増大する秘密


 「……ああ……! ご主人様っ!!!

 ……その声は、薄暗い部屋の中に響き渡った。
 小さな窓から入る星の明かりだけが部屋の中を照らしている。
 暗がりに映し出される不気味な影は、人間の姿とは程遠い形をしていたが、それが誰のことなのかには察しがついているのだろう。主人の名を呼ぶ狂喜に満ちた声が響く。

 かさり、と物陰から小さな音がした……










 ……こそばゆい。
 揺れる意識の中で、右の腕を動かして鼻の頭をこすってみるが、こそばゆい感覚は薄れない。まるで何かが自分の顔の周りを這いまわっているかのような感覚と妙な気持ち悪さ。
 俺は、半ば吠えるように大きく息を吐き出すと目を開けた。
 ……まだ眠い。
 顔を洗おうと上体を起こそうとした時、目の前をかすめた茶色い物体に俺の目が反応した。
 それは茶色い小さな動物だった。柔らかい毛で覆われた太い尾がゆらりと揺れている。笑みを湛えたような大きな目が俺を真っ直ぐ見つめていた。
 そいつは俺の鼻先に手を伸ばし、爪を引っ掛けてどうにか俺の鼻によじ登ろうとしていたが、それは俺にとって不愉快極まりなく、俺はもう一度深く息を吸うと、勢いよくはき出した。その衝撃で、小さな茶色い動物は俺の前に吹き飛ばされ、こてりと白いシーツの上に転がった。何とも間抜けな姿だ。
 ふふっ、と声を漏らした笑い声が上から聞こえた。俺は欠伸とともに体をのけぞらせると声のする方へ視線を向けた。
 まだ眠っているの身体を優しく撫でているヒューと目が合う。

 「プラテルが驚いているだろう? あまり悪戯をしないでくれ。を起こしたくないんだ。昨夜も少しうなされていたみたいだったし、ね」

 ヒューは茶色い動物をプラテルと呼んだ。
 名を呼ばれたそいつは、体制を整え上体を起こすと、シーツの上を器用に歩き回り、ヒューの腕をつたって肩へといつの間にか移動していた。ネズミのような素早い動き。本能的に爪をむき出して飛びかかろうとしてしまった自分を慌てて諌めた。

 「おはよう、。ゆっくり眠れたかな?」

 俺の額を撫でながらヒューは微笑んだ。心なしか、肩に乗っかっているプラテルが不満げな表情を浮かべたように見える。
 ……は、まだ眠っている。
 ヒューが傍にいるから安心しているのか、いつものように硬くシーツを握りしめる仕草はしていないけれど、なんだか心の中はざわめいている。夢の中にいてもまだ恐怖を感じているのかもしれない。のすぐ傍には……日記帳。
 時折ヒューの肩にいるプラテルの尾が揺れる。声も何も聞こえないのに、ヒューとプラテルが会話をしているように見える……なんだか不思議な光景だった。
 もう一度大きな欠伸をすると、俺はが目覚めるまで身体を伏せようと寝台の上で体制を整えようとした。
 その動きを察したのか、隣のから小さな声が漏れた。

 「……ん……」

 起こしてしまっただろうか。
 俺が鼻先をに寄せるより先にヒューの手がの背中に触れた。
 何度か瞬きをし寝がえりを打ったは、天井を見上げてゆっくりと息を吐き出した。

 「お目覚め、かな?」
 「……ヒュー?」

 ヒューの方へ顔を向けたは、まだ寝ぼけ眼のまま小さく唇を動かした。
 ヒューは笑顔での髪を撫で、は何度か瞬きを繰り返した。……やはり、まだ傷は癒えていないのだろう。上体を起こしたの手が……おそらくは無意識のうちに、すぐ傍にある日記帳を探し当て握りしめた。
 きっとヒューものその仕草に気がついたのだろう。蒼い瞳が複雑な色をしてを見つめ、その腕がの肩を抱いた。

 「……少しはゆっくり眠れたかい?」
 「う、ん……」

 ヒューの問いに答えるの心もまた複雑な思いを抱えていた。
 二人の顔を覗き込むように大きな目を開いていたプラテルが、ヒューの腕をつたっての肩に乗り移ると、頬に当たるひげがくすぐったかったのか、が小さく声を漏らして笑った。
 俺もヒューも、その笑顔を見て小さく安堵の息を漏らした。

