蒼玉の焔 2
「ヒュー、隣座ってもいいか?」
「うん、もちろん」
窓の外に雪がちらつく金曜日の三時限目。週最後の授業は二時限続きで行われる『変身術』の授業は、ホグワーツの授業の中で僕が最も得意とする授業かもしれない。
孤児院を尋ねてきた髭の校長に分けもわからずに連れてこられてから一ヶ月。此処には僕の全く知らない世界が広がっていた。
一口に魔法と言っても、かなり細かく分類されているということ。魔法界にしか存在しない競技があること。マグルと言われる非魔法族と共存して行くための様々な規則……
お父様にもお母様にも教えてもらえなかった事がホグワーツには全て揃っている。
此処はあまりに魅力的な場所で、先に入学した同級生たちに追いつくために課題に追われる日々が心地よくて、あの怖い夢も見なくなった。
恐怖の対象でしかなかった魔法の力や魔法界が今や、僕の生活にとってとても重要なものに変わっている。
「変身術だけは難しくて苦手だ。先週なんか、モルモットを石にするはずが、机の表面だけ石に変わっちゃったしさ。どこをどう間違えたのかさっぱりだ」
レイブンクローの生徒と合同のこの授業は、通路を挟んで右と左できっちりスリザリンとレイブンクローの生徒がわかれている。
一ヶ月経って、スリザリンの生徒とは最初の頃よりも打ち解けてきた気がする。
まだ友達に心を開いてすべてを話すのは難しいけれど、日常会話から僕の知らない魔法界の事を聞き出すのは中々上手くいっているし、ほとんどが頭のいい生徒ばかりだから会話の内容には困らない。
ただ、他の寮の生徒とはなんだかぎくしゃくしている。
転校して一ヶ月が経つというのに、スリザリン寮以外の生徒は僕をまるで奇異のものを眺めるかのような視線で見る。廊下を歩けば物陰に隠れて噂話をされ、誰も僕のそばに寄ってこない。そればかりか、僕が話しかけようとするのを拒むかのように彼らは去って行く。
特に、レイブンクローの生徒は顕著に其の態度を示すから、なんだかとても苦手だ。
「そういや、ヒューは変身術の授業が得意だよな。一度も魔法に失敗した事が無いみたいじゃないか」
「変身術の授業って法則だらけだから、一度理解してしまうとすんなり解ける、んだと思う」
「……理解するまでが難関なんだっ!」
シーグフリード・フィリップス、みんなからはシグと呼ばれている友人は、机の上のモルモットの籠を杖でつつきながら溜め息をついた。
毎週いろんな姿に変身させられているせいか、モルモットは杖を見るとあからさまに嫌な態度を示すようになっている。
授業開始のベルが鳴る。
すぐに先生が教室に現れ、僕たちの会話は終了する。
何人かの生徒は既に寝る体制に入り、何人かの生徒は杖を握って勇み足。籠の中を走り回るモルモットを見つめながら、僕は机の上に羊皮紙を広げた。
「おしゃべりはそこまで。今日は先週よりも難しい事をしますからね。心して聞くように。まずは私が黒板に書くことを羊皮紙に書き写してください。杖を出すのは其の後です」
黒板に書き出されるのはいつも呪文の単語とモルモットを変身させる題材だけ。
呪文をどう組み合わせれば魔法が成功するのか、僕たちは教科書に載っている計算式や呪文の特徴から導きださなければならない。
一つでも間違えればモルモットの体の一部がなくなったり、全く違うものを変身させてしまったりするから厄介だ。
今はまだモルモットを使っているからいいけれど、上級生になると二人組になって互いに魔法をかけ合うらしい。相手に迷惑をかけないためにも、此処はしっかりと学んでおきたいところ。
モルモットを羊皮紙に変身させる事が今日の課題のようだ。
ただ丸めてあるだけでは駄目で、きちっと机の上に広げられるように完璧に変身させなさい、と先生は言った。
「……では杖を持って。自分が導きだした呪文式に従って魔法をかけてみてください」
先生の声と同時にあちこちでてんでばらばらに呪文が唱えられる。
ある席からは白い煙が上がり、ある席からはモルモットの鳴き声が聞こえる。
僕もシグも全く違う呪文を同時に唱えた。
「あちゃー……四つ足と髭の生えた羊皮紙が出来た……」
