夏の想ひ出


 強烈な光に包まれ、時を漂う。
 強力な魔法の力を伴う時の移動。何故それが禁忌と言われ、何故それを行う者に大きな制約がつけられるのか、よくわかる。
 近年開発されている歪みの緩和技術によって、大きな制約のもと時の移動をに許可することも出てきた。ただしそれは限られた道具を使っての時の移動だ。自ら編み出した方法で時を移動しようとすれば、移動中に過酷な体験を強いられる。……同じ体験を何度かしているけれど、僕の体を包み込む時の流れの強大な力の干渉に、僕は慣れることが出来ない。

 視界が変わる。何もない永遠の孤独を彷徨うような時間の狭間から、僕が望んだ僕が本来いるべき場所へと景色が変化する。見慣れた本棚、見慣れた天井。ペルシア絨毯の上の寝台。愛用している机、ふくろうの止まり木。机の上にはリドルの日記帳がしっかり乗っている。寝台の上には、羊皮紙の切れ端を熱心に読んでいる‘僕’の姿が見える。天井近くに現れた僕の体は、淡く光を放ちながらだんだんと高度を下げている。
 僕と入れ替わるようにして‘僕’の体が小さな紙の起こした時の歪みに吸い込まれていく。
 そして僕の体は寝台の上に降り、そこで時の力の干渉は停止した。
 胸の上にはらりと落ちる日に焼けた羊皮紙の切れ端。それはほんの少し前、僕が父上に宛てて書いた手紙にいれたものだ。
 どちらを上にしても読めるように書いた魔法式。僕があそこで発動したものとは逆さまになっている。
 羊皮紙を片手で握りしめ、もう片方の手での体を抱いた。

 帰ってきた……

 それは時間の流れからすればほんの一瞬の出来事だ。瞬きをするかしないかの間の出来事だ。でも僕にはとても長い時間だった。
 が僕の顔を見、僕の体にその顔を埋める。僕も同じように彼の顔に自分の顔を寄せ、彼のたてがみに顔を埋める。

 「ただいま……」

 声を出したら、思いが溢れてきた。この一瞬の間に僕が経験した様々な出来事や出逢った人たちの顔が頭の中を駆け巡る。
 魔法が成功することはあそこで魔法を発動させる時からわかっていた。なぜなら僕は、不自然な空間を持つ父上と母上の写真のことを覚えていたから。
 ローブの中から取り出した真新しい写真はほんの一瞬、僕の姿の写っていない空白の時を僕に見せた。それから、徐々に白の部分が僕との姿で埋まっていく。
 魔法の成功を僕に教え、写真は長い時間の空白を埋める。
 気がついたら大粒の涙が僕の目から溢れていた。何だろう、この感覚。何だろう、大切なものを失ってしまったかのような……心の中にぽっかりと開いた穴は何だろう……

 (……)
 「……、僕……おかしいよね。僕が望んだことなのに」

 は僕の涙を舌で優しく拭ってくれた。でも拭っても拭っても後から後から止めどなく溢れてくるんだ。わかってるはずなのに。

 ‘記憶の修正は星の大意’
 ‘過去に手を加えてはならない’

 過去の時代で何度も何度も悩み苦しんだ言葉たちが僕の胸の中にもう一度響き渡る。
 時を超える魔法は禁忌。大きな制約の伴うリスクの高いもの。あえてそれを試みるのだから、僕には大きな覚悟が必要だった。そこで得たものを全て僕の中にしまう覚悟、そこで見た全てのことを僕の中に封印する覚悟……僕はあの時代で心のトランクに固く鍵をかけたじゃないか。

 <……泣き虫、

 「え……」

 <おかえりなさい、
 <待ってたよ、
 <この一瞬を、僕たちがどんなに待ち望んでいたか、わかるかい?>
 <私たち、あなたとの約束を守ったわ>
 <、君にこうして話しかけられる日を僕たちはずっと待ち望んでいたんだ>
 <おかえりなさい!>

