ダイアゴン横丁 1
幻獣館の管理人、不死鳥のヴィタリーが藍玉の翼を大きく広げて伸びをした。2時間余りの会話にも多少飽きてきたのか、止まり木から器用に僕の腕に移動し、首筋を撫でろと催促する。
僕は珈琲カップをテーブルの上に置くと、片方の手でヴィタリーの全身を優しく撫でまわした。愛らしい仕草をされると甘やかしてしまうのは悪い癖だな、と自分に苦笑する。
丁度その時、「うわー」という悲鳴にも似た叫びとともにロビーの廊下を勢いよく駆ける足音が聞こえてきた。
ようやく起きたか。半ば呆れて溜息をついた僕の目の前に、服も髪も乱れた寝起きのままのが現れる。抱えていた枕がはらりと床に落ちるのも気にせず、両膝に手をつき肩で息をしている。
「ごめんっ」
開口一番そう言ったは、寝起きの潤んだ瞳で僕を下から見上げ、心底すまなそうな顔をしている。
ダイアゴン横丁へ出掛ける日にが寝坊するのは毎年のことだった。初めのうちはもも僕と一緒にが起きるのを待っていたけれど、そのうちいくら待ってもが来ないことが分かると、僕にを任せてさっさと買い物に行くようになった。結局僕は、が起きてくるまでの時間をヴィタリーと会話しながら待つのだが、流石に一向に直る気配のないの寝坊癖にヴィタリーも少々呆れ顔だ。
「……いいから、早く準備してきなよ」
「お、怒ってないか?」
「これ以上僕を待たせたら怒る」
「全速力で準備してきますっ!!」
もう一度勢いよく廊下を走りだしたの背を見送りながら溜息をつくと、ヴィタリーが僕の指を軽く甘噛みした。
≪は少々あやつのことを甘やかしすぎているのではないか? こうして遅刻してくるのも一度や二度のことではないのだから、しっかりお灸を据えてやるべきだとわたしは思うが≫
「……そうかもしれないな」
苦言を呈したヴィタリーの言葉に苦笑しながら彼の背中を丁寧に撫でると、やや不満げな声を出しながら彼はそれに応じた。
やはり、愛らしい姿を見せる者を甘やかしてしまうのは僕の悪いところだ。
≪それにしてもあやつは毎年進歩がない≫
「ホグワーツに入学する前日の生徒たちと同じような心境になるんだろう。興奮して眠れなくなった挙句の寝不足と遅刻だ」
≪子どもではないか≫
全くその通りだ、と全面的にヴィタリーに同意した時に、全速力で準備を整えたがもう一度僕の前に現れた。若干曲がったタイとよれたローブが、本当に全速力で準備をしたんだろうことをうかがわせている。
「おっまたせしましたっ!!」
≪待たせすぎだ≫
「い、痛い、痛い。ヴィタリーさん、そんなに突っつかないで……、本当は怒ってるのか? ヴィタリーさんにこんなに僕をつっつかせるなんてっ! 痛いじゃないか」
「……怒ってないよ。それより早く行こう。とはもう2時間も前に出発したよ」
腕に乗ったヴィタリーはまだをつつき足りないようだったけれど、止まり木に戻るよう優しくお願いした。
不満げに喉を鳴らしたヴィタリーはくちばしで僕の指を甘噛みし、ダイアゴン横丁で売っているドライフルーツを要求してきたのでそれを了承した。2時間の間話相手になってもらった報酬としては安いものだ。
そうして、まだ眠たそうに眼をこすると一緒に幻獣館の外に出ると、丘を下りマグルの商店街を人をかき分けるようにして進んだ。
本屋の前を通り、楽器店、ハンバーガー屋、映画館を通り過ぎ、誰も目に留めないような小さな薄汚れたパブ“漏れ鍋”にたどりつく。店の客は何やら興奮した様子で会話をしていて、いつもの漏れ鍋の雰囲気よりもややにぎやかなように見えた。その店を通り抜け、壁に囲まれた中庭に足を踏み入れると、が嬉々として腰に差した剣を抜き、剣先でレンガを三度つついた。叩いたレンガが震え、くねくねと揺れた後、真ん中に小さな穴が表れ、そのままどんどん広がり目の前に大きなアーチ型の入り口が出来る。その向こうには、石畳の通りが曲がりくねって先が見えなくなるまで続いている……これが、ダイアゴン横丁への入り口だった。
剣をしまい、アーチをくぐりぬけたところでが大きく伸びをした。欠伸が漏れる。
「うーん。いつ来てもにぎやかだな」
「そうだね」
「あー! 、っ!」
だが一番賑やかなのは絶対だ……いきなりローブの袖をひっぱられた僕は、なんだ、と呆れて首をのほうに向けた。
は目の前を歩いている子どもがアイスクリームを頬張っているのを指さしながら言った。
「アイスクリームっ!」