 「プラテル、って言うんだ」

  肩に乗り移ったプラテルを目を丸くして見つめるに、茶色い動物を指差してヒューが言った。
 の肩の上を上機嫌で歩き回る茶色い動物。手のひらの上にその動物を招いたは、指先で彼の鼻先をつつきながら首をかしげた。プラテルはの顔を大きな目でじっとのぞきこみ、ひたすらの手のひらの上を歩きまわっている。

 「prattle……おしゃべりだなんてまるで……」
 「まるで、イーノックみたいとでも言いたい顔してるね」

 くっく、と声を漏らして笑ったヒューがプラテルに手を伸ばすと、プラテルは露骨にヒューの手を避け、の肩に移動しようともがいた。
 その通りさ、とヒューは笑顔をに向けた。

 「動物もどきっていうのは、本当はきちんと登録しなくちゃいけないんだけどね。登録している正規の動物もどきって言うのは本当にごく一部でね。この子は、未登録の動物もどきさ。もちろん正体は……」

 ぽんっと弾けるような音がヒューの言葉を遮った。
 茶色い小さな動物は、ほんの一瞬にして見慣れたイーノックへと姿を変えた。の真上に覆いかぶさるような形で姿を戻したイーノックの腕がの身体を抱きしめる。

 「じゃじゃーん。僕でしたっ!」

 相変わらずの賑やかさと笑顔に、もいつの間にか笑顔を浮かべていた。
 ……イーノックにはきっとそういう力があるんだろう。
 ほんの少しあきれ顔のヒューの方が、俺とは気が合うかもしれないな。
 なんだかをイーノックに独り占めされているような気がして、俺はの膝の上へ顔を滑り込ませた。
 それに気づいたの手が俺の身体に触れる。……ああ、やっぱりの手が一番安心する。

 「おはよう、!」
 「おはよう、イーノック。朝から元気だね。僕はまだ……少し眠いかも」

 の視線が日記帳に落されたのを知ってか知らずか、イーノックはの髪を優しく撫でながら首をかしげた。

 「でも、もうお昼も過ぎてるよー。みんなでご飯食べて、それからこのお城の周りを散策に行こうよっ! ヒューったら、全然のこと案内してないんだって? マーシャルハイムの古城ってすごく面白いことがいっぱいあるんだよ。これを知らないまんまでホグワーツに戻るなんてすっごい損だって!」

 あまりにイーノックがにべたべたとくっつくものだから、さすがの俺も低く喉を唸らせた。
 は疲れているんだからあんまり無理をさせるようなことするなよ、なんてイーノックに抗議の視線も送ってみるが、全くもってこの陽気な青年は俺のことなどお構いなしだった。
 ただだけ、俺の不満に気がついて柔らかい笑みを俺に浮かべてくれた。

 (心配してくれてありがとう、。僕は……もう、大丈夫だよ)

 大丈夫だよ、なんて……まるで自分に言い聞かせるかのように言うに、俺はちくりとした胸の痛みを覚えた。
 大丈夫なわけがない。分かっているけれど、大丈夫だとふるまわなければ周りの人間に余計な心配をかける。そんなの胸の痛みが俺にも伝わってくる。

 だけど、俺にまで嘘をつく必要なんてこれっぽっちもないんだ……
 の身体に顔をすり寄せると、俺はの鼓動に耳を澄ませた。

 「……そうだね、とりあえず食事にしようか。少し話しておきたいこともあるし、ね」

 少し意味ありげな言葉を残して、ヒューが最初に寝台を降りた。
 次にの上に乗っかっているイーノックが、ヒューに引っ張られるような形で半ば無理やり寝台を下ろされ、それから俺、そしてが続いた。
 猫のようにしなやかに伸びをしたは、大切そうに日記帳を抱えると、早く早く、とせかすイーノックに笑みを向け、部屋を出る二人に続く。

 (……過去に戻ったみたい。イーノックがいるだけでなんだか華やかになる)
 大人になっても、賑やかさは変わらないんだな。
 (それが、イーノックの魅力だもの)

