真夜中の来訪者
窓の外に夕日が沈んでから随分と時間が経った。周囲の家の明かりもぽつぽつと消え始め、空に輝く星が窓から視認できる。
掛け時計の真夜中を告げる鐘が部屋の中に鳴り響いた。
ヒューは、向かいのソファーにちゃっかり腰を下ろして紅茶を飲んでいる吟遊詩人を、苦々しい瞳で見つめていた。溜息が漏れる。
「そんなに怒らないでよ、ヒュー。せっかくに逢えると思ってきたんだからさー」
「それにしたってタイミングが悪いよ、イーノック。明日はクィディッチのワールドカップ会場までいかなきゃならない。朝早いって言うのに……」
「そんなの、姿現わしでいけば良いじゃない?」
「子どもたちはどうするんだい?僕は姿現わしが出来るけど、やが出来るとは限らない。第一彼らはまだ今年ホグワーツの四年生になる子たちだ。成人していないのだから、外で魔法は使えない」
盛大にため息をつくヒュー。イーノックは無邪気な笑顔をヒューに向けていた。
「劇場からそのまま来たのかい?随分きらびやかな衣装でご登場だな……」
「最後の公演が終わってから片付けしてたんだけどさっ。よし終わった。ヒューに連絡入れようっ!!って思ってたのにさー。その後いろんな人につかまっちゃってさ。サインくださいだとか、今からご飯に行きましょうだとか。面倒くさいから楽屋からそのまま姿くらまししちゃったんだよね。僕は、に逢いたいって言うのにさっ。みんな僕のこと引き止め過ぎだよ、僕の前に壁として立ちはだかるなんて、ほんともう、まったくっ」
テーブルの上に用意した紅茶を、ヒューも手に取った。イーノックは茶菓子が欲しいと騒ぎ、部屋の棚からいくつかお菓子の小袋を見つけてきた。テーブルの上に無造作に置かれたそれを食べる姿も、やりたいことだけをやるためにこうして押し掛けてくる強引さも、昔のイーノックのままだな、と少し物思いに耽る。
「……、全然変わってないね」
「にとっては、つい数日前までの出来事なんだってさ、笑っちゃうな」
「僕たち二十年も黙ってたのにね」
「本当に。のほうが僕たちの姿を見て驚いてるんじゃないかな。随分変わったね、ってさ」
二十年。学生の頃は遥か過去に通り過ぎた。しかし目を瞑れば鮮明に思い出すことが出来る。
「そっか。今年やっとホグワーツの四年生なんだ。あの時は僕のほうが年下だったのにな。いつの間にか僕のほうが年上になっちゃった。なんだか変な感じ。あれ、でも、ってことは、ルシウス・マルフォイのところの子と一緒ってこと?」
「ん?あ、ああ。ドラコのことだろう?丁度同じ学年だと言っていたけど」
「ふぅん……また変なこと企んでるんだってね、ルシウスさん」
ため息をついたイーノックはそれとなくテーブルに顔を近づけた。部屋の扉が確実に閉まっているか、ヒューが目で確認している。
紅茶のカップがテーブルの上に置かれる音がした。
「どこで聞いたんだい?」
「どこでって……家のパーティーでそう言う話、してたんでしょ?僕は帰っちゃったけどさ、そういうのって風の噂で届くものだよ、うん。僕は絶対協力しないよっ。だって、昔みたいに面白くないんだもの……」
「昔だって、君はいつも傍観者だったじゃないか、イーノック。絶対に自分の手は染めなかった。彼がいなくなったときも、君は裁判にすらかけられなかった」
「当たり前じゃないか。僕が探していたのはだ。を守るためならどんなことにだって手を染める覚悟はあるけれど……」
ふてくされた顔をしてイーノックがヒューの顔を覗き込んだ。部屋の中はしんと静まり返り、掛け時計が時を刻む音が嫌に耳につく。
「大体、裁判にかけられなかったのはヒューだって同じじゃない。ヒューは立ち回りが上手いんだよね。ルシウスさんのところは裁判にかけられても巧妙な手口でやり過ごしたんでしょう?僕なんかきっと何でもぺらぺらしゃべっちゃうだろうな……」
