事に、僕は今さらになって気がついた。
泣いているイーノックに手巾を渡したあと席に着いた先生は、紅茶のカップに薄くスライスしたレモンを一つ落とした。淡い光に照らされた先生の笑みが、なんだかとてもを思い出させる。なんだろう、この感覚は……
「先生!がね、いなくなっちゃったんだ!昨日、僕の『イーリアス』の朗唱を楽しみにしてるよって言ってくれたのにっ!どこにもいないんだ……みんなの事忘れちゃってるし……みんなひどいんだよ。あんなにの事大好きで、毎日の話してたのにさ。‘そんな名前の生徒はホグワーツには在籍してない’なんて平気で言うんだもん……」
熱い紅茶を一口飲んだ後、イーノックが最初に口を開いた。いつもの調子でしゃべりだす。先生は静かにそれを聞いている。
「先生も忘れちゃった?がいないのは普通のことなの?」
おずおずとイーノックが尋ねると、先生はどちらともとれない美しい微笑をたたえ、僕のほうに視線を送った。
「あなたは何を思っているのかしら、ヒュー」
「……僕は……僕もの事をしっかり記憶しています。今朝、部屋からに関するものが全てなくなっていたときからずっと違和感を感じていました。けれど、他の生徒たちは皆彼の事を語る僕を、夢物語の語り手を見ているかのような表情で見ているんです」
……でも、僕には解せない事がある。普通の忘却術ではこんなに多くの人間から、ある特定の情報だけを全て消し去る事なんて出来ないはずだ。忘却術はそんなに繊細な呪文ではない。
「……抗えない調べに無意図的に抗った形跡が残っているわ。ヒュー、イーノック、あなた方は真っ赤な紅玉をお持ちですね?」
「え?うん、持ってるよ。クリスマスの時、にもらったんだ!」
部屋の中に静かに響く先生の声。イーノックが握りしめていた紅玉をテーブルの上に乗せた。
それは小さな紅玉だった。しかし、見慣れない亀裂が入っている。イーノックが紅玉を大切にしている事は知っていたが、こんな亀裂が入っているものだっただろうか。
そういえば、確か僕もこれと似たような物をからもらった記憶がある。
「これって……」
「彼が唯一この時代に残した痕跡よ」
「……先生、覚えてるんだ!の事!」
イーノックの問いに、先生は小さく首を縦に動かした。手にしていた紅茶のカップをテーブルの上に置くと、肘をついた手にあごを乗せるようにして小さな溜息が漏れた。
先生は何を知っているのだろう……
「……あの子は、あの子がこの時代にいた全ての痕跡を消し去り、記憶を完璧に書き換えてこの時代から去った」
「どう、して……」
「例えば、ここが彼の本来いるべき時代ではないとしたら?何らかの力の作用で無意図的にこの時代にやってきてしまったとしたら?……本来いるべき場所に戻らなければならないわ」
「え、それって……どういうこと?どういう事なの、先生」
「……つまり、ね。あなたたちはまだ彼に逢うはずではなかったの。が本来生きている星廻りは私たちの生きている今とは全く違う。本来の彼はこの時代には存在し得ないのよ」
それは、あまりの衝撃だった。
テーブルの中心を彩るろうそくの炎が小さく揺らめく。
僕らがと一緒に過ごしていたのは、本来ならあり得ない光景だったと?そんな……
誰もが口をつぐみ、あの騒がしいイーノックでさえ、先生の口から語られる事を受け止めきれないのか黙ったままだ。
紅茶に一口口をつけた先生は静かにその次の言葉を語りだす。
「彼はもっと後の時代に生きるべき子よ。本来なら、あなたたちが彼と逢うのは大人になってからなのよ」
「……そんな。時を超える魔法は禁忌。多くの魔法使いたちがその魔法に挑み失敗を繰り返してきた……たとえ成功したとしても大きな制約が伴うのに……」
「の魔法は完璧だったわ。あの子は高度な忘却術を操り、この時代でほんの少しでも彼と関わった者――町ですれ違っただけの他人でも――すべての記憶を、彼の関わりが全くなくなるように書き換えた。たとえ無意図的であったとしても、過去の時代に及ぼした影響を全て修正して、あの子は自分の時代に戻ったのよ。……戻るために彼はここで学び研究していたんだもの」
「そん……な……」
「それは抗えない調べだった。あの子が魔法を発動させる時、私の体にも彼の魔力の干渉があったわ。……ただ、彼が私にくれた紅玉が意図せずしてその調べに抗ったのよ」