シグの目の前には髭の生えた、モルモットの毛色によく似たシミだらけの羊皮紙が出来上がっていて、四つの足で机の上を忙しなく動き回っていた。
その滑稽な様子に笑いがこみ上げてくる。きっとシグは、モルモットが動かなくなる呪文式を組み忘れたんだ。それに、羊皮紙の分量とモルモットの体積の計算を間違ったんだろう。
「ヒューの羊皮紙、完璧じゃないか?」
動き回る羊皮紙を捕まえながらシグが感心した表情を見せる。
僕の羊皮紙にはシミ一つないし、もちろん髭も足も生えていない。
見回りにきた先生が、僕の羊皮紙をじっと眺め、それを手に取った。それから、すぐ側のレイブンクローの生徒の羊皮紙をもう片方の手で取り、教卓の上にそれらを載せた。
一体何を言われるんだろう……期待と不安が入り交じる。
「羊皮紙が動き回っている方々は、すぐに元の姿に戻す呪文をおかけなさい。それからこちらに注目するように」
右側にあるのが僕の羊皮紙で、左側にあるのがレイブンクローの生徒の羊皮紙だ。
動き回る羊皮紙を元のモルモットの姿に戻すのに一番手間取ったのはシグだった。素早く動き回る羊皮紙型モルモットに魔法が全く当たらず、結局捕まえた羊皮紙を籠の中に入れた後で、やっとモルモットの姿に戻す事が出来た。
ざわめきが収まるのを待ってから先生が僕とレイブンクローの生徒の羊皮紙を頭上に掲げた。
「さて、私の意図した穴に上手に引っかかった生徒が一人と、それを塞いで完璧に変身を成功させた生徒が一人います。ここにある二つの羊皮紙は見た目こそほとんど完璧ですが……左の羊皮紙は、こうして開く事が出来ないのに対し、右の羊皮紙は開く事が出来ますね。ここに私の意図する穴があります」
‘さっすが、ヒュー’とシグが小さく囁いていて、僕はほんの少し恥ずかしくなった。両手がローブの裾を握りしめる。
「よく出来ましたね、ヒュー。スリザリンに三十点加点いたします。それでは詳しく解説いたしますので、通常の羊皮紙を広げてください」
加点制度。これは最初の頃僕にはあまり理解が出来なかった。どうやら年度末に集計して、一番点数の高かった寮に賞杯が渡されるらしいんだけれど、加点も減点も先生方の裁量だし、クィディッチという魔法使いの競技が随分と点数を左右するらしい。
僕が理解しているのは、加点されるとスリザリンの生徒みんなに喜ばれ、逆に減点されるとみんなに白い目で見られる、ということぐらいのものだ。
ただすこし、みんなの前で加点されると気にかかる事も出てくる。
レイブンクローの生徒の視線が痛い。
「見たか、レイブンクローの悔しそうな顔」
「転校生とは思えないほどヒューは秀才だよな」
授業終了のベルが鳴る。それは同時に金曜日の授業が終わって週末がやってきたことを意味する。
変身術の授業で寮に加点してもらった僕たちは気分上々で大広間へと向かっていた。
「今年の寮杯は難なく手に入れられそうだな」
上機嫌でおしゃべりをしながら大広間に向かう僕らのすぐ横をレイブンクローの生徒たちが通って行く。
途端、後ろに引っ張られたようになって僕は前につんのめり、危うく床と接吻しそうになった。
両手が床と顔が密着する直前で前に出たけれど、そのために手にしていた教科書たちは廊下に散らばり、羽根ペンが床に落ちた。
「レイブンクローの恥、レイブンクローに災いを呼び込む災いの御子だな、まったく。よくもまぁ、スリザリンで仲良くやっていられるものだ。本来ならホグワーツへの入学なんて辞退すべきだろうに」
通り過ぎる黒いローブの一団、降り掛かってきた言葉たち。
スリザリンの友達たちが彼らの事をひどく罵倒する言葉を投げていたけれど、それすらよく聞き取れず、僕はただレイブンクローの生徒の後姿を見つめていた。
「大丈夫か、ヒュー」
「……うん。ちょっと躓いちゃっただけ、だから」
「ローブの裾を踏むなんて、躾がなってないにもほどがある。どこの家柄だ」
「どうせ中流か下流の生まれだって。変身術の授業でヒューに負けた腹いせだろ。自分たちが出来なかったくせにヒューに当たるなんて馬鹿げてる」
シグが差し出した手につかまり立ち上がると、床に散らばった教科書を集める。