「……遅刻してきたのは君じゃないか。買い物の時間がどんどん遅くなる」
大きく溜息をつき、前髪をかきあげながらそう言ったけれど、は既にアイスクリーム専門店のほうへと僕の腕を引っ張って歩いていた。そう言えば、と一緒に“到着したら最初にアイスクリームを食べるんだ”と話していたっけ。まったく、本当に人の話を聞かないんだから。
「、僕は書店にいるから」
「食べないのか?」
「甘いものは得意じゃない、って君も知ってるだろう?」
「だけど、フローリアンのアイスクリームは格別じゃないか」
「……それなら、君の分を一口くれれば十分だ。早く行ってこないと僕は帰るよ」
「しょうがないな。それじゃ書店で落ち合おう。迷子になるなよ」
「君こそ」
僕の肩をぽんと叩いたは、意気揚々とダイアゴン横丁を掛け出していった。その後ろ姿を見送った僕は、その場で一度大きく伸びをして深く息を吸った。
するとホグワーツの森番をしているルビウス・ハグリッドの姿が目に入ったので、僕は小さく会釈をした。
ルビウスは大きな体を前後に揺らしながらゆっくり歩いてきたが、その顔はひどく青ざめていて、何か悪いことでもあったのではないかと勘ぐってしまうほどだった。その横には黒髪のくせ毛の少年が辺りをきょろきょろしながら歩いている。
「よう、じゃないか……」
「こんにちは、ルビウス。買い物か?」
「ああ……ああ、そうなんだが……そうだ、、おめぇさん、ちょいと時間あるか?」
すっ、と手を動かしたルビウスは、隣に並んだ少年を僕の前に押し出した。少年は少し驚いた顔をしてルビウスと僕を交互に見つめている。一方のルビウスは勤めて普段と変わりないように振る舞っていたが、やはりその顔はどこか青ざめていて具合の悪さを伺わせていた。
「この子をマダム・マルキンの洋装店に連れて行ってほしいんだが……どうもグリンゴッツのトロッコに酔っちまってな。ありゃ、人が乗る乗りもんじゃぁねぇ」
「新入生か?」
「ああ。俺は漏れ鍋でちょっと元気薬をひっかけたくてな」
少年の髪は黒く癖毛で、瞳は明るい緑色だった。目が悪いのか、丸眼鏡をかけていた。新入生の平均値と比べると、やや小柄でやせた体型をしている。特出して指摘したいのは、彼の額に稲妻形の傷があることだろう。
ああ、なるほど、と僕は小さくうなずいた。ルビウスはそれを了承ととらえたのか、少年に僕のことを説明すると、さっさと漏れ鍋に向かって歩いて行ってしまった。
左腕の紋章が軽く疼いている。ハリー・ポッター……まさか、こんなところで出逢うとは思わなかったな。
「あ、あの……」
後に残った少年は少し戸惑っているのか、僕を見上げて不安な顔を見せた。こっちだ、と合図して僕は少年とともにマダム・マルキンの洋装店へ向かった。
「君、名前は?」
「……ハリー」
「そうか。ダイアゴン横丁は初めて?」
「うん。……僕、ずっとマグルと暮らしてたから」
「そうか。それならきっと、ホグワーツが大好きになるよ」
ハリーと名乗った少年はまだ不安げな表情をしていた。マグルの世界で暮らしていたとはいえ、こんなに怯えるものなのだろうか、と他のマグル生まれの生徒たちを思い出したけれど、どうも彼の場合、状況が少し特殊らしい。魔法界に戸惑っている節もみられる。
「おにーさんもホグワーツにいるんでしょう? 寮長さんだ、ってハグリッドが言ってたけど」
「ああ。君たちと一緒さ」
「あ、あのさ……ホグワーツって、僕が行っても大丈夫、なのかな……僕、魔法界のことなんて何にも知らないし……」
そう尋ねるハリーの声はどこか震えていた。それを僕は怪訝に思う。
今まで僕が見てきたマグル生まれの学生たちは皆、ホグワーツの入学許可証が届いたことを大いに喜んでいた。まだ見ぬ世界に想像を膨らませ、何一つ聞き洩らさないよう五感を働かせ、ホグワーツへの入学日を楽しみにしていた。
……しかし。どうにもハリーは魔法界に触れるたびに落ち込んでいるように思えるのだ。
僕はハリーの肩に手を掛けた。
「何も心配することなんてないよ。それよりも、今まで魔法界に触れてこなかったことに感謝するといい。触れていなかった子のほうが、魔法界にどっぷりつかって生きてきた子よりもよっぽどホグワーツに到着した時の喜びが大きいからね」
マダム・マルキンの洋装店の扉を開け、ハリーを中へ入るように促しながら僕はそう言った。