 呆れたため息をつく俺には軽く声を出して笑った。
 まだ、胸は痛いけれど、賑やかさもたまには役に立つということだろう。の心にほんの少しだけ明るさが蘇った気がする。
 耳につく賑やかさは好みではないけれど、が少しでも元気になるのなら……なんて、俺はみんなの少し後ろを歩きながら考えていた。
 かつて同じ寮で過ごした、時の流れの違う三人組は、姿こそ変われど……あの時のまま、変わらぬ繋がりがここにあるみたいだ。





 「それじゃあ、はまだ四年生ってこと? 僕らと出会った時も四年生だったのに?」
 「過去の時代での学習は換算されないもの」

 一流シェフの料理と言っても過言ではないだろうエーゼルの準備した食事に舌鼓を打ちながら、、ヒュー、イーノックの三人は思い出話に花を咲かせている。
 それは、今日初めて見る光景だったけれど、ついこの間まで目にしていた光景と重なって見える。ただ、成長したヒューとイーノックの姿が、俺たちが過去の世界にいたこと、がが編み出した魔法で時を越えたことを物語っていた。

 「……いろんな意味では僕らに大きな影響を与えてくれたと思う」
 「うん、僕もそう思う。がいたから入学したてのホグワーツは楽しかったし、がいなくなっちゃったから、僕はすごく悲しかった。きっと僕がに負けないくらいの魔法使いになったら、もう一度は僕の前に姿を現してくれるんだ……って、そう思って、ホグワーツの図書室に籠って勉強してた時期もあったんだよっ!」
 「そして、知恵熱出して三日も寝込んだんだ、イーノックは」

 ……過去に残された人々は多くを語る。
 俺たちにとってはほんの一瞬だった。その一瞬の間に、この二人はとても長い時を過ごしたのだ。にもう一度逢う日を夢見て。
 よく見知っている人間の、全く知らない過去を聞く。それは興味深いものだった。
 過去の時代で共に過ごした友人の名前が挙がるたび、は小さな笑みを漏らし、瞳にどこか懐かしげな色を湛える。
 だけど、変わったのは二人だけじゃない。
 俺たちも、あの時代で過ごしてたくさんの経験をした。いろんなことを学んだ。辛いことも楽しいこともあった。が彼らに大きな影響を与えたのと同じだけ、も彼らから色々な影響を受けた。
 の膝の上に載った日記帳に視線がいった。

 「でもまぁ、その甲斐あってか、一応首席に選ばれたしね、僕」
 「確かに、イーノックは入学したてのころと卒業する頃とですごく変わった。それは僕も認めるよ」
 「仕方ないじゃない? 入学したてのころは魔法界なんてどんなところなのか全く分からなかった。僕の周りには教えてくれる人がいなかったし、情報が遮断されてたんだから。そもそもスリザリンに選ばれるなんて、今思えば奇跡としか言いようがないよ」

 は口元に笑みを湛えながら二人の話に耳を傾けている。
 時々小さく切り分けた料理を俺の口元に差し出して味見をさせてくれるが、食はあまり進んでいないみたいだ。
 俺に渡すのは、食べていないことを二人に悟られないようにするためだろう。
 仕方ないな、と料理を口にするが、これが中々美味しいんだ。の指の間に流れたソースまで舐めると、がくすぐったそうに小さく声を漏らした。

 「は? は僕らと別れてから何をしてたの?」

 不意にイーノックがに話題を振った。
 いきなりのことで少し驚いた表情を浮かべたは、食事をとりわける手を止めて、小さく息を吐いた。

 「……実はね、まだこの時代に戻ってきてからそんなに時間が経ってないんだ。ヒューやイーノックが過ごした年月を、僕はほんの一瞬で飛び越えてしまった。戻ってきたときは、自分のいるべき場所に戻ったんだ、って安心したんだけど……でも本当はすごく寂しかった。過去の時代にいるってことは、時の流れに逆らっているということ。でも……みんなと一緒に過ごした日々がとても楽しかったから……寂しかった。それに、まさか二人が僕のこと覚えているなんて思っていなかったから、こっちの世界で過去の時代で一緒に過ごした人と出会ったらどうしたらいいんだろう……なんて考えてたよ」