 左右を見渡し、それから窓の外に視線を向けた。まだ外は明るい。それなのに多くの星が僕に一斉に語りかけてきている。も何かを感じ取っているのか、大きな耳を小刻みに動かしている。

 「ただいま、みんな」

 天井の星に手を伸ばしながら僕は小さくつぶやいた。
 思い出せばきりがない。最後の最後まで僕は涙を流したままだったな。少しだけ恥ずかしくなる。それでも後ろめたい気持ちもある。もしかしたら、記憶が消えてしまうのなら、みんなにお別れの挨拶でもすれば良かったのかもしれない。ヒューにはきちんと挨拶しておきたかった。イーノックはどうしてるんだろう……いろんな思いが僕の心の中を駆け巡る。
 僕とあの時代の人たちの間には長い時間の隔たりがあるはずだけど、いまの僕にとってはあそこでの思い出はほんの少し前の出来事だ。
 額に腕を乗せてため息をつく。なんだか瞼が重い。

 「ちょっと疲れちゃった、

 僕はの体を抱きしめ、重くなった瞼を閉じた。
 目を瞑ると、鮮明に過去の時代の人たちのことが思い出される。ホグワーツの悪戯四人組は今頃どうしているんだろうか。彼らが朝を迎えた時、僕の姿はそこにない。それは正しい道へと修正された姿だけれど……少し悲しいな。
 この一瞬に起きた長い長い出来事を思い出して、僕の目にはまた涙が溜まる。
 の柔らかい体毛を撫でながら、僕はだんだんと夢の中に誘われていった。
























 なう、なう。

 耳元でそんな音を聞いた。顔や腕の辺りに冷たくて柔らかい感触がある。多少の体重をかけられているのか、体に負荷がかかってなんだかくすぐったい。
 もう少し夢の中にいたいような、でも少し、この感覚のもとを調べてみたいような……
 隣での低いうなり声がする。そっか、も起きたんだ。それなら僕もそろそろ起きようかな。どれくらい眠っていたんだろう……
 夢現を彷徨いながら、僕はうっすらと目を開けた。窓から差し込む光は、眠りにつく前よりもほのかに薄くなっている。

 <やっと起きたかの>

 途端、丸くて大きな碧眼と目が合った。白い体毛に全身を覆われた雪のような猫が目の前にいる。僕の顔の前に上品に座り、僕の目をじっと見つめている。

 「わっ……」

 驚いて体を起こしたけど、まだ疲れが抜けきっていないのか頭はぼーっとしていた。おまけに体がだるくて重い。急激に起き上がったことによる不可解な揺らぎと頭痛が収まるのを待ってから、僕はもう一度寝台の上に座る猫を凝視した。
 も猫に鼻を近づけてにおいを嗅いでいる。
 それは真っ白な雪と表現するのにふさわしいくらい白い猫だった。白に碧眼がよく映えている。整った顔つきと体のしなやかさが美しい。

 「君、一体どこから……」

 そっと手を差し伸べながら僕はつぶやいた。美しい猫だけれど、屋敷にこんな奇麗な猫がいた記憶はない。いや、まだ僕は夢の中にでもいるのだろうか。

 <まさか、わらわを忘れたとは言わせぬよ、

 なう、と鳴いたはずの声が、言葉となって脳に直接語りかけてくる。ますます驚いた僕は大きく見開いた目で猫を見つめた。僕の周りにまとわりついていた眠気の余韻も奇麗さっぱりどこかに消えてしまった。この猫は……

 「‘地球’様でしたか……」

 <何十年ぶりの再会かの、。……と言っても、わらわたち星にとってもおぬしにとってもほんの一瞬程度の時の流れじゃったが>

 「な、何故そのようなお姿で僕の前に?」

 あまりに猫にそっくりな態度を取る‘地球’は、凛とした姿で僕の膝の上に移動し、満足げな顔をしてそこにうずくまった。思わずうなり声をあげそうになったを止めると、僕は‘地球’である白猫をじっと見つめた。いつもは風や花などを操って僕と触れ合う‘地球’が、動物の姿をとって僕の前に現れるのは初めてのことだった。

 (この猫……俺にも声が聞こえる。これがが言っていた星の声なのか?)

