欠片の消滅


 階段を上がってくる軽やかな音が聞こえる。
 もうすぐはこの部屋に戻る。そして、机の上に置かれた日記帳に気付くだろう。

 部屋の中を映す水晶玉を覗き込み、もうぼんやりとしか創り出す事が出来なくなった日記の中の空間で、僕は溜め息をついた。
 の本体と、僕と同じように日記に保存されたの協力を得ても、このかりそめの体を保持するのはもう限界だった。自分の手のひらを覗き込めば、向こう側が透けて見える。
 元々いつかこうなる事はわかっていたのに、今更どうしてこんな感情になるんだろうか。感情というものは不可解すぎて困る。

 僕は一度、バジリスクの牙に貫かれ砕け散った。

 その僕をつなぎ止めたのはだ。
 あの時のは僕のような存在を求めていたし、たとえそれが日記に保存されたものだとしても、自分の父親の記憶を消し去りたくなかったんだろう。
 砕かれ、そのまま散っていくはずだった欠片をつなぎ合わせるなんてこと、僕の本体の血を引き、僕と同質の魔力を操るの力でしか出来るはずがない。おそらくは無意識にそれをやってのけたのだ……自分の心の求めるままに。
 そう、だから、僕の体に収まっている魔力はほとんどがのものであったし、バジリスクの牙に貫かれる前はどんな人間の魔力でも吸い取れば具現化できた僕が、の魔力やと同質の魔力でしか具現化できなくなっていた。
 かりそめの姿……それをわかっていても、砕け散った欠片を集め僕の形に戻したの能力は素晴らしいものだと思ったし、彼とともに暮らしてみたいとも思った。だからあのとき僕はの思いに応えてこの場に留まった。

 だけど、それはの思いによってつなぎ止められた、の願いでしかない。
 僕の体のほとんどはの思いによって構成されているのだから、それが薄れれば……僕との繋がりが薄れれば力が弱まるのは必至だった。
 そして今、は僕の存在から離れ、新たな存在を求めている。
 僕の本体に復活の兆しが現れたことも一つの要因かもしれない。
 今のに必要なのはかりそめにつなぎ止められた僕ではなく、本当の父親なんだ。
 僕の記憶は本体が学生時代の時のものであるし、の成長の過程を見てきたわけでもない。にとって僕は父親ではなくのような存在に移り変わってきているのだろう。
 が渇望しているのは闇の帝王ヴォルデモート卿だ。僕のような記憶ではない。
 それを知ったとき、僕の役目は終わった、と思った。
 ずっと一緒にいられるんじゃないか、って夢を見た時もあった。は僕の日記帳をいつも肌身離さず身につけていてくれたし、度々感情的になるの補助をしていた時期もある。
 去年のには、僕が必要だった。
 だけど、今年のは僕の存在を必要としていない。
 日に日にの魅力に惹かれに協力する魔法使いたちが増えている。そして、自身の魔力も増大し、それを操る技術も向上している。もう僕が、溢れたの魔力を吸い取る必要もなくなったわけだ。
 それに、同じ時代に行き、同じ時代で手を回す事が出来る生身の人間のほうが今のには重要だと思う。

 水晶玉の映し出す様子が変わる。僕はその様子をじっと見つめた。
 が部屋の扉を開けた。いつものようにを従え、手にした荷物を机の上に置き……
 そして、の視線は僕の日記帳に釘付けになる。
 酷く困惑した表情で、目を見開き、口元を手で覆っている。それから、日記帳の横に置いた小さな封筒に気がついたのか、それに手を伸ばした。
 かさり、と封筒から便せんを取り出す音が聞こえる。

 親愛なる

 おかえり、
 こんな形でしか君を出迎えられない僕を許してほしい。
 、僕は君の事が大好きだ。
 だから、そろそろお別れをしなくちゃならない。
 君と過ごせてよかったよ、
 君はもう、僕がいなくても大丈夫だ。
 ……僕は、君が大好きだよ、
 君の笑顔も、ね。
 だから、どうか泣かないで。
 ありがとう、大好きだよ。

 記憶のリドルより

 はらりと便せんが床に落ちる。
 が僕の名を呼びながら、首を横に振って日記帳を抱きしめる。その振動が伝わって空間が少し揺れる。
 水晶玉に映し出されるは今にも泣きそうな顔をしていて……

 どうしてそんな顔をするんだい? 僕は君の笑顔が好きだって言っただろう?