「……まぁ、目を付けられてないとは言いがたいけどね、ルシウスも」
「僕は、二十年越しのこの思いをに届けたいんだ、ヒュー。を守るって、僕のやり方でに誓いたいんだ。これだけ長い間待ったんだもの」
ソファーの真横に置いたラップハープを膝の上に乗せていきなりかき鳴らそうとしたイーノックに、ヒューの手が止めに入る。
時刻は真夜中を過ぎた。拡声器のついていないラップハープとはいえ、住宅街で弾くには時間が遅すぎる。
「イーノックが‘僕がを守るよ’なんて言ったら、きっとは驚くだろうな……」
「なんでさー?」
「考えてみなって。数日前までは二十年前の僕らと生活してたんだ。イーノックはホグワーツに入学したばかりの年だったろう?グリフィンドールの四人組から生クリーム爆弾で挨拶されるし、嫌いなにんじんをの皿に毎回毎回盛りつけるし……ちょっと前まで自分より年下だった君が、今日からあなたをお守りします、なんて言ってたら……きっと驚くよ」
「あはっ。随分昔のことなのに覚えてるんだね、ヒュー!一時期、にんじんをちゃんと食べればが帰ってくるんじゃないかって思って頑張ってたな。全然帰ってくる気配がなくてやめちゃったけどさ」
手にしたお菓子の小袋を開けながら、イーノックは無邪気な笑顔を見せた。
「先生がホグワーツを去ったときも凄く驚いたけど……それより、が先生の子どもだったって知ったときの衝撃と言ったらなかったよ、僕」
「それは同感。凄く良く似てるんだけどね。そう言うそぶりをいっさい見せないから、まさか家族だとは思ってもなかった」
「覚えてる?僕、先生がホグワーツを去ったとき、すっごくすっごく悲しくてさ。ダンブルドアに一時間おきにふくろう便を飛ばしてたんだ」
「僕にも数時間に一度は手紙を飛ばしてきてただろう、君」
「あ、うん。ヒューにもたくさん飛ばした気がする。それでね、最初の頃はダンブルドアもちゃんとお返事くれてたんだけどさ。だんだん数がものすごいことになってるのに気がついたんだろうね。一時間ごとに返事がくるんだけどさ。‘そんなこと言われてもの’‘先生は既にホグワーツを去ってしまわれての’‘君の思いはまこと良くわかるのじゃが……’‘先生の希望ゆえ……’って、一時間ずつちょこっとずつ文章が届くようになったんだよっ。あれはあれで面白かったなぁ……」
遠い昔の記憶をたぐり寄せてみる。
卒業して四年が経とうという時だっただろうか。魔法の研究で初めての本を出した頃だっただろうか。自分の存在をご主人に覚えてもらうことにあくせくしていた時期だっただろうか。九月の初めに、代わる代わるふくろうがやってきた時期がある。泣きじゃくったような涙の痕と一緒に、イーノック特有の文体で書かれた手紙が何通も手元に届いたっけな……
冷めた紅茶を喉に流し込んだ。
階上で眠っている子どもたちに気づかれないように静かに笑みを見せる。
「でもさ、ヒューばっかりずるいなっ。僕よりも先にに出逢ってるし、一緒に何日ももう過ごしてるんでしょ?ずるいなぁ……」
「……それで、夜中に押し掛けてきたのかい?」
「眠ってるの顔も見てみたいな、僕」
無邪気にいたずらっぽく笑みを見せたかつての学友を、ヒューは恨めしそうな目で見つめていた。せっかく寝た子どもを起こすようなことはしたくなかった。それでなくても朝早く出かけなければならないのだから、少しでも寝かせてあげたい。
「……わかった。クィディッチのワールドカップから帰ってきたら、僕ととイーノックの三人で逢う時間を作るよ。だから、今日は……」
ふてくされたままのイーノックをなんとかなだめようとそう言った時だった。部屋の扉が微かに音を立てて開いた。
ヒューもイーノックも扉のほうに顔を向けた。自分の鼓動が嫌に体に響いている。
「……ヒュー?起きてたの?」
扉の側に、眠い目をこすりながらが立っていた。紅獅子も一緒に従えている。