 エーゼルが空いたグラスに新たに飲み物を注ぐ。
 グラスを覗き込みながら、は小さくため息をついた。

 「ほんの一瞬の出来事だった。その一瞬の間に二人とも有名になっちゃって……なんだか僕だけ取り残された気分だな」
 「何言ってるのさ。今だっては十分すぎるくらい有名だ。ホグワーツでも、その外の世界でも」
 「ああ、本当に」

 イーノックの言葉をヒューが全面的に肯定した。は照れ隠しに少しだけ視線を下に落とした。
 胸が痛む。

 「……必死、だったなぁ……最初はね、スリザリンの生徒とでさえ深く関わるつもりはなかったんだ。関われば関わるほど、過去の世界に与える影響が大きくなるから。でも、気がついたら過去のホグワーツに馴染んでいる自分がいた。時代や人が変わっても、ホグワーツは素敵な場所だって言うことに変わりはないんだよね」
 「ホグワーツにはたくさんの思い出が眠ってる。いい思い出も悪い思い出も全て。僕を育ててくれたのはあそこだし、僕の人生を変えるきっかけとなったのもあそこだった」

 がフォークの腹を上に向け、ナイフとフォークをそろえて置いた。一般的な食事終了の合図だ。皿にはまだ料理が残っているが、どうやらこれ以上手をつける気はないようだった。
 エーゼルは何も言わずにさっと食器を片づけ、食後の準備を整え始める。
 ヒューもイーノックも、表向きの食の細さには口を出さなかった。
 もしかしたら、ヒューからイーノックに、の精神状態が伝えられているのかもしれない。

 「“動物もどき”の練習をしたのもホグワーツだったよね、ヒュー。変身術の授業でその存在を知った時、あれほど面白いものはないっ! って思ったもの。もちろん、一年生の時の僕の実力じゃ、成功なんてするはずがなくてさ。いっつも、変な風になっちゃうところを、ヒューに助けてもらったんだ。二年生のころには、一応今の形には変身できるようになったかな」
 「それからが大変さ。今でも手伝わなければよかったって思ってる。真夜中過ぎにこっそりと僕の部屋に忍び込んで、僕の寝台で寝るんだ。まだ未熟だから、朝起きると人間の姿に戻っているってわけ。おまけにイーノックったら寝相が酷いものだから、僕は寝台の端に追いやられてるか、酷い時は床と添い寝状態さ」
 「だって……時々寂しくなるんだ。特に冬っ! 寒いし一人だし、クリスマス前とかはどうしたらいいか分からないんだよねっ! 家族は実家に帰ってこいって言うけど、僕は正直帰りたくなかった。実家より、ホグワーツでクリスマスを過ごした方がまだ孤独感を味合わなくて済むしさ……よく冬はヒューの寝台にもぐりこんでたなぁ……」  「おかげで僕は寝不足さ」

 紅茶を口にしながらヒューが呆れたため息をついた。

 「でもヒューったらすごいんだよっ?! 僕がね、動物もどきの時でも、ヒューと会話したいっ! って言ったら、ほんの一カ月くらいでそういう魔法を完成させたんだっ! さっき、が起きるまで、僕はヒューとおしゃべりしてたんだよっ!」
 「無理難題を押し付けるのがイーノックの悪いとこさ。ま、あの時の研究は今でも役立ってるから、悪いとばかりは言えないのかもしれないけどね」

 動物もどきになっている最中の人間が、動物もどきでない人間と意思の疎通を交わす……が興味深げな眼をして二人の顔を交互に眺めた。
 確かに、俺はヒューの仕草がなんとなくプラテルと会話しているな、と思った。
 それは思い違いではなかったのか……

 「興味があるみたいだね、
 「うん。なんだかとても面白そう」
 「コツさえ分かれば難しくないよ。音って言うのは振動だ。だから、真空では音が伝わらない。その音の波長を振動ではないものに置き換えてしまえばいいのさ」
 「へぇ……」
 「後で詳しく教えてあげるよ。きっと君の役に立つだろうしね」

