ダイアゴン横丁 2
結局、ハリーをルビウスのところまで送り届けた僕らは、の提案を呑んでそのまま一緒にフローリシュ・アンド・ブロッツ書店まで足を運ぶことになった。
ダイアゴン横丁のフローリシュ・アンド・ブロッツ書店は、天井までぎっしり本が積み上げられていることで有名だ。此処に来れば、どんな本でも揃えることができる。入口のガラス越しに積み上げられた本の山を確認したハリーは興奮してガラスを覗き込んでいた。敷石ぐらいの大きな革製本、シルクの表紙で切手くらいの大きさの本などが外からよく見えるように展示してある。ハリーが見開きで置かれた古代文字が羅列してある本を興味深げに眺め、その場で立ち止まって動かなくなったので、ルビウスはハリーの腕を引っ張って店内に連れていった。
「ん?」
ルビウス、ハリー、に続いて、書店に足を踏み入れようとしたときに、僕は左の方から何か嫌な視線が自分を貫いているような気がして振り返った。店と店の間の薄暗い影になった空間に、ぎょろりとした大きな紅い目玉が二つ浮かび上がっている。たん、たん、と何かで地面を叩くような音も聞こえる。
ずきり、と左腕の紋章が痛みを訴えた。何か嫌な予感がして、気味悪い二つの目玉から目が逸らせなくなる。
その目玉は明らかに僕を誘っていた。物音を立てず闇の中を動き回り、目を開いたり閉じたりしながら、その瞳は僕の全身を捉えて離さない。
危険だ。きっと罠に違いない。頭の中ではそう思っているのに、僕の足は誘われるままに薄暗い路地へと進んでいった。幸い、既に店内にいるには気付かれていないようだ。
影になった路地はじめじめした空気が身体に纏わりつくほど陰気くさくて暗く、目玉の正体をはっきり確認することは出来なかった。道なりに真っ直ぐ歩いて行くと煉瓦の敷き詰められた壁に突き当たった。たん、たん、と壁を叩く音が右側から聞こえ、その音はだんだん遠ざかっていく。得体の知れないものに誘われるまま、僕は音の聞こえる方へとさらに足を進めた。
しばらく歩いて行くと、もう一度煉瓦の壁に突き当たったが、今度は右にも左にも抜けることができない袋小路に入り込んでいた。壁を打ちつける音は目の前から聞こえていて、暗闇の中にぼんやりと二つの目玉の全身が浮かび上がっている。
そこにいたのは全長150cmほどのグリーンイグアナで、身体の三分の二を占める長い尾で壁を叩いていた。ぎょろりとした紅い目玉は依然僕のことをじっと見据えている。
「……なんだ、イグアナか」
張り詰めていた緊張感がはじけ、僕は深く息を吐いた。
喉元に垂れ下がった皮膚が発達していることから、このイグアナは既に成体であることがわかる。後頭部から背面にかけて鬣状の鱗が発達しているところから見て、性別はオスだろう。幼体は鮮やかな緑色で、成長に伴い色味は褪せていくのがグリーンイグアナだが、彼の身体の色は幼体ほどではないにしろ、艶があって若々しい。
ダイアゴン横丁を訪れている誰かのペットが逃げ出したのか。魔法族の中には不思議な生物を好む人々が多数存在するから、このイグアナが誰かの所有物である可能性は大いにあった。おそらく、僕のことを飼い主と間違えて路地に誘いこんだのだろう。
「残念だけど、僕は君の飼い主じゃないんだ」
きっと紋章の痛みや嫌な気配は気のせいだったのだ。薄暗い場所に奇妙な目玉が動いていたから、身体が警告しただけだろう。ああ、またに小言を言われてしまう。早く戻ろう。
僕はすっと身を翻して、もと来た道を戻ろうと足を前に踏み出した。しかし、一度大きく壁を打ちつける音が耳を刺激し、それから辺りは水を打ったようにしんと静まり返った。同時に背後のイグアナから禍々しい気配が襲ってきて、身の危険を感じて駆けだそうとした僕の全身を包み込んだ。それはまるで、見えない腕に全身を絡め獲られたような感覚で、もうそこから一歩も動くことができなかった。
