誉れ高き吟遊詩人


  日曜日。ドラコはクィディッチ・ワールドカップのための準備がある、と名残惜しそうな顔をしながら午前中の早くに帰宅した。たちはクィディッチ・ワールドカップを観戦するために、今夜はヒューの別荘に泊まることになっていたが、せっかく時間があるのだから、というヒューの提案で、昼前にこの劇場にやってきた。
 『詩人の宴:宮廷』と題されたショーは、舞台の端で詩人が語る物語に合わせて、中央で劇団員たちが演技を行うと言うものだった。その出来映えは素晴らしく、休憩をはさんで三時間あまりの劇の間、誰もが舞台に釘付けだった。とかく、舞台の端でグランドハープやラップハープを巧みに用いて音を奏でる詩人の歌声が素晴らしかった。

 場内には歓声が鳴り響いている。大勢の客が席から立ち上がり、壇上でお辞儀をする演技者たちに大きな拍手を送る。その拍手は、一度幕が降りた後、ラップハープを手にした詩人が再び壇上に現れた際に最高潮に達した。
 彼は深々とお辞儀をした後、透明感のある明るい声で再び歌いだす。
 会場にいる客は全員が彼の声に聞き惚れていた。演奏会で無駄な音を出すような輩はここには存在しないが、それ以上の静けさだった。誰も身動き一つせず、詩人の奏でる音色に心を奪われている。
 最後の音が響く。
 余韻も冷めやらぬ状態のまま、もう一度壇上の詩人が深々とお辞儀をすると、先ほどよりももっと大きな拍手が会場の至る所から彼に捧げられた。
 拍手は、詩人が壇上から姿を消してもしばらく鳴り止まなかった。

 やがて、劇場のライトが点灯し始めると、席を立つ客の雑音が場内のあちらこちらから聞こえてくる。
 しばらく舞台を眺めていたたちも、重い腰をゆっくり上げた。

 「すごかったね……」
 「パーティーでの詩の朗唱とはまた違った雰囲気があった。さすが、誉れ高き吟遊詩人……」

 からもからも感嘆の溜息が漏れる。
 二人の隣で、ヒューが満足げな笑みを浮かべていた。

 「その、誉れ高き吟遊詩人に逢ってくかい?」

 興奮冷めやらぬ状態のに、ヒューが笑顔を向けた。
 丁度劇場から外に出たところだったが、ヒューは大勢の客が向かう出口の方ではなく、「関係者以外立ち入り禁止」と書かれている扉のほうを指差している。
 も顔を見合わせた。

 「そんなに驚いた顔をしなくても大丈夫。あの詩人、ホグワーツ時代の僕の後輩でね。結構親交があったから、僕が頼めば逢わせてくれるはずさ。パーティーの時は、朗唱が終わったらそそくさと帰ってしまったんだってね、彼。話をする暇もなかった、ってみんな惜しい顔をしてたよ」
 「素晴らしい交友関係ですね。誉れ高き吟遊詩人とご交流があるなんて……」
 「運がいいだけさ。彼もスリザリンの出身なんだよ」

 ヒューは二人を先導し、立ち入り禁止の扉の前で客たちを監視している警備員に話しかけた。二言三言の会話の後に、警備員は何も言わずに扉を開け、俺たちを中に通した。

 「劇場の裏ってこうなってたんだ……」
 「控え室だとか準備だとか、ね。舞台には出てこない裏方さんもたくさんいるんだ」
 「すごいね」

 が俺に笑顔を向けた。の足下に寄り添いながら、俺も劇場の裏側を色々眺めている。「控え室」の文字があちらこちらに浮かび上がっている。舞台との境にはたくさんの荷物が雑然と並べられていて、演技中の舞台裏の忙しさを物語っている。
 一番奥の控え室の扉をヒューが軽くノックする。

 「んー?次の講演まではまだ時間ありますよねー?」

 中から透き通る男声が聞こえてきた。扉はほどなくして開かれ、開かれた扉の先にいる人物はひらひらと手を振るヒューの姿を見て目を大きくした。

 「ヒュー!来てくれてたの?だったら先に言ってくれれば良かったのにっ!」

 俺とは顔を見合わせた。
 ヒューの姿を見るなり部屋を飛び出し、ヒューの肩に両手を置いて飛び上がるほどによろこんでいる吟遊詩人。身長こそ高くなれど、その声こそ低くなれど、ヒューと掛け合ってはしゃぐその姿を、俺ももよく覚えていた。
 毛先が少しカールした栗色の柔らかい髪、深い茶色の瞳。