 <正確に言えばそうではないな。わらわは今声のある猫の姿をしているからの。未だ己の内に眠る本来の自分の記憶を失っているそなたにも声が聞こえると言うわけじゃ、

 「あなた様が動物の姿をとって僕の前に現れるのはとても珍しいことだと思うのですが」

 白猫に鼻を近づける。彼の姿を面白そうに眺め、からかうようにその前足での鼻を触る白猫。

 <まぁよい。細かなことは気にするな。やっとが帰ってきたのじゃ。これで星たちは、少し前に試験を乗り越えたにまた話しかけることが出来るようになった。わらわもこの日を待ちわびておった。そろそろの前にも顔を出さねばならぬ頃だと思っておったところだし、この先のそなたに興味があるんじゃよ、

 「まさか……しばらくここに留まるおつもりですか?」

 <動物というのは操りやすくてよいな、。植物のように一つの場所に留まっていなければならないわけでもなく、風のように常に通り過ぎていなければならないものでもない。動ける範囲に制約はあるが……それはまた別で補えば良いこと>

 ‘地球’の意思を持った猫はくったくない笑いを見せ、満足げな声を出して鳴いている。
 が呆れたような瞳で猫を見つめ、それから僕と視線を合わせた。
 膝の上に乗せた猫をどういう風に扱えばいいのか困っている僕を見て楽しんでいるのか、‘地球’は僕の足の上を行ったり来たりしている。それは思い通りに動けることを確かめているようにも見えるけれど……どこか僕の困った顔を見て笑っているように思える。

 <さてのところに案内しておくれ。彼女の元を離れて久しいからの。さすがに血の薄れた猫を連れているのにも飽きてきたところじゃろうて>

 「母上のところに、ですか?」

 <うむ。あれが学生時代、わらわはあれとひとときをともに過ごしたものじゃ>

 「そうだったんですか……」

 待ちきれないように寝台から飛び降りる白い猫。まだ重たい体をゆっくり動かすと、僕も寝台の上から降りる。ペルシア絨毯の感触がすごく懐かしい。絨毯の先のフローリングを進み、部屋の扉を開けると一番に部屋から出たのは白猫だった。次にが続き、最後に僕が部屋から出て扉を閉める。
 いつものように螺旋階段を降り、母上の仕事場の前まで白い猫を案内する。……と言っても、猫のほうは屋敷の中の道のりを覚えているのか、常に僕に先立って進み、時々振り返って僕が彼女に追いついてきているかを確かめている。

 <はようせぬか、。あれには知らせてないでな。きっと驚いて不思議な顔をすることじゃろうて。わらわはそれが今から楽しみで仕方がないのじゃ>

 長い尾をぴんと立て、美しく歩く白い猫には気品を感じる。僕は戸惑いながら猫についていく。も少し戸惑っているのか、僕の足下から離れようとしない。

 (‘地球’って偉いのか?)
 「うん、とっても。とても高貴なお方なんだよ、。そっか、はお話しするのは初めてだものね。僕も最初は少し戸惑った」
 (古めかしい言葉遣いでなんだか良くわからないな)

 <生きた年月の違いじゃ、そんなことそなたには心配無用のことじゃて。それより早く扉を開けておくれ、

 階下のリビングからは紅茶のいいにおいがする。丁度ブレイクタイムのようだ。リビングへと続く部屋の扉を開けると、焼き菓子の香ばしい香りが僕らの周りを取り囲んだ。

 <さっ。わらわを抱いてに見せるのじゃ>

 浮かれている白猫の言うままに彼女を抱き上げた僕は、お茶の香りにつられたかのように部屋の中に入っていった。中央のソファーに腰をかけた母上が、つかの間のティータイムを楽しんでいる。
 ソファーの高さに合わせたガラスのテーブルには、紅茶のポットとティーカップが置かれ、木の枝で編まれた小さな籠の中には焼き上がったばかりのクッキーが丁寧に並べられていた。