藤色ずくめの服を着た、愛想のよい、ずんぐりした魔女のマダムにハリーの採寸をお願いすると、彼女は愛想の良い笑顔を振りまいてハリーを店の奥に連れて行った。
ハリーを立たせた踏台の横にもう一人、青白い、顎のとがった男の子が立って採寸をしていた。どうやら彼も新入生のようだ。
「あら、、今日はと一緒じゃないの?」
「彼ならフローリアンのところでアイスクリームを買っているよ」
待合用の席に腰かけると、スタッフの一人が紅茶を運んできてくれた。ハリーの採寸を見ながらそれに手を延ばす。
丁度、ハリーの隣で採寸をしている子が、ハリーに声を掛けたところだった。
「やあ、君もホグワーツかい?」
「うん」
「僕の父は隣で教科書を買ってるし、母はどこかその先で杖を見てる」
その少年はけだるそうな気取った話し方をした。薄青い瞳に冷たい色を宿した少年の髪はプラチナブロンドで、きちんと撫でつけた髪と、採寸しているローブの間から見える高級感あふれる服装が、名家の子息であることを伺わせていた。
現状、ハリーとは少し気が合わないかもしれない、と二人の会話を耳にしながら思う。
「これから、二人を引っ張って競技用の箒を見に行くんだ。一年生が自分の箒を持っちゃいけないなんて、理由がわからないね。父を脅して一本買わせて、こっそり持ち込んでやる」
その態度はかつてホグワーツにいた生徒によく似ていたので、僕は彼がきっとスリザリン寮に入るだろうと予想した。
「君は自分の箒を持っているのかい?」
「ううん」
「クィディッチはやるの?」
「ううん」
「ぼくはやるよ……父は僕が寮の代表選手に選ばれなかったらそれこそ犯罪だって言うんだ。僕もそう思うね。君はどの寮に入るかもう知ってるの?」
「ううん」
ハリーの表情が見るからに曇っていく。
紅茶をテーブルの上に戻した僕は、マダムにハリーの採寸を少し手早くやってもらうように眼だけで合図した。マダムはにこりとした笑みを僕に返し、採寸している手を早めた。
「まあ、本当のところは、行ってみないとわからないけど。そうだろう? だけど僕はスリザリンに決まってるよ。僕の家族はみんなそうだったんだから……ハッフルパフなんかに入れられてみろよ。僕なら退学するな。そうだろう?」
「うーん」
ハリーの返事がさえなかったからなのか、少年はハリーへの興味を僕の方へと移したようだった。薄青い瞳が僕をとらえると、口元に大きな笑みを浮かべる。頭だけを下げて僕に会釈するあたり、どうやら両親から僕の話を伝え聞いているらしい。
僕は首を傾げて彼を見た。
ホグワーツを卒業した学生との交流は、一部の人間を除いて希薄になってしまう。僕らの性質上ホグワーツの外のことに目を向けることはほとんどないから仕方がないのだけれど、卒業して言った学生たちは、自分の家族に僕らのことを伝えているらしい。新入生の大半は僕らがホグワーツの大広間で挨拶をする前から僕らの名前を知っている。
「だけど君、スリザリンの寮長と一緒にこの店に来ているんだから、きっと僕と同じでスリザリンなんだろうな」
「彼、スリザリンの寮長なの?」
「ああ。他のどの寮長たちよりも素晴らしい方だよ」
少年は僕を見てもう一度会釈した。僕は彼の姿を見て、一体いつ頃の生徒とよく似ているのかを思い出そうとしたが、これまであまりに多くの生徒たちと関わってきているせいで、どうにもこれだ、という生徒が思い出せなかった。
「でも、君の両親はどうしたの?」
「死んだよ」
「おや、ごめんなさい。だけど、君の両親も僕らと同族なんだろう?」
「魔法使いと魔女だよ。そういう意味で聞いているんなら」
「他の連中は入学させるべきじゃないと思うよ。そう思わないか? 連中は僕らと同じじゃないんだ。僕らのやり方が分かるような育ち方をしていないんだ。手紙をもらうまではホグワーツのことだって聞いたこともなかった、なんてやつもいるんだ。考えられないようなことだよ。入学は昔からの魔法使い名門家族に限るべきだと思うよ。君、家族の姓は何て言うの?」
ハリーが口を動かして返事をする前に、マダム・マルキンが「さあ、終わりましたよ、坊ちゃん」と言ったので、ハリーは踏台からぽんと飛び降りた。心底安心したというような顔をしていたが、僕のところへ来る足は少し戸惑っているようにも見える。
「じゃ、ホグワーツでまた会おう。たぶんね」
少年はハリーにそう言うと、僕に向かって小さく頭を下げた。僕は片手で挨拶すると、マダムに紅茶のお礼を言い、ハリーを連れて店の外に出た。