 (……イーノック、か?)
 (そうじゃないかな、って思ってたんだ。詩の朗唱だけで生活が出来る人間なんて、よほどの才能がなきゃ、ね)

 「あれ、そっちの子たちは?あ、君、見たことある。確か、えっと、んー……そうだ。家のパーティーに招かれたときにいたよね」

 イーノックはヒューから視線を俺たちに向けた。彼特有のしゃべり方で、まずはに話しかけた。

 「です。パーティーの時は、大したおかまいも出来ずに申し訳ありませんでした」
 「あ。さんのご子息なんだ。あんまり気にしなくていいよ。仕事で招かれたパーティーは長居しないことにしてるんだ。僕、パーティーは大好きなんだけどさっ!いろんな人に囲まれて、話したりサインしたりってちょっと苦手なんだよね。僕はただ好きなことをやってるだけだからさ。本当は誉れ高き吟遊詩人、なんて言われるのも結構恥ずかしいんだ。えっと、それで、そっちの……」

 の手を両手で握って握手を交わした後、イーノックはと俺に視線を向けた。
 ヒューを見つけた時からイーノックの顔に浮かんでいた笑顔が一瞬消える。目を大きく見開き、俺たちの姿をじっと見つめている。

 が心の中で苦笑していた。どうやら、観劇中から予測をしていたらしく、ヒューと出逢った時ほど驚いてはいないようだ。
 もまたイーノックを見つめていた。

 「初めまして、と申します」

 軽い会釈をする。イーノックはおもむろにの手を両手で取った。

 「初めましてのわけがないっ!!僕、ずーっと待ってたんだ!!君が僕の前に現れてくれる日をずっと待ってたんだ!」
 「え、あ、あの……」

 はイーノックの態度に目を白黒させて彼を凝視した。この反応は予想だにしなかった。てっきりヒューの時のように、表面上は初めましてを気取り、この場ではお互いのことを探るだけに留まるのではないか、と思っていたのだ。
 まさか、の前で過去の時代のことを話されるんじゃないだろうか……と冷や汗をかく俺をよそに、ヒューはとイーノックの姿を見て声を出して笑っている。
 首を傾げて二人の様子を見ているに、ヒューが補足した。

 「夢、だよ。誉れ高き吟遊詩人イーノックは、まだ学生の時分に不思議な夢を見たんだって。それが、彼を吟遊詩人の道へと進ませるきっかけになったらしいんだけど……中々幻想的な夢でね。丁度、みたいな生徒がやってきて、ホグワーツで一年程度を一緒に過ごすんだってさ。彼が去る前日、イーノックはその生徒にホメーロスの『イーリアス』を朗唱したんだけど、翌日続きを聞かせる、っていう約束をしたにもかかわらず、夢は覚め、不思議な生徒はいなくなってしまった……」

 するとは納得したように頷いた。
 ヒューの説明に、俺たちを控え室の中に招き入れながらイーノックが赤面した。

 「……聞いたことあります。誉れ高き吟遊詩人はホメーロスの『イーリアス』だけは、どんなに頼まれても朗誦したことがないと」

 控え室の中は殺風景だった。奥に鏡と台座が用意されていて、そこで自分の姿を確認できるようになっている。端のほうにはソファーとテーブルが準備されているが、決して大きいものではない。部屋のほとんどが薄いタイル張りになっていて、中で舞台稽古の最終確認が出来るようになっているようだった。
 ヒューに連れられ、少し緊張しながらは案内されたソファーに腰を下ろした。イーノックが慣れた手つきで紅茶とお菓子を持ってくる。

 「僕がね、『イーリアス』を朗唱しないのは、続きをまだに聴かせてないからなんだ。ま、夢を見てから既に二十年くらい経ってるんだけどさ。練習は欠かしてないけど、に聴いてもらうまでは『イーリアス』は人前では披露しない、って決めてたんだよね。まさか本当に逢えるなんて。もしかしたら僕が生きているうちは無理なのかな、とか思ってたんだっ!」

 両手を合わせて笑顔を向けるイーノックに、は戸惑いがちな笑みを見せた。

 が紅玉を渡したのは、ヒューとイーノック、そしてヴォルデモート卿との四人だ。さすがにイーノックも、部外者であるがこの場に存在しているから、ヒューが取り繕った夢の話に乗っ取ってとの再会を喜んでいるのだろう。