 「あらいらっしゃい。先ほど部屋に声をかけたんですけれど。随分ぐっすり眠っているようでしたから起こさなかったの。あなたも紅茶とお菓子をいかが」
 「いただきます、母上」

 僕は白猫を抱いたまま、母の隣に腰を下ろす。
 猫に気がついていないのか、それとも茶の準備をいそしんでいるのか、母は僕のほうには視線を向けない。ポットの中から新しいティーカップに紅茶が注がれる。それを僕に手渡そうとしたところで、やっと母が僕の腕の中にいる猫に視線を止めた。
 紅茶を持つ手が少し震えている。テーブルの上にカップを置いた母は、信じられないと言う顔をして猫を凝視している。僕の隣に腰掛けると、震える手を僕の腕の中の猫にのばした。

 「……随分長い間私の前に姿を現さなかったのに……今更お帰りですか?」

 <なんぞ。わらわは試練を乗り越えたが、やっとわらわたちの前に姿を現したから、それを知らせにきたのじゃ>

 「まぁ……それじゃ、あなた……」

 <わらわにも紅茶をいただけぬかの、

 「あら、これは失礼いたしました。すぐ準備しますわ。それにしてもあなたのその姿にお目にかかるのはとても久しぶりですね。ええと……でいいのかしら」

 <かまわぬ。そなたにそう呼ばれるのも懐かしいかな>

 一見すると少し奇妙な光景だった。ソファーの上に座った白い猫と母が、それぞれ人間の言葉と猫の言葉で会話をしている。おまけに白い猫は、少し小さめのカップに注がれた紅茶を器用に前足で持ち、まるで人間のように振る舞いながら茶をいそしんでいる。はその様子に驚きを隠せず、彼からはものすごく動揺した感情が流れ込んでくる。ああでも、母上はとても幸せそうな顔をしている。白猫と母上は旧知の仲であるかのように言葉を交わしている。

 (俺は人間の姿になってもカップを持つのが苦手なのに……)
 「きっとそれは得手不得手の問題だよ、。それに、ええと……」

 <でよい>

 「様は特別なんだよ、きっと」

 少しぎこちない。母は使い慣れた様子で「」という名で白猫を呼ぶけれど、‘地球’と同じしゃべり方をするこの猫を呼び捨てにするのは少しためらってしまう。
 けれど、僕と、それに白猫のやり取りを見て母は上品に声をもらして笑っていた。母の姿は僕があの時代を去る直前に見た姿と何ら変わりない。ここに父上はいないけれど、母の笑顔はあの時と同じように穏やかだ。時の流れを感じないのは、帰ってきたばかりの僕にとってはいいことなのかもしれない。これがいきなり帰宅した途端、あの時代で過ごしていたみんなが僕の前に年を取った姿で現れていたら……きっと僕は時の流れに大きな衝撃を受けていただろうから。
 僕を見上げるに、僕は笑顔を向けた。隣では母と白猫が相変わらず人語と猫語で会話を続けている。

 なんだか過去の世界とあまり変わらないな。
 ただここが、ホグワーツの北塔ではなく星見の館であるだけだ。母上の仕事場がホグワーツから自宅に移っただけで、それ以外は何も変わっていない。
 帰宅したらまた大きな衝撃が待ち受けているかもしれないって少し身構えていた心が軽くなったような気がする。もちろんきっと、ハリーに逢ったら、ルーピン先生に逢ったら、僕の心は少なからず動揺するんだろうけれど……それもきっと、僕の運命なんだろう。心の中にしっかり鍵をかけた思い出たちは、僕の中でだけ輝いていればいい。
 紅茶を喉に流し込みながら、僕はほんの少し過去の時代を思い出していた。






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 帰宅、そして登場。