≪ふふっ、久しぶりだね、≫
え……? 今、僕の名前を呼んだのは……
声帯の無いイグアナから、確かに聞こえる人語。それはしゅーしゅーという音とともに僕の頭の中に直接響いていた。
その声はあまりに懐かしいもので、僕は激しく動揺した。身動ぎして身体をイグアナのほうへ向けると、大きな口の端を上げてイグアナはにたりと笑っていた。深紅の瞳に目が釘付けになる。
≪どうしたんだい? まさか、僕のことを覚えていないのかい?≫
「な、んで……」
≪ふふふ、冗談だよ。君が僕のことを忘れるはずがない≫
まるでイグアナとは思えない速度で壁を伝った彼は、あまりに重苦しい気配に思うように身体を動かせないでいる僕の腕によじ登り、満足げな笑みを浮かべた。
≪逢いたかったよ、≫
「……ヴォ、ルデモー……ト」
≪探したよ、。この姿になってからは君の気配を感じ取ることが出来なくなってしまってね。ずっと君に逢いたかったよ≫
愛らしい仕草で僕に笑みを向けるイグアナは、どこかヴォルデモートの気配を漂わせている。不意を突かれた登場に、戸惑った僕は上手く言葉を返すことができなかった。
どうして彼がここにいるのか、考えても答えは出てこない。何よりも驚いたのは、彼が意思をイグアナに宿しているということだった。かつての端正な顔立ちのヴォルデモートの姿をそこに垣間見ることは出来ない。
≪そんなに驚かないでくれるかな。僕だってこの姿は気に入らないんだ。忌々しいハリー・ポッターのせいで、僕の肉体は砕け散った。辛うじて命は繋ぎ止めたけど、今の僕は肉体を持たない弱い生命体さ。こうして何かの身体に自分を宿すだけでも残った魔力の大半を使ってしまう≫
明らかに不機嫌な表情を浮かべたイグアナは、首を横に動かして大袈裟な溜息をついた。その仕草が、かつてのヴォルデモートを思い起こさせる。ああ、確かに彼はこのイグアナに宿っている。
胸の中には懐かしい思いが溢れていた。けれど同時に、深紅の瞳、雪のように白い肌、自身に満ち溢れた表情、身に纏ったサラザール・スリザリンと同質の魔法の力……白皙の美青年、自他共に認める魔法界の実力者であった彼が、イグアナに身を宿さなければならない現在の状態に激しく胸が痛む。
人差し指の背でイグアナの首筋を優しく上下に擦ると、幾分機嫌を直したのか彼はまた僕の顔を覗き込んだ。
「本当に、ヴォルデモートなんだね……」
≪ああ。逢いたかったよ、≫
「……僕も同じさ。十年前のあの日以降、君の気配は微力で……以前のように君のいる確実な位置まで突き止めるこが出来なくなった。ずっと、アルバニアの森の辺りに気配は漂っているようだったけれど、それ以上は分からなかった」
≪だから、逢いに来てくれなかったのかい?≫
「……僕らはホグワーツの外で起きたことについては極力関わらない。君も知ってるだろう?」
ヴォルデモートはまた不機嫌そうに僕の指から逃れると、腕から肩へと身体を移動させた。人の姿とは似ても似つかない姿だったけれど、動きや表情の随所に彼の特徴が表れている。いつの間にか、ヴォルデモートの放つ禍々しい気配に呑みこまれ、平然としている自分がいた。
≪……まあ、いい。少し前に部下を一人新しく手に入れたんだ。彼は実に忠実な下僕でね。こうしてロンドンまで僕を運んでくれた≫
「そう、なのか……」
≪ねぇ、。君はまだ傍観者を決め込むつもりでいるのかい? 僕はサラザール・スリザリンの血を引く者だ。そして君はサラザール・スリザリンによって命を与えられた。僕と君は離れられない運命なんだよ≫
「僕は……」
≪君は僕には抗えない。こんなに僕の魔力と調和しているのに、いつまでも傍観しているだけで満足なのかい?≫
耳元で囁かれる言葉は甘く、そのまま身を委ねたい衝動に駆られる。
もしも彼が現在ホグワーツに在籍している学生だったのなら、僕はこの甘い囁きに身を委ねてしまっていたのかもしれない。