 紅茶を手にしたの膝に上半身を預けると、の片手が俺の首筋をわさわさと撫でた。
 きっとこういうとき、‘様’は声を上げて笑うんだろうが、あいにく彼女は「つまらぬ、のところへ帰る」と二日目の魔法研究所へ向かう途中でいきなり姿を消したっきりだ。は白い猫がいないじゃないか、と心配していたが、はあまり気にしていないようだった。まぁ、彼女に限って、迷子になるということはあり得ないだろう。

 「素晴らしい講演でした。パーティーの時の朗唱とはまた違った雰囲気が楽しめて、連れてきてくださったノードリー博士にも感謝しなくては」
 「何度も誘いを断っていたからね。そろそろ怒られるかな、と思って」
 「ひどいんだよ、ヒューったら。僕、毎回毎回無償でチケットを送りつけてるんだけどねっ!一度も来てくれたことがなかったんだ。忙しい、忙しい、って言うけどさ。多分絶対、研究所から出るのが面倒くさかっただけだと思うんだよねっ」

 紅茶を手にしたヒューが苦い笑みを見せた。
 もはしゃぐイーノックの話に聴き入り笑みを見せている。
 ああ、そう。こんな感じだった。あの時代のスリザリンの寮は、常にイーノックの声が響いていた。誰もそれを煩わしいとは思わず、ちょっと耳を傾けたつもりがいつの間にか彼の話に聴き入ってしまうんだ。

 「とても仲が良いんですね」
 「僕とヒューのこと?」
 「ええ。学年は違うように思いますが、年齢を飛び越えた友情が見えます」
 「そうかな?嬉しいなっ!君たちもホグワーツの生徒でしょう?丁度ね、僕が一年生の時の監督生で首席だったんだよ、ヒューは。面倒見がすっごく良くて、スリザリンの生徒が何か事件を起こすとすぐに対応してくれた。みんなからの信頼も厚かったんだよっ」
 「……って、随分僕のことを買い被ってるけどね。イーノックも監督生で首席を務めたんだよ、実は」

 話に花が咲く。何も裏のないただの思い出話に誰もが聴き入っている。ヒューともイーノックとも関わるのが初めてに近いでさえ、二人の話を楽しそうに聴いている。

 「と、えっとだっけ?」
 「はい」
 「君たちもとても仲が良さそうだね。なんだか兄弟ともとれるような雰囲気が漂ってるよ」
 「僕たち、ルームメイトなんです」
 「わ、いいな。とルームメイトなんて僕の憧れだよっ!!」

 イーノックはを見て笑み、ヒューを若干恨めしそうな目で見つめた。ヒューは相変わらず紅茶を口にしながら苦い笑みを浮かべている。
 の手が俺の耳の付け根を優しく撫でた。

 (ちょっと冷や冷やしちゃうね。イーノックに出逢えたのは嬉しいけど、には話すわけにいかないものね)

 目と目が合うと困ったような笑みを浮かべた。触れられたの手にすり寄るようにしてに密着した。
 多分この場でイーノックがの話をしたとしても、は信じないだろう。けれどもしかしたら、聡明なだからこそ気づいてしまうかもしれない。若干の不安が頭の中を横切る。
 部屋の扉が軽くノックされた。

 「んもう。せっかくヒューととお茶してるのに。誰さー?」

 あからさまにふてくされた青年が扉のほうに歩いていく。ヒューが部屋の掛け時計に目を向けた。が歩いていく青年の姿を笑顔で見つめている。

 「ん。そっか、もうそんな時間なんだ。わかった。すぐいくよ」

 少し開けた扉の隙間から顔だけを出して何事か会話したイーノックは、ふてくされた顔でこちら側に戻ってきた。ヒューがに時計を指差していた。

 「もうすぐ講演が始まるんだろう、イーノック」
 「キャンセルしちゃだめかなぁ……僕、みんなとお話してたい。せっかくヒューが来てくれたんだしさ。にも逢えたし、は新しい出会いを僕に吹き込んでくれたしっ!」
 「それじゃただの子どもだよ、イーノック。君は今や‘誉れ高き吟遊詩人’と呼ばれるまでになったんだ。その名に恥じないようにしなくちゃ」
 「僕は好きなことやってただけなのになぁ……まぁ、しょうがないっか。それならヒュー。今度は絶対一緒にお話する時間を作ってよっ。もちろんも一緒にっ!」