 ヒューの笑みにも小さく口元を緩めた。イーノックは二人の様子を見て始終笑顔だ。
 エーゼルの運んできたデザートを口に運ぶ三人の談笑。このときだけは、も日記帳に手を伸ばさなかった。

 「ねっ。食事が終わったら外に行こうよ、。湖の周りを散策するのってどう? もっとと話がしたいけど、ずっと屋敷の中にこもりっぱなしって言うのは身体によくないもの。ねっ、行こうよ」

 とびきりのイーノックの笑顔を前に断れる人間がいるはずがない。
 も笑顔で頷き、イーノックの申し出を受け入れた。それからはヒューの方を見たが、ヒューは笑みを浮かべて首を横に振った。

 「それじゃ、屋敷周辺の案内はイーノックに任せることにするよ。僕は少しやり残したことがあるから、今夜までにそれを片づけてしまおうと思っているんだ。なにしろ……」

 ヒューは声をひそめた。
 途端、終始笑みを浮かべていたイーノックの表情も真剣になった。
 何かある。俺が動物でなくたって気付くくらいの気配の変わり様。もそれを察知したのか、表情が硬くなった。

 「今夜だ、

 ヒューは静かにそう告げた。
 はヒューの瞳を真っ直ぐ見つめ、ゆっくりと首を縦に動かした。
 胸の中に渦巻く嫌な感覚と、小さな期待。それが何を意味しているのか、深い意味まで読み取るが故の不安。

 「深く考える必要ないよ、。僕も一緒に行くから」

 の肩を抱いたイーノックが耳元で囁いた。珍しく、落ち着いた声で。
 もう一度、は静かに頷いた。
 それから、イーノックは何事もなかったかのように笑顔に戻り、の手をしっかり握ると、正面の入口から外へ出た。
 不安と期待。複雑な気持ちが絡まる心を抱えて、もイーノックの後に続いた。










 真夜中……
 目隠しをされ、何度も何度も移動を繰り返した揚句にたどり着いたのは、どこか遠く離れた森の中だった。
 ……いや。もしかしたらマーシャルハイムの古城のすぐ傍なのかもしれない。
 とにかく俺たちの方向感覚や距離感覚は巧みなヒューの手によって狂わされてしまっていて、ここがどこなのか、何処で誰と会うのか、いつまで待てばいいのか……全てが謎に包まれたままだった。
 目隠しが取り払われた後、俺とはあたりを見回したが……ヒューの姿はどこにもなかった。

 「……ここ、どこなんだろうね……」

 が空を見上げながらため息をついた。
 背の高い木々に阻まれて、星の光も月の光もこの場所まではほとんど届いていなかった。
 これでは、星の位置から場所を割り出すこともできない……なんてが苦い笑みを浮かべた。

 ヒューは狡猾だ。
 万全の安全対策を講じ、当人である俺たちにでさえ全てを秘密にした。
 一体ここで俺たちはどれくらいの時間待てばいいのだろうか。
 何も分からないから不安が募る。
 夏とはいえ、光の届かないじめじめとした森の中はほんの少し冷たい空気が流れている。人目につかないように、とヒューに言われてローブを身に付けたと俺が森の真ん中に二人きり。
 ……可笑しな、本当に可笑しな光景だった。

 そこに、何処からともなく一匹のリスが現れた。
 慣れた仕草での身体によじ登ったリスに、最初こそはくすぐったそうな声を上げていた。
 けれどすぐに、の表情から笑みが消えた。

 (、僕のローブにお入り)

 ローブの端を持ち上げが俺を呼ぶ。おとなしくの指示に従ってローブの中に身体を滑り込ませると、途端に頭の中にイーノックの声が響いた。
 しんと静まり返った森の中。
 耳から伝わってくる振動は、の鼓動、息遣い……俺の鼓動、そしてプラテルの鼓動。時折吹く風に揺れる葉のこすれる音……しかし、確実に、ローブに触れる身体には、直接イーノックの声が流れ込んできている。音はないけれど、頭の中に響くイーノックの声。
 と話している時とは違う感覚に俺は戸惑った。

 (ふふっ、が驚いてる)
 (……ヒューが僕のローブに魔法を?)
 (うん。全く用意がいいよね、ヒューったら。ま、とにかく今の状況を説明するね)