イグアナの太い舌が唇の上で弧を描くのを見つめながら首を横に振ると、彼はあからさまに機嫌を悪くて、彼に触れようとした僕の指先を軽く噛んだ。力こそ弱いものの、鋭い歯が僕の指に小さな傷を付ける。
「……ヴォルデモート……僕はホグワーツの守護者の一人だ。ホグワーツの外で起こっていることには関与しないし、君がホグワーツの存続を脅かすようなことをするのであれば、君に立ち向かわなくてはならない」
≪知ってるよ≫
不満げに返事をしたヴォルデモートが、僕の指の一本一本に小さな傷をつけていくのを見ながら、僕は小さく溜息をついた。
「僕に逢いに来ただけなら、この場から静かに立ち去れば僕は何も言わないよ。そんな弱弱しい力しか残っていないのに、大勢の魔法使いが集まるダイアゴン横丁に姿を現すなんて、君は何て無謀なことをするんだ」
≪此処に集まってる魔法使いなんて、この程度の身体でも吹っ飛ばせる≫
「ヴォル」
戒めるように少し強くイグアナの身体に触れると、ヴォルデモートは僕の手から逃れるように僕の身体の上を這いまわり、左腕に移動した。小さく息を吐き出すと、首をもたげて僕を見つめる紅い瞳の上を指の腹でなぞる。うっとりとした表情で目を閉じるイグアナに、僕は何だか物足りなさを覚えていた。ずっと昔に忘れたと思っていた感覚が甦ってくる。
熱を宿した滑らかな肌に触れたい。柔らかい黒髪に触れたい。ヴォルデモートと言う人間の美しい輪郭をこの指でなぞりたい。
イグアナの輪郭をなぞる僕の指が、小さく震えていた。
≪、僕のために人形を一体創ってくれないかい≫
「……ヴォル、命を宿さない創られた身体に人の魂が宿っても、それは元の肉体には成り得ない」
≪わかってるよ。心配しなくても、元の肉体を復活させるための蘇生魔法がどのようなものかは心得ている。僕はただ、君との逢瀬にこんな醜いイグアナの身体を使いたくないだけなんだ。綺麗な君の隣に、醜いイグアナは似合わないからね≫
一瞬、ヴォルデモートが人形を使って復活を企んでいるのではないかと勘繰ったが、彼はそれをあっさりと否定した。
それでも、その言葉を信じていいものかどうか僕は迷っていた。巧みな話術で人を惹き付けることを得意とするヴォルデモートの言葉をそのまま鵜呑みにしていいのだろうか。
≪僕が信用できないのかい?≫
「……」
≪安心していいよ、。君が創った人形は君たちとの逢瀬にしか使用しない、そう約束するよ。心配なら魔法をかけて身体を動かせないようにすればいい。ねぇ、、僕はただ綺麗な君の横に綺麗な姿で並びたいだけなんだ≫
「……ヴォル……」
イグアナは紅い瞳で僕を射抜くように見つめていたが、一瞬、僕の後ろに視線を逸らすと、ぱっと腕から飛び降りた。
すぐ後ろから誰かがこちらへ近づいてくる気配がした。
「、そこにいるのか?」
≪……いい返事を期待しているよ、≫
後方から聞こえたの声。目の前の地面に降り立ったイグアナは、一度振り返って口元に笑みを浮かべながらそう言うと、そのまま闇に溶け込んで姿を消した。
今まで圧し掛かっていたヴォルデモートの気配から解放された僕の身体は、極度の疲労を訴えていた。身体全体が重く、両足で自分の体を支えているのが精一杯だ。少しでも力を抜けばその場に膝をついてしまうだろう。
「こんなところで一体何をしてるんだ、。探したんだぞ」
「…………」
ぽん、と肩に手を置かれて振り返ると、そこにはが怪訝そうな表情を浮かべてに立っていて僕の顔を覗き込んでいた。彼の顔を見て緊張の糸が解れたのか、全身の力が一気に抜けてしまった。の胸に顔をうずめ、身を委ねてしまう。緊張で忘れていた左腕の紋章がずきずきと脈を打って痛み出した。
「お、おい、。どうしたんだ?」
「……腕が、痛い」
「腕……? まさか、あいつが此処にいたのか?!」
はっと気がついたが声を荒げて僕の体を揺する。力なく首を縦に動かすと、僕は深く息をはいた。