 化粧台の上に置いてある櫛で髪の毛を撫で付けたイーノックが、膝に抱えて奏でるタイプの竪琴を手にして部屋の扉を開ける。部屋の外では黒い服を着た人間が待っていた。

 「ここ、好きに使っていいから。いるのも帰るのも自由だからっ!」

 慌ただしく飛び出していったイーノックの姿を見送った三人は、声を出して笑い始めた。特にヒューは涙が流れるほど楽しそうに笑っている。

 「慌ただしい子だろう?それなのに言葉を操る力に長けていてね。彼がしゃべっていると、どうしても耳を傾けたくなっちゃうんだよね。昔から全く変わってない」

 紅茶を飲み終えると、それらを奇麗に片付けてヒューが最初に席を立った。どうやらイーノックが次の講演を終えて帰ってくるのを待っているつもりはないらしい。もヒューにならってテーブルの上を片付けると、そっと部屋を後にした。

 (ちょっとイーノックに申し訳なかったね)

 部屋を出て、会場の入り口に向かって歩きながら、は控え室のほうを振り返って複雑な表情をした。

 「本当に好きなことだけをやり続けて地位を確立できる人間はそんなにいない。あの子は数少ない人間だと思うんだ。でも自分の地位も名誉も全く気にしてないみたいなんだよね。それがまた彼らしくって僕は好きなんだけどね。さて、時間もちょうどいい頃合いだし、そろそろ移動キーに一番近い僕の別荘に向かおうかな」

 廊下を進み、入場者たちと入れ替わるようにして会場の外に出た。多少日が傾きかけている。
 会場の裏側には、マグルが見るとエレベータと呼ばれる乗り物の出口に見えるらしい暖炉が一つある。
 通常、外で魔法の使用を禁止されている子どもたちや、魔法を使いたくないもの、『姿現わし』 『姿くらまし』をすることが出来ないものは、この暖炉を使ってこの劇場に来るらしい。外観こそマグルのものによく似ているが、実際はマグルはこの劇場を見ることが出来ない、とが俺に説明してくれた。
 は『姿現わし』も『姿くらまし』も完璧に使いこなせるが、どうやら何かテストというものを受けて認定されないと使ってはいけないらしい。それに、まだホグワーツの四年生だから魔法を外で使うことは禁止されている。もちろんも、だ。当然二人ともこの暖炉を使って『煙突飛行粉』で移動することになる。

 「さてと。行き先はオッタリー・セント・キャッチポールの村だ」
 「オッタリー・セント・キャッチポール?あんな小さな村に別荘をお持ちなのですか?」
 「早い話が昔住んでいた家、なんだよね。世界を放浪して回るにも帰る場所がないと安心できないからね。小さな村に小さな家を借りてた。今もそこが残ってるんだ。僕の家では唯一煙突飛行粉で飛んでいける暖炉があるところさ。移動キーの設置場所にも一番近い」
 「なるほど……」

 消えることのない炎が灯されている暖炉の中に、ヒューが粉を投げ入れた。紅く燃えていた炎はエメラルド色に変わり、いっそう高く燃えた。

 「行き先は、仮住まいだよ、そのまんまだね。暖炉の外に出れば、この前の屋敷僕妖精が色々教えてくれると思うよ」

 さ、どうぞ、とヒューはまずと俺を促した。煙突飛行粉を握ったは俺とともに炎の中に足を踏み入れる。
 最近はこの粉で移動するのにも慣れた。時間の移動に比べたら、この程度の気持ち悪さはどうってことないって俺の体が気がついたのかもしれないな。
 が「仮住まい」と唱えると、すぐに周囲の景色が変わった。










 「ようこそいらっしゃいました。どうぞ、こちらへ」

 最初に聞こえたのはそんな声だった。
 到着した場所はこじんまりした部屋で、どこかあたたかな雰囲気が漂っていた。部屋の中も定期的に掃除をしているのか、埃は落ちていない。
 と俺は暖炉から出て、服を着たへんてこりんな屋敷僕妖精にお辞儀をした。

 「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」

 すぐに暖炉にの姿が現れた。屋敷僕妖精はにも礼儀正しく挨拶をし、暖炉の外へ出るように促している。

 「小さな村にある家にしては、結構広いな」
 「ヒュー・ノードリー博士の別荘だもの。彼、ああ見えて絶対奇麗好きだよ」
 「あ、それは僕もそう思ったよ、。洋服にしろ立ち居振る舞いにしろ、その辺の成り上がり紳士と全く違うからな」