レイブンクローの生徒から罵声を浴びせられることは時々あるから、あんまり気にしないようにしていたけれど……直接耳にすると気分が悪くなる。
……災いの御子……それが僕に下された不吉な予言を示す言葉だと知ったのは、ホグワーツに入ってすぐの事だった。
レイブンクローの名家として有名なノードリー家に産まれたにもかかわらず、僕はスリザリンに選出された。
お父様の厳しい態度もお母様のきつい躾も、全て僕が災いの御子という予言を受けたからなんだろう、と今では解釈している。
……確かに、僕は災いだった。お父様もお母様も僕がいなければもっと幸せな家庭を築いていただろうし、きっと何不自由無く長く暮らしていただろう。
ノードリー家の災いは魔法界ではあまりにも有名で、僕がホグワーツに入学した事を知ったレイブンクローの生徒の親からは、僕を即刻退学させよ、という旨の手紙がいくつも校長宛に届いたらしい。無論ダンブルドアはそんな言葉には耳を貸さなかったし、スリザリンの生徒たちも僕を擁護してくれた。
それでも気にしないなんてこと、僕には出来ない。痛い視線を浴びるのは僕なんだ。それに……
「来週の変身術の授業で、素敵なお返しを彼らに差し上げるべきだと僕は思うよ、ヒュー」
「実力の無いプライドだけの塊なんてずたずたにするのが一番だ」
大広間に入っても、友人たちは僕を囲んでレイブンクローの生徒について語り合っていた。
どうやって素敵なお返しをするかが彼らの議論の中枢を成しているらしかったが、僕にはほとんど会話の内容が頭に入っていなかった。
災いの御子という言葉を聞くだけで背筋がぞっとする。
数ヶ月前、僕の家に『例のあの人』が現れ、僕の家族を惨殺した事件は魔法界ではあまりに有名だった。
それも、僕の思ってもみない内容で。
魔法界の住人は、僕がお父様やお母様からどんな教育を受けていたのか、どんな風に躾けられていたのか何も知らない。
お父様もお母様も表面上は仲のいい家族という体裁を保ち続けていたから、どうしても家族で出席しなくてはならない大きな行事のときだけは、僕も一張羅を着せられて彼らとともに外出した。
よけいな事はいっさい口にしてはいけないという大きな制約のもと、連れ出されたパーティーでは、お父様は僕をよく出来た息子だと言い、お母様は我が家に幸せを運んでくる天使と言った。
そうして世間に植え付けた仮染めの家族の姿はほとんどの人間に見破られる事がなかった。
表面上は美しい家族を保ち続けた結果、魔法界に広まった噂は災いの御子という予言さえなければ、偉大な学者を亡くす事はなかったであろうというものだった。
魔法植物の学者として有名だったお父様の若すぎる死を世間は痛み、美しいお母様の死を嘆いた。
其の一方で、彼らの血を受け継いだ僕のことはついに災いの御子としての予言が的中してしまったという形で報じられ、人々の恐怖を煽った。
あの日、家に『例のあの人』と言われている紅い瞳の奇麗な人がやってきたのは本当で、お父様もお母様も杖を取り出す間もなく床に頽れたのも事実だ。
だけどあの人は、僕を二人から解放してくれた人で、僕にとっては英雄、救世主と同じく崇拝すべき人。
でも……僕がいたからあの人は僕の家に来て、僕がいたからあの人は僕の両親を殺したんだ、と。全てが全て僕が生きているから、という事に塗り替えられた現実は……僕の傷口に塩を塗るようなものだった。
先生方ですら「ご両親を亡くして辛いでしょうに」と僕の今後を嘆く。
僕は彼らから解放された事が嬉しくて仕方がなかったというのに、僕が彼らから受けてきた仕打ちというものは全て隠され、悲劇だけが取りざたされて行く現状……
レイブンクローの偉大な名家を失い、其の子どもはスリザリンに選出された。
レイブンクローの生徒が僕の事を忌み嫌うのも当然の話なのかもしれない。彼らにとってみれば、僕はレイブンクローの輝かしい人物を殺した人間なんだから……
食事をする気にもなれず、僕はパンをほんの一口口にしただけでみんなより先に大広間を去った。
明日は休日だ。金曜日の放課後は補習もない。このままどこか一人になれる場所に行きたい。