 の肩に乗ったプラテルは、自然なリスの仕草をしている。
 さえイーノックの方を見つめなければ、会話しているとは思えない。
 森にたたずむ一人と二匹。なんだか可笑しな光景だ。

 (……すぐ傍にバーティ・ジュニアが来てる。今日の目的は、君の姿をバーティ・ジュニアに見せること。接触はなしだ)
 (見せる、だけ?)
 (そう。見せるだけ。お互いに、ホグワーツで初めて逢ったっていうことにしたいからね。下手な演技はダンブルドアにすぐにばれる。それなら、逢わないほうがいい。バーティ・ジュニアは一度君の姿を見ているそうだけど……はっきりとした意識の中で見るのはこれが初めてのはず。星を見る振りをして、振り返ってくれる?)

 は言われた通り、星を見上げながら身体を反転させた。
 かさり、と傍の茂みが揺れた気がしたが、イーノックが気にしないで、とに言うから、俺たちはその指示に従った。

 (そのうちヒューが迎えに来るよ。それまで僕とお話してよっか、ねっ)

 リスの姿になっても、任務を言いつけられていても、イーノックの性格は変わらないらしい。
 少しあきれた俺のため息に、が小さく笑った。
 の手が俺の額に触れる。

 (僕はね、バーティ・ジュニアはヴォルデモート卿に傾倒しすぎていると思うんだ。だから今回だって、こうしての姿を先に見せておかないと支障が出るだろう、ってヒューが提案する羽目になった)
 (……でも、ち……ヴォルデモート卿の力に尊敬の念を抱いているのは彼だけじゃないでしょう?)
 (もちろん。ヒューにとって彼は救世主だし、僕にとってもそう。でも、そういう人間ばかりが彼の部下にいるわけじゃない。恐怖におののいて部下になった人だっているし、いつか取って代わろうって首を狙っている奴もいる。そう言った人たちの方が一般的さ。彼は、部下に信頼を寄せてはいないだろうな……本当に、一部の人間を除いて。僕たちだって……)

 が怪訝な顔をした。
 少し慌てた様子のイーノックが取り繕うように続けた。

 (……初めはもちろん、僕もヒューもヴォルデモート卿の力に純粋に惹かれていた。ヒューは狂信的なほど彼のことを崇めていたし、僕だってそうさ。それは今でも変わってない。僕は……僕たちは、理屈抜きに彼の持つ力に惹かれている。だけどね、僕たちはその先のことも考えてる)
 (その先って……最悪の……?)
 (ううん、違う。それを考えると怖くなる時もあるけど、そうじゃない。僕たちが考えているのは、君のこと

 の手が、肩に乗ったプラテルの身体を優しく撫でた。
 安心した表情での手に撫でられたプラテルは、の肩から手の平へと移動した。

 (彼に惹きつけられている。でもそれ以上に僕たちは君に惹きつけられている。ヴォルデモート卿も御存知だ)
 (僕……どうして、僕? 僕の身体の中に彼の血が流れているから……?)
 (ううん……血筋とかそういうの、関係ないって僕は思ってる。昔、君とホグワーツで出会った時から……僕は君に惹かれてた。それがまさか、ヴォルデモート卿と血が繋がっているなんて思いもしなかったけどね。どうして僕やヒューがヴォルデモート卿に最も近しい位置にいるか知ってる? あのマルフォイ氏をも差し置いて)

 の手があまりに優しくプラテルを撫でるものだから、俺は二人の会話を聞きながらもほんの少しだけ嫉妬していた。
 大事な話をしているんだってわかっていても、その手が常に触れているのは俺であってほしい。贅沢な嫉妬だな……

 (……僕たちが君に忠誠を誓っているのを彼は御存知だ。あの御方は知ってたんだ。僕たちが絶対に彼を裏切らないことを。おそらく、過去の時代でヴォルデモート卿と君が出逢っていなかったら、状況は変わっていたと思う。君の能力、君の性格、君の心……全て申し分ないものだった。それがヴォルデモート卿の心を突き動かした。あの人は……恐怖でこの世を満たし、恐怖で部下を増やした。けれど、君は……何もしなくても誰もが集まってくる君のその魅力は……この先を考える上で、一番強い武器になる)
 (イーノック……)

