やすらぎ


 ヴォルデモート卿は、表紙の黒い分厚い本を手にしたまま、もう3時間も顔を上げない。
 ふかふかのソファに腰掛けて、時折テーブルの上に置いた珈琲に口をつけるけれど、する行動といえばそれくらい。

 夏休みが終わってしまうと、はホグワーツとか言う場所へ行ってしまい、俺達はあの不思議な屋敷を去って、世界中を転々とする生活を続けている。
 窓の外にある太陽は、夏のようにぎらぎらとした光ではなく、穏やかな光を大地に注いでいる。
 こんなぽかぽかした陽気にはうとうととまどろんでしまう。

 でも、お昼ごろ腰を下ろしたこの場所は、時が進むに連れて日当たりが悪くなり、なんだか寒くなってきた。
 そろそろこの場所でのお昼寝も終わりにしよう、と俺は立ち上がった。

 「…

 のそり、と起き上がると、俺のその動きを感じ取ったのか、ヴォルデモートが俺の名前を読んで顔を上げた。
 ぴくっ、と体が無意識に反応する。
 耳がピン、と立つ。

 「おいで」

 久しぶりにあいつが俺の名前を呼んで、俺を側に呼び寄せた。
 いつもは俺が傍に居ようが居まいがまったく気にしない奴なのに。
 だから、てけてけと歩いていって、あいつの足元に寝そべろうとした。
 ぱたん、とヴォルデモートが本を閉じる音がした。
 どうやら読み終えてしまったらしい。

 「…ずいぶん、鬣が乱れているじゃないか」

 そういうと、杖を取り出して何か呪文を唱える。
 すると、どこからかいつもヴォルデモート卿が使っているブラシがやってきた。
 それを手にすると、おもむろに俺をひざの上に乗せる。

 「こんな姿では外を歩けないだろう?毛並みには気をつけないといけないよ、

 ブラシが、優しく俺の鬣に当たる。
 くすぐったい。
 ぐるるる、と唸ってしまう。

 「…どうしてそんな声を出す?」

 ヴォルデモート卿にどんな風に俺の声が伝わったのかは解らないけれど、彼はきょとんとした表情で俺を見つめた。
 紅い瞳が不思議な輝きを放っている。

 「君がそんな声を出すなんて珍しいこともあるものだ。このぽかぽかとした陽気で、気分がおっとりしているのか?」

 そんなことをつぶやく。
 俺には何のことだかよくわからなかった。
 何しろ、俺は何も考えていなかったのに、勝手に喉が鳴ってしまったのだから。
 それを、ヴォルデモートはどんな風に解釈したというのだろう。

 「…ああ、いいさ。そんな不思議な顔をしなくていい。適度な甘えもたまには必要だ」

 鬣のブラッシングを終えると、ヴォルデモートはその大きな手で、俺の頭を優しく撫でた。
 なんだか心地よかった。

 「お前は聞き分けが良くて助かるよ。僕が今何をしているのかを判断して、的確な行動をとってくれる」

 ほめられているのだろうか。
 まあ、悪い気はしない。

 「頭の良い動物は嫌いじゃないよ。もっとも、僕についてくるものに限るけれどね」

 屈託のない笑みは、少し黒いものを感じさせる。
 それでもヴォルデモート卿という人間の持っている、計り知れない力に俺は惹かれている。

 時々彼の手は、紅く染まっている風に見えることがある。
 時々彼の手から、血の匂いがすることがある。

 それでも俺は、こいつから離れようとは思ったことがない。
 たまにヴォルデモートが話す小さな大きな夢に俺は底知れず驚くことがあるけれど。

 「…闇の帝王に、頭の良くない部下は必要ないからね」

 どこかをうっとり見つめる仕草をする。
 その姿が、なんだか綺麗だと思う。
 髪が伸びてきたからだろうか。
 しきりに前髪を鬱陶しそうにかきあげる仕草をする。

 「…お前は、僕の傍にいればいいんだ」

 ぴくぴくと俺の耳が動く。
 適度に低いヴォルデモート卿の声は、この陽気の中では子守唄のように聞こえる。

 「…?ああ。眠ってしまったのかい?」

 大きな手がまた俺の頭を撫でたけれど、今度は首を持ち上げたくなかった。
 3時間も同じ場所に座り続けたヴォルデモート卿はぽかぽかしていたし、なんていってもその匂いがいい。
 いつもはヴォルデモート卿の足元で眠る俺だけど、今くらいここでまどろんでもいいじゃないか。
 こんな安らげる時間があるなんて、めったにないことなんだ。

 「…明日、ここを出るよ。ちょっと気になる情報が手に入ったからね」

 珈琲に手を伸ばしながらヴォルデモート卿がそうつぶやいた。
 少し俺の体に負荷がかかったけれど、何も言わなかった。

 「お前にしゃべる能力をあげてもいいんだけれども…それをしてしまうと、後々どうなってしまうかわからないからね。危ない橋は渡らない主義なんだ。お前は僕の話を聴いているだけでいい」

 俺もそう思う。
 たぶん、ヴォルデモートと話ができればそれはそれで楽しいのだろう。
 でも、そんな能力、俺には必要ないと思うんだ。

 「…やっぱり、冷めた珈琲は美味しくないな。さあ、珈琲を入れなおすから降りてくれ」

 まどろみ始めた俺をソファの上におろすと、ヴォルデモートはカップを持っていった。
 ぴょん、とソファからとびおりると、俺はヴォルデモート卿の後をついていく。
 もしかしたら、ミルクをくれるかもしれないのだ。
 ヴォルデモート卿はブラックの珈琲を飲む人だから、ミルクをいれることはないんだけれど、宿の珈琲には、必ずミルクがいくつか置いてある。
 それを時々俺にくれる。

 「…ほら」

 お目当てのミルクを舐め終えると、俺はまた珈琲を飲みながら何かを羊皮紙に綴り始めるヴォルデモートのひざに乗っかった。






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 やすらぎ。
 はヴォルデモートを信用してるのです。