 まるで品定めするように部屋の中を見回すを、は面白そうに眺めていた。

 「ね、そう言えばさ。ノードリー博士は移動キーの設置場所がどうとか話してたけど、どういうことだかわかる?」
 「さぁ。僕も詳しくは。でも想像するだに、大勢の魔法使いをクィディッチの会場まで運ぶのに賢い方法は、一度に大勢の人間を一瞬にして運べるもの、だと思うんだ」
 「うん、そういうこと」

 の言葉を受け取るようにして、暖炉から現れたヒューが笑みを見せた。ヒューの服についた多少の灰を、屋敷僕妖精が洋服用の小さな箒で懸命に取っている。

 「この子についていって、好きな部屋を選ぶと良いよ。といっても、そんなに多くはないんだけどね。掃除を頼んでおいたから、中は奇麗なはずだよ」
 「ノードリー博士、移動キーの設置場所ってどういうことですか?」

 尋ねたのはだった。ヒューはに視線を向けて微笑んだ。部屋の中に転がっている小さなペンを手にして俺たちの前に見せる。

 「要はね、マグルに気づかれずに十万人もの魔法使いをどうやってクィディッチの開催場所に移動させるか、ってことなんだ。残念なことにそれだけ大勢の人数を収容できる魔法施設はないからね。だから、人里離れている荒れ地を探し出して、出来る限りのマグル避け対策を講じた。魔法省はね、何ヶ月もかけて頑張ってたんだ」
 「なるほど……」
 「当然、一番最初にやるのは到着時間をずらすことだよね。安い切符を手にした者は、二週間前に会場についていなくちゃいけないんだ。マグル界に慣れ親しんでる多少の魔法使いの中には、マグルの交通機関を使う人もいる。けれど、それにもあまり人は詰め込めない。もちろん『姿現わし』を使う人たちもいるけれど、現れる場所をマグルの目に触れない安全なポイントに設定しなくちゃいけなくてね。確か手頃な森、だったかな。でも、君たちみたいに外で魔法を使っちゃいけないと定められている魔法使いだってクィディッチ・ワールドカップには多く参加するだろうね。そういう魔法使いたちを運ぶためのシステムが移動キーさ」

 暖炉の向かいにある年代物のソファーに腰を下ろしながらヒューが言う。手にしたペンをひらひらと動かす。

 「形状は何でも良い。例えばこんなペンのようなものでも大丈夫だ。移動キーがどんなものかは知っているだろう?」
 「あらかじめ指定された時間に、魔法使いたちをある地点から別の地点に移動させるのに使う鍵、だったと思います」
 「そう。これなら大集団を一度に運ぶことが出来る。魔法省はイギリス内に二百個の移動キーを戦略的拠点に設置したんだ。指定された時間にその移動キーに触れていれば、会場の近くに運んでくれるって仕掛けさ。ちょうどストーツヘッド・ヒル、ああ、そこの窓から見える小高い丘なんだけども、あそこのてっぺんに設置されてるんだ」

 窓の外を指差すヒュー。は窓の外に視線を向けた。その先には、大きな黒々とした丘が盛り上がって見えた。

 「明日の朝は早いからね、今日は早めに睡眠を取ったほうが良いよ。距離はそんなでもないんだけど、何しろ移動キーに設定された時間が早くてね。五時七分とか、そんな時間だった気がする」
 「それはまたずいぶんと早いですね……」
 「ま、マグルに見つからないように、って言うのと、一度に押し掛けないように、っていうのを考えたら仕方ないのかもしれないんだけどね。さ、部屋に荷物を置いてくると良いよ。広くないけど、家の中を見て回るのも面白いかもしれないよ」

 屋敷僕妖精は凛とした態度でを先導して歩き始めた。廊下は部屋の中より多少薄暗く、すぐ目の前に木製の階段が見えた。何も言わずに登る屋敷僕妖精の後に続いて登る。
 階段の先には重たそうな木目調の扉が二つ並んでいた。どちらも扉のすぐ横に淡いオレンジ色の光のランプが灯っている。