 がゆっくりと目を閉じた。
 深く息を吸い、長い時間をかけてそれを吐き出した。心の中に渦巻く感情を抑えるように。

 (……困ったな……僕にはそんな魅力、全くないのに、な……)

 買いかぶりすぎだよ、と苦い笑みが零れる。
 ……でも、イーノックの言っていることは正しい。
 あいつは慣れ合いを好まないし、あいつが自分の部下に全面的な信頼を置いているとは到底思えない。そして、自分に心からの信頼、尊敬の念を置く人間を好まない。それがあいつの考え方だ。あいつが身を置く闇の世界の住人なら、簡単にわかることだ。
 ただ……あいつがを見る目、を見る目はいつも優しい。
 に惹かれた人間は、あいつを裏切らない。に惹かれた人間もまた、あいつを裏切らない。なぜなら、もあいつを絶対に裏切らないから。それを、ヴォルデモート卿は知っているのだ。

 小さく鳥の鳴く声が森に響いた。
 しんとした森の中に反響したその声は何重にもなって響き渡り、なんだか不気味な演出になった。
 頭上を見上げると、金冠を描くように真っ白い翼の鳥が空を舞っていた。

 (、行こう。オレオールが待ってる)
 (aureole……天上の宝冠……)

 さっとの肩から飛び降りたプラテルは、一目散に森の奥へと駆けていった。
 待ってよ、と驚きながらは急いでプラテルの後を追いかける。
 頭上の鳥は、もういない。










 それからまた、何処をどうやって帰宅したのか、俺たちは全く分からなかった。
 プラテルを追いかけて森の奥に迷い込み、仕掛けてあった大きな罠にはまって穴に落ちた。
 そこまでの記憶ははっきりしているものの、その先が全く思い出せない。ぐるぐると回る不快な感覚、どのくらいの間そこに留まっていたのか、はたまた移動していたのか……それすら分からない状態のまま……名前を呼ばれて気がついたら、目の前にヒューがいた。

 「お帰り、
 「ただいま、ヒュー」

 何事もなかったかのようにを迎えたヒューは、エーゼルの運んで来た紅茶をに手渡した。
 一足先に戻っていたプラテルことイーノックは、当然のようにヒューの屋敷でシャワーを浴び、さっぱりした姿でを出迎えた。
 と俺だけが、何処で何をしていたのか分からず仕舞いだ。
 分からないことと言うのはすごく不快だ。特に、目の前の奴らはすべてわかっているのに、俺たちだけが分からないっていう状態には我慢ができない。この二人はとは違うから、俺に教えてくれることもない。

 「……あれでよかったの?」

 俺の不満を察知したのか、紅茶を片手にがヒューに尋ねた。
 ヒューは笑顔でうなずき、完璧だった、と言葉を添えた。
 いったい何が完ぺきだったのか、俺たちにはわからない。俺たちがしたことと言えば、見知らぬ森に連れて行かれ、動物もどきとなったイーノックとほんの少しの間語ったということだけだ。

 「きっとこれで大丈夫だ。いいかい、。ホグワーツでバーティ・ジュニアに出逢ったら……普通の先生と生徒として振舞えばいい。きっと君のことをお気に入りの生徒として扱うだろうけど、そうなったなら、お気に入りの生徒を演じてやればいい。とにかく、ホグワーツの他の生徒や先生たちに、君たち二人の関係が怪しまれなければそれでいい。彼を通しての連絡事項を君にするつもりはない。もし、何か問題が起きた時は、僕かイーノックが知らせに行く。バーティが傾倒しすぎているって感じたら、すぐに僕に知らせて。いいね」

 翌日のホグワーツ行きを前に、ヒューは念を押してバーティ・ジュニアとの関係を説明した。
 ……そう、明日の今頃にはもう、俺たちは変わらぬホグワーツへと舞い戻っているのだ。

 わけのわからない不快感だけが胸の中につっかえている。
 こんなもの、さっさと寝て忘れてしまったほうがいいのかもしれない。
 俺はの膝に頭を載せると、無理やり自分を夢の中へ誘った。






〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 これにて夏休み終了。