あまり大きな声を出したつもりはなかったが、やはり人の気配が伝わって起こしてしまったのかもしれない。そんな風に心配しながら、ヒューがを自分の隣に呼び寄せた。
「どうしたんだい、。眠れなかった?」
「ううん。寝てたんだ。寝てたんだけどさ……」
眠そうな顔をしたは、どうやらイーノックの存在にまでは気づいていないようだった。ソファーに埋まりそうになり、ほとんど体の半分以上をヒューの肩に預けている。
「怖い夢でも見たのかい?」
「……この年になって、夢が怖いなんておかしいよね……」
「そんなことないさ。僕だってたまに夢が原因で寝付けないことがあるしね。気にすることないよ」
「お告げとも、星が見せる夢とも違うんだ。なんだか凄く怖かった……」
の足下で心配そうにを見つめている紅獅子。今にも眠りに入りそうな体を必死に起こしているのは、きっと恐怖につかりたくないと言う精神的な気持ちからだろう。眠そうな目を何度もこすりながら、寝まいとしているの髪をヒューは優しく撫でた。
「もう一回夢の中で悪いことが起こったら、今度は僕が助けにいくよ。だから心配しなくていい。まだ時間はあるからもう少しお休み、。僕がここで君についていてあげるよ」
「ヒュー……」
安心した笑みを浮かべたは、ヒューの膝に頭を預けるとソファーに埋もれるように全身をあずけた。すぐに整った寝息が聞こえてくる。
紅獅子も、に出来る限り近づいて目を閉じている。
ヒューはが眠りについてもしばらくその背に一定の振動を与えながら軽く触れていた。
「の寝顔、可愛いね。ヒューって子どもをあやすのが得意だよねっ。僕も何度もヒューの手であやしてもらって安心して眠りに入った気がするなー」
「小さい子の世話ばかりしてたからね、僕」
の近くに寄って顔を覗き込むイーノック。彼の気配に気がついてが顔を上げた。はしばらく不快な瞳でイーノックを見つめていた。しかし、が目を覚ます気配がないのを確認すると、自分の腕の上に頭を乗せてもう一度眠りに入る体制をとった。
「……イーノックだって、明日も公演があるんじゃないのか?」
「うん、そうだけど……」
「それなら今日はお開きだ。クィディッチ・ワールドカップが終わったら連絡を入れるからさ。僕もまだと深い話をしたわけじゃないしね。ちゃんと時間を取るから……」
「えー……僕も泊まってく。の隣で寝たいっ!」
「……君のほうがたちよりよっぽど子どもみたいじゃないか……」
盛大にため息をついて不満げな声を漏らすヒューに、イーノックは無邪気な笑みを見せた。
の髪をそっと撫で、の鬣を軽く触ると、やっとの側から離れてソファーの上に置いたままのラップハープを手に取った。
「仕方ないなぁ。そのかわり絶対だからね。絶対みんなでお話ししようねっ!」
「大丈夫、ちゃんと時間作るよ」
「んー、それじゃまたね、ヒュー、、」
ひらひらと手を振ったあと、イーノックの姿は掻き消えるようにして部屋から消えた。
ヒューはため息をついてから、自分の膝の上で眠るに視線を落とした。手を固く握り、時々眉間にしわを寄せながら眠りについている。
何かを固く握りしめてしないと眠れない癖も昔と変わらないな……そんな風に思いながら小さく息を吐き出したヒューは、彼の髪を優しく撫でた。
「怖い夢を見たら、僕が助けにいくよ」
そっとの耳元で囁くと、心なしかの表情がやや柔らかくなったような気がした。
窓の外から見える住宅街の明かりもほとんど消えた。星の輝きは部屋の中を照らすほど強くはない。外は虫の声一つ聞こえない真っ暗闇だ。
嵐のごとくやってきて騒いで消えていった友人を思い出し、ヒューは苦笑しながら目を閉じた。
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イーノックの突然の来訪。