 僕は苦笑する。
 脱力し床に着いた膝、両手の間に置かれた日記帳。
 うつむいたがしきりに僕の名を呼ぶ。の目からあふれる大粒の涙が日記帳の表紙を濡らした。
 それはとても熱くて……悲しくて……
 いやだな、このまま静かに去ろうと思っていたのに……君はどうしてそんな顔をして僕を見るんだい?

 「姿、見せてあげたら?」

 消えそうなこの空間に、柔らかい声が響く。
 力のない僕がかろうじてこの空間とこの体を保っていられるのは、本体が僕にくれた日記に保存されたのおかげだ。
 彼女自身が具現化する力すら僕に注いでくれているから、彼女はこの場に姿を見せない。
 僕は既に砕かれたものだから、このままだと日記のも連れて消え去ってしまうことになる。
 だから、僕はの日記をに返すつもりでいた。日記の中で同じ学生時代の記憶を共有すると話をするのは楽しかったけれど、彼女の存在まで一緒に消してしまうつもりはなかった。
 けれどは、僕が消滅するなら共に消滅する、と僕に告げた。
 そして、具現化する力さえも僕の為に使ってくれている。こうして僕がかろうじてつなぎ止められているのも、日記に保存されたが最大限の力を僕に注いでくれているからだ。
 それでもやっぱり僕はを連れて行きたくなくて、最後の力を残している。もう一度具現化すればそれが最後だろうってことはわかっているから……その力で、を外の世界に戻そうと思っていたんだ。

 「……でもそれだと君が……」

 不意に口から出た僕の言葉に、が眉をひそめるような気配を出す。
 ああ、つい口が滑ってしまったな。君には伝えずにおこうと思ったんだけど。

 「何が、かしら」
 「僕がこのままの前に姿を現したら……それでおそらく僕は消滅する。だけど……君まで僕と一緒に消滅する理由はない。君は……」

 空間に響き渡るように、が小さな溜め息をついた。

 「貴方らしくないわね。私だけ置いていくつもりなの? せっかく逢えたのに……私はずっと長い間貴方を待っていたの。これ以上待たせないで。貴方についていくわ」
 「……」
 「いってらっしゃいな、ヴォル」

 決して強くない、けれど僕の背中をしっかり押すの言葉。
 ありがとう、と呟いて僕は水晶玉に映し出されているの姿をじっと眺めた。

 ごめん、
 こうなる事は初めからわかっていたんだ。あのとき、僕が君の元に残ってしまった事が、君をこんなに泣かせることになったんだろうね……

 深く息を吐き出し、僕は出来る限りの魔力を崩れそうなこの体に集めた。


 「……リ、ドル……」

 掠れた声で僕の名を呼ぶ。もう、本当にぼんやりとしか僕の姿は君に見えていないのだろう。
 ごめん、。これが限界なんだ……

 (ありがとう、

 精一杯頑張っても、僕の言葉は音にならない。それでもに伝えたくて唇を動かし、の体を抱きしめた。

 「リドル、冗談でしょう? なんで……どうして……僕と離れてたから? ねぇ……」

 の腕は僕の体を抱きしめられない。僕のローブにしがみつく事も出来ない。
 ただ虚しく僕の体を通り抜けるだけ……

 (ごめん、。僕は君が大好きだよ。ありがとう)

 もう腕に感覚はないけれど、僕は最後に出来る限りの力でを抱きしめて、精一杯の笑顔をに向けた。

 そんなに泣かないでくれ。
 君が僕の名前を呼んでも、もうほとんど聞こえないんだ……
 君に辛い思いをさせてしまうのが心残りだよ。
 ごめんね、。ありがとう。

 最後に何かがはじけるような感覚がした……






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 日記リドル消滅。