先生はテーブルの上に小さな紅玉を置いた。それにはイーノックのものと同じような大きな亀裂が走っていた。
「……石の作用についてはあまり扱っていないのよね、ホグワーツでは。紅玉は全てを留める力を操る魔法の石。重要なのはがこれを選び、が私たちに授けたということ。彼の思いのこもった紅玉が、私たちの記憶を留めた……」
「そんなのっっっ……!」
イーノックが自分の髪をくしゃくしゃにかき乱しながら頭を横に激しく振った。声は震えている。なだめるように彼の背中に手を置いてみたけれど、全く功を成してはいないようだ。
「これがなかったら、僕ものこと忘れてたの?!は、僕たちに、僕たちが彼と過ごした日々を忘れてほしかったの?!そんなの、そんなのってないよ……」
「……時の歪みの修整は星の大意……たとえが望まなくても、あなたたちの記憶は消されなければならなかった……」
「そんな……」
「でも星は、無意図的に逆らった調べをもう一度修正する事を望みはしなかったわ。また逢う時まで、決して口外せぬよう……それが、星の意志よ」
正直、先生の口から語られる真実は、僕には受け入れがたいものだった。鮮明に覚えているのすべてを、この先もう一度彼に逢う日まで口にしてはならないなんて……それよりもまず、彼が未来からやってきてたということさえ疑いを持つ。本当にそんな事が可能なんだろうか……
「でも、そんな……にわかに信じがたい出来事です……僕は彼に忠誠を誓ったのに……」
「……私は、あなたたちの中に記憶が留まった事を良い事だと思っています。彼の事を知らないふりをして生活し、また彼に逢ったときに初めましてと挨拶するのは辛いかもしれない。けれど、留まった記憶があなたたちに道を示したわ」
「道……」
「ヒュー、進路の事で悩んでいたわね。でも、今のあなたなら何をすべきか見えているんじゃなくて?」
「僕は……に……」
「世界を見て廻りなさい。学生として触れ合う魔法界ではなく、この世界の光と闇を見てご覧なさい。いずれもう一度あなたがに出逢ったとき、それが大きな力になります。過ぎ去った過去を懐かしむのではなく、再会する未来のために今出来る事をしっかりおやりなさい」
先生の声は静かだったけれど、とても力強かった。
それから先生はふてくされてうつむいているイーノックに視線を向けた。
「イーノックはホグワーツでしっかりお勉強なさいな。きっと再会したときにに驚かれますよ」
「……がいなきゃお勉強も楽しくないよ……」
「の事、大好きだったのね?」
「もちろんっ!がいるからホグワーツが楽しかったんだ。がいるから大っ嫌いな魔法薬学も頑張ったし、が教えてくれるからチェスも出来るようになった……朗唱だって、が聴いてくれるのがすごくうれしくて……」
「朗唱の続き、に聞かせてあげたいんじゃなくて?」
「うん……」
「それなら、勉学にお励みなさい。に再会した時、が驚くくらいにね。今のあなたが朗唱の勉強をし練習をすれば、きっと今よりもの心を動かすでしょうね……」
僕はぼんやりと将来の事について考えていた。一体いつと再会できるんだろう。それは長い長い月日が経ってからなのだろうか。それなら、それまでに僕が出来る事ってなんだろう。僕は彼のために力になれるんだろうか……
「また逢う時まで、決して口外せぬよう……本当の目標なら、胸に秘め励みなさい。ここがあなた方のスタートラインよ。無意図的だったとはいえ、記憶があると言う事は、あなた方がにとって大切な人物だったということの証明だわ。あなたたちはのその気持ちにどう答えるのかしら?」
先生の瞳はとても強い光を放っていた。
……多分、先生も何か胸に秘めた強い思いを持っているんだろう。
あの日僕がに誓った事、それを叶えるのは容易いと思っていた。でも、どうやら僕が彼に誓った事を実現するのは、まだまだ随分と先の話のようだ。
納得したものの、それでも半分ふてくされたままのイーノックに、先生は茶菓子を勧めている。
ここがあなた方のスタートラインよ
先生の言葉が僕の心を強く打っている……
紅茶を流し込みながら、僕はこの先もう一度に再会するまで、彼の名を口にするのはやめよう、と胸に誓った。
もう一度逢えたとき、心から彼の名を呼ぶ、その日のために。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
タイトルの意味を考えてみる。