無いはずの脈を感じる左腕、激しい疲労感。の腕に抱かれて目を瞑ると、≪逢いたかったよ≫というヴォルデモートの声が頭の中で再生された。
彼は中毒性の高い甘い毒だ。血の通わない人形は人の温もりを求め、人形ゆえに完璧なる造形美に恋をする。僕はもうずっと前からヴォルデモートという甘い毒に侵されているのだろう。耳元で反芻するヴォルデモートの声が身体に熱をもたらしている。
「教科書は手に入れたし、今日はもう帰ろう」
「……すまない、」
「……本当に、あいつが……ヴォルデモートがいたのか?」
「ああ。確かにヴォルデモートだったよ。イグアナの姿を借りてはいたけれど」
呼吸を整えると、僕はに寄りかかっていた身体を起こし、自分の足で直立した。に寄り添われる形で薄暗い路地をフローリシュ・アンド・ブロッツ書店に向かって歩き出す。
「どうしてすぐに僕を呼ばなかったんだ。大体、一人でこんな路地に入っていくなんて……」
「気がついた時にはもう遅かったんだ」
「……それで、あいつは何か言ってきたのか?」
「ただ僕に逢いたかっただけだ、ってさ。あんなぎょろっとした目のイグアナの姿で言われても、大して嬉しくないよ、本当に」
「……」
「少し前に部下を新しく手に入れたらしい。その忠実なる下僕が彼をロンドンまで運んできたんだと言っていた」
僕はが苦い顔をしているのを横目で眺めていた。は、ヴォルデモートが復活し、かつての暗黒の時代がまた訪れることを懸念しているのだろう。何しろヴォルデモートは自他共に認める魔法界の実力者だ。生命体として意思が残っている限り、彼はどんな手を使ってでも復活を果たすであろうことは容易に想像できる。そしてそれは悲劇を生み出す行為に他ならない。
……が極端に闇の魔術を嫌うようになったのは、ヴォルデモートと不死鳥の騎士団が激しくぶつかり合い、多くの犠牲を出した時期からだ。かつては僕らみんな、使い道を間違えなければ魔術の知識は善悪を問わず豊富な方がいい、という立場だった。学生の頃のヴォルデモートには、使い方を間違ってはいけないよ、と言い聞かせながら闇の魔術について僕らが説明をしたこともある。は今でもそれを悔いている。
「……人形を創ってほしい、って言ってたんだ」
「人形?」
路地の出口に差し掛かった時、僕は静かに呟いた。
「そう、人形。僕たちに逢うのに、イグアナの姿を借りるのは嫌なんだって言っていた。綺麗な姿で隣に並びたいんだ、ってね」
「……信用できないな」
「僕だって信じたわけじゃない。だけど、あんなに綺麗だった彼が、イグアナの姿で僕の前に姿を現すなんて、なんだか滑稽だなって思ってね。口を開けば僕らのことを綺麗だと言い、造詣の美しい者しか周囲に置かなかった彼が、イグアナに寄生することで接触してくるなんて苦い笑いしか出ないな、って思ってさ」
僕に言わせれば、ヴォルデモートこそ血の通った完全なる美だ。もしかしたら彼は本当に、自分の意識をイグアナに寄生させることしか出来ない現状に苛立ちを覚えているのかもしれない。
「……そう言うことはに相談しろ。僕にはよくわからない。あいつが絶対に悪用することのできない物が創り出せるのなら別に……」
「……」
「いいか、僕はあいつを許せない。ただ……おまえの言ってることもよくわかるんだ……」
そんなの呟きに言葉を返すかわりに、僕はの手を握った。
僕は……いや、僕らは、なんて甘美な毒に手を出してしまったんだろう。彼がやっていることは世界の存在を揺るがすほどの事柄だってい言うのに、ホグワーツの外のことには極力関わらないという僕らの根本的な部分が、ヴォルデモートのやっていることをただの他人事のように受け止めてしまう節がある。そうして、美しい彼に毒されていく……
僕は深く溜息をつきながら、書店に足を踏み入れた。
ヴォルデモートさんはイグアナさんに寄生中。