扉の外にはが待っていて、大きなアイスクリームを両手に抱えていた。どうやら、窓辺に座っていた僕を見つけて店の中に入るか入らないかで迷っていたらしい。
「なんでこんなところにいるんだよ、。書店と漏れ鍋を三往復もしちゃったじゃないか」
「すまない。ルビウスから用を頼まれてな」
「まあいいや。はい、これおまえの分な。やっぱりフローリアンのアイスクリームは最高だ」
甘いものは得意じゃないと確かに伝えたはずだが……アイスクリームの塊を受け取りながら、溜息をつく。しかしは全く気にしない様子でアイスクリームにぱくつき始めた。優しいところは彼の長所なのだが、人の話を全く聞いていないところが玉にきずだ。
「……ハリー、これをあげるよ」
立ち止まったまま、僕とを見上げて黙りこくっているハリーにアイスクリームを差し出した。
さっきの少年との会話で、ホグワーツへのイメージが随分悪くなってしまったのかもしれない。
「ハリー? 君、新入生かい?」
「うん」
「ホグワーツへようこそ、ハリー! グリフィンドール寮長のだ」
が笑顔で手を差し出すと、ハリーはその手をやや戸惑いながら握り返した。
「グリフィンドール……?」
「ああ、そうか。ホグワーツどころか、魔法界にようこそ、なのか。グリフィンドールって言うのはホグワーツの寮の名前さ。他に、スリザリン、レイブンクロー、ハッフルパフがある。入学式でどの寮に入るのか組分けされるんだ。めでたくグリフィンドールに決まったなら、その先七年間、僕と一緒だ」
「そう、なんだ」
「おやおや、どうした少年。魔法界は面白くないのかい?」
「ううん、違うよ。ただ……みんなが僕のことを知ってるのに、僕は何にも知らないから、さ」
ますます落ち込んだ様相を見せたハリーに、僕とは顔を見合わせた。
アイスクリームを口にしたは、何だそんなことか、とハリーの肩を軽く叩き、とびっきりの笑顔を彼に向ける。こういうところは、僕よりも人懐こいのほうが得意なので、少し羨ましく思うときもある。
「それなら君は、何も知らないことを大いに楽しめばいい。目で見るもの耳で聞くものすべてが新しい世界! これほど面白い世界はまたとないぞ」
「だけど、さっきの子が言ってたんだ。マグルの家の子は一切入学させるべきじゃないって……」
「なんだその古めかしい思想は。、おまえのところの子か?」
「おそらくな」
「いいか、ハリー。そんな小さなことは気にするな。ホグワーツは誰にでも開かれているんだ。大体、最初からホグワーツのことを知っていたら面白くないじゃないか。入学式の日、初めて姿を見るホグワーツ。組分けにドキドキする瞬間。何も知らないほうが全身で味わえる!」
の熱弁に、ハリーは本当? と首を傾げながらを見上げた。本当、本当、と楽しそうに頷いたは、ハリーの肩を抱きながら歩き始めたので、僕はの袖を引っ張った。
「なんだよ、」
「ハリーをルビウスのところまで送り届けなくてはならないんだ。一旦漏れ鍋へ行かなくては」
「いいじゃないか、ハリー。僕と買い物しようぜ」
「強引なのは君の悪い癖だよ、」
嫌がるを無理やり引っ張って漏れ鍋のほうへ向かって歩くと、ハリーが僕の横を控えめについてきた。
アイスクリームには手をつけているようなので安心したが、それでも何かが彼の中に引っ掛かっているのだろう。すごく複雑な表情をしていて、なんだか僕のほうが申し訳なくなる。
洋装店で出逢った少年が言っていたのは遥か昔のサラザール・スリザリンの思想だったが、言葉に表されている意味だけが独り歩きしてしまい、彼の本心は全く伝わらないまま時が過ぎてしまった。サラザール・スリザリンとて、マグル生まれの生徒の入学を激しく拒んでいたわけではないのだ。ただ、あの時は時代がそれに適していなかったにすぎない。
スリザリン寮の寮長として、寮の中にこの思想がはびこっているのは少し心が痛むのだが、いまさら創設者のことを語ったところで、すぐに受け入れられるわけではないだろう、と指摘は控えめにしているのが現状だった。それがああいった生徒を増やしてしまう原因の一つになっている、とにはよく注意されるが、そんな彼もゴドリック・グリフィンドールのことを生徒たちに多く語ろうとはしない。
ハリーを漏れ鍋に送り届ける間、僕はそんなことを考えていた。
やっとハリーが出てきたよ!