 「ふふっ。こうやって扉を開ける時が一番どきどきする」
 「中に何が待ち受けているかわからないからね。せーの、で開けてみないかい?」
 「わ、楽しそう」

 向かって右の扉のドアノブをが、左のそれをがそれぞれ手にする。せーの、という掛け声とともに扉が開かれた。

 「すごー……い」
 「どこか別の世界に来たみたいだ……」

 開け放たれた扉の向こうには、全く違う二つの風景が広がっていた。
 右の扉の部屋には、中世ヨーロッパの貴族の部屋を思わせるような古めかしい家具が整然と並べられていた。窓の形も王室のそれを思わせる。何しろ騎士を連想させる甲冑が部屋の隅に飾られているのだ。化粧台も高貴な身分の人が使っていたような年代物だ。
 左の部屋に視線を移すと、そこは白と黒のコントラストが織りなす、右の部屋とは全くの別世界だった。真っ白い壁に清潔に保たれたフローリング。中央にはチェス盤を描いたテーブルが置かれ、シンプルな寝台の掛布は黒、枕は白、と明確な色分けがなされていた。すっきり引き締まった部屋は、本棚にそろえられている本をいれても、右の部屋と比べて広く大きく見える。

 「……すごいね」
 「どっちも入るのがもったいないな……」
 「どうする?」
 「が気に入ったほうを選んでくれ」
 「え、は?」
 「……僕には選べそうにないんだ……」
 「僕だって、こんな素敵な部屋、どっちも選べないよ……」

 二人は顔を見合わせ同時に微笑んだ。どちらの部屋に入るにせよ満足しないはずがない。ここを仮住まいというのなら、ヒューの本当の拠点はどれだけ広くて、どれだけ面白い姿をしているんだろうか。俺はそんなことまで考える。

 しばらく唸っていた二人は、結局の持っていたカードで決めることにしたらしい。同時に一枚カードを引き、数字が大きいほうが右の部屋を、小さいほうが左の部屋を、という案配だ。

 「いい?」
 「うん」
 「せーのっ……」

 手にしたカードを同時に表にする。のカードに数字の十三、のカードに数字の九が描かれている。

 「それじゃ僕が右の部屋だ」
 「僕が左の部屋、と」
 「どっちにしろ、足を踏み入れて良いのか戸惑っちゃうよね……」
 「本当に」

 は右の部屋に、は左の部屋にそれぞれ足を進めた。
 重い音で扉が閉められると、いよいよ別世界に足を踏み入れたようだった。片隅に荷物を置くと、がまず目にしたのは大きな甲冑だった。

 「すごいね、年代物だよ、きっと」

 怪しい輝きを放つ甲冑は、まるでをじっと見据えているかのようだ。目の位置から、誰かにじっと監視されているようにすら思える。
 次にが視点を移したのは寝台の脇の額縁に入った絵画だ。描かれているのは何のことはないのどかな田舎の風景だったが、それが不思議とどこか懐かしさを感じさせる。油絵なのか、ルネッサンス調なのか……絵に詳しいわけではないから何とも言えないが、とにかくそれは古い様式の絵だった。

 「この部屋の本棚……中に入っているのは羊皮紙だ。ヒューの研究かな?」

 それから本棚につめられた羊皮紙に目を通し、ひとしきり部屋を見て回ると、はためらいがちに寝台に腰を下ろした。
 そこから見ると、部屋の扉にも素敵な細工が施してあることがわかる。木目が美しく細かい模様に削られていて、豪華な雰囲気が漂っている。

 「イーノック、全然変わってなかったね」
 (見た目も、あんまり変わってなかったな)

 ふっとため息をついたが思い出したように笑い出す。俺もの笑顔に少しつられた。栗毛のイーノックの顔を思い出す。

 「あの時よりずっと朗唱が上手くなってたね。楽器も弾くようになったなんてしらなかったな……結構難しいんだよ、イーノックが手にしていた楽器」
 (……あんなに弾く弦がたくさんある楽器、俺には到底扱えそうにないな)

 の手のひらを覗き込みながらそう言うと、は声を出して笑い、その奇麗な手で俺の全身を撫でてくれた。

 「クィディッチのワールドカップか。ロンがきっと凄くはしゃいでるだろうな」

 安心したため息をがついたと同時に階下からを呼ぶ声が聞こえてきた。
 丁度部屋の扉がノックされたところだった。は腰を上げると、俺を引き連れて扉を開けた。屋敷僕妖精が、食事の準備ができた、とに知らせにきていた。
 隣の部屋から出てきたと連れ立ち、俺たちは上ってきた階段を下りる。やっとの荷物のケージから出してもらえたニトが、ふてくされた鳴き声を出して俺の背中に乗ってきた。

 「どう、部屋の様子」
 「なんだかあそこで生活するのがもったいないよ」

 連れ立って階段を下りるの顔は柔らかい笑みをたたえている。
 いろんな思い出が夏休みの間に作られそうだ。






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 イーノックと再会。詳しい話はまた後ほど。