そうだ、空き教室はどうだろう?呪文学の教室の隣なら確か空いていたはず……
ただ単純に一人になりたかっただけだ。
レイブンクローの生徒に否定されるのも、スリザリンの生徒に同情されるのも煩わしかった。
誰が何と言おうと紅い瞳のあの人は僕を解放してくれた崇拝すべき人で、僕が魔法の勉強に熱を入れているのも、彼に認められたい一心からだ。もちろんそんな事、誰にも言えないけれど……
呪文学の教室の隣の扉を開けて中に入った。
ホグワーツの管理人といえども、広いホグワーツのすべてを奇麗に掃除することは不可能らしく、こういった空き教室は後回しにされるらしい。部屋の中に無造作に置かれた机や椅子には埃がたまっている。
適当に埃を払い椅子の上に腰掛けると、僕は唇を噛み締めた。
「……あの人は、救世主だ……」
僕を救ってくれた人。紅い瞳の奇麗な人。
『例のあの人』がどんなに危険で危うい人物か、ホグワーツに来たらすぐに理解した。
聡明なスリザリンの生徒たちの多くは純血主義でありマグル粛正を行っている『例のあの人』に同調する部分があり、他寮の生徒は大きな事件が報じられるたびに『例のあの人 』の姿を想像し恐怖に身を震わせていた。
それがいい事だとは僕も言わない。でも、報じられている事件の裏には僕みたいな状況もあり得るかもしれない。だから僕は事件に懐疑心を持つ。
どうして全てが全て悲劇なんだろう。
それとも僕の感情がおかしいんだろうか……
それからしばらく僕は、空き教室の中にいた。
考えても考えても答えは見つかりそうになかったし、示されている解はただ一つ、優秀な魔法使いとして成長すること、ただそれだけだった。
カーテンの隙間から差し込む光がだんだん少なくなり、ついに自分の足下がほんの少し明るいだけになったとき、やっと僕は椅子から立ち上がり、寮に戻ろうと扉に手をかけた。
けれど扉は開かなかった。
「え……?」
閉じ込められた?
体中から血の気が引いて行くのがわかる。いくら押しても引いても部屋の扉は一向に開かなかった。
内側の鍵は開いているから、外側から意図的に外側でしか開けられない鍵を取り付けられた可能性がある。
……どうしよう。
鍵を開ける魔法は知っているけれど、意図的に取り付けられた外側の鍵がなんだかわからないから、どうしていいかわからない。
押しても引いてもがたがたと嫌な音を立てて揺れるだけで一向に開く気配のない扉。
授業のない金曜日の放課後にこんなところを通りかかる人なんていないだろうし……
呪文学の先生だってまさかこんなところに生徒がいるなんて思いもしないだろう。おまけに此処はホグワーツ。ゴーストたちが悪戯目的で扉をがたがた揺らすのはよくある事だ。僕の存在は気づかれないかもしれない。
泣きっ面に蜂とはまさにこういう事を言うのだろう。一人になるべきじゃなかった。
レイブンクローの生徒か、それとも悪戯好きのゴーストか。
週末はみんなが浮かれる時。悪戯も増える。
……いや、もしかしたら、これこそ僕が呼び寄せた災いに対する報復なのかもしれない。
取っ手を握っていた手を離し、僕はその場にへたりと座り込んでしまった。
ホグワーツの管理人が鍵をかけたのなら、内側から開けられるはずだ。外側に鎖のような音を立てる鍵を取り付けるなんて、きっと意図的な悪戯か何かだ。
やっぱり僕は災いなのかな……
こういう時、あの紅い瞳の人が僕を助けてくれたら……なんてありもしない期待を胸に持ってしまう。
能力のない人には興味のない方だろうと僕は推測している。だって、あの人が起こした事件やあの人の軍勢と呼ばれている人たちは皆力のある魔法使いだもの。
何の能力もない僕の側になんて現れてくれるはずがない。
目の前には開かない扉。
窓の外は真っ暗で、もう此処には明かりが入ってこない。
覚えたての光を出す魔法で杖の先にわずかながらの光を灯したけれど、部屋全体を照らすまでには至らない。
僕は呆然と扉を眺めている事しか出来なかった……
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変身術は数学や物理のようなものらしい。