甘美な誓い


 身体が重力を取り戻した時、何かに抱きかかえられるようにふわっと包まれる感覚を味わった。
 その始まりは移動キーの発動によってどこかに運ばれる感覚だったけれど、通常のそれとは違う着地の仕方に僕は戸惑い、状況の把握がおろそかになる。おまけに思いもよらない形での移動キーの発動で、僕の頭は混乱していた。
 ……ここ、どこ?
 肌に感じる冷やりとした空気は、冬のイギリスの街並みとはまた違っていて、僕は小さく首をかしげた。
 周囲はごつごつとした岩がところどころ見え隠れしている土壁で囲まれている。だからと言ってホグワーツの地下牢のように重苦しい雰囲気ではないのはきっと、壁のあちらこちらに骨董模様のお洒落な明かり取りがあるからだろう。
 足元は……これは、大理石? 明らかに人の手が入っているこの冷たい場所は一体どこなんだろう?
 そもそも、ヒューのところから勝手に持ってきたマグルのボールペンが移動キーになっているなんて思いもしなかった。それに、どうして発動したのかもわからないままだ。だけど、ヒューのところにあった移動キーなんだし、きっとここはヒューにゆかりのある場所なんだろうな。なんだろう、別の仮住まいなのかな?
 よくわからない場所に一人でいるのは心細かったから、僕は奥に続いているであろう大理石の廊下をゆっくり進み始めた。

 「……誰だ」

 よく響くぴりっとした声が聞こえたのは、道の先がぱっと開けた場所にたどり着いたときだった。
 この先に誰かいるのかは廊下との仕切りである薄いカーテンのせいで視認できなかった。だけど、低く警戒した声が聞こえただけで、僕は自分の身体が緊張していくのが分かった。
 ヒューの声じゃない。
 ……ホグワーツの外では魔法を使うことは禁止されてるんだけど……そう思いながらも、本能が僕に杖を構えさせる。
 はたりと何かを閉じる音がして、目の前のカーテンが音もなく開け放たれる。
 そして僕は、目の前の豪奢なソファーに足を組んで腰掛ける人から目が離せなくなった。
 長い黒髪を緩く縛り上げ、深紅の瞳で僕を射抜いた人。
 その姿、その見た目……僕が待ち望み恋焦がれている人に瓜二つだった。記憶より背は高くなっているような気はしたけれど。
 杖を構える手が震えているのがよくわかる。
 そこは小さなリビングのような空間で、壁は本棚で敷き詰められ、羊皮紙や古い本が所狭しと並んでいた。床に敷かれたペルシャ絨毯の上にはガラステーブルとソファー。蝋燭の明かりが揺れるたび、目の前の人物の影も揺れ、それがまた余計に相手を艶やかに見せていた。

 「……っ?!」

 思わず叫ぶと、相手の眉間には若干のしわが寄った。さっきよりもより厳しい視線が僕に向けられる。
 なんだろう、すごい威圧感が僕の方に押し寄せてきてる感覚。本当は駆け寄って抱きしめたいのに、何人をも近寄らせないかのような……そんな感じ。
 動けないまま、彼から視線を離せないでいると、僕をなめまわすかのように全身を見たあと、彼は一度ぱちん、と指を鳴らした。
 そうしたら、すぐだ。僕と彼との間にもう一人、人がすっと姿を現した。片膝をつき、頭を垂れた姿で跪いている。その出で立ちを僕は懐かしく感じていた。

 「……ヒュー、そこに突っ立って僕の息子の名を呼ぶ奴を誰だか知ってるかい?」
 「ヒュー?!」

 やっぱりそうなんだ!
 友人の名前を聞いて僕は思わず今現れた人物に駆け寄って抱きついた。
 振り返った瞬間僕に飛びつかれたヒューは目を白黒させて、一度後ろに大きく倒れこみそうになったのを何とか足を後ろについてバランスをとったみたいだった。大きな胸に受け止められると、僕はヒューの胸に顔をうずめた。
 うん、ヒューのにおいだ。

 「……イーノック?」

 眉間にしわを寄せたヒューの顔が僕を覗き込む。ヒューを見上げた僕は、元気よく頷いた。まさかこんなところで逢えるとは思ってもなかった。
 ヒューはホグワーツを卒業したあとすぐに、何だかすごく偉い人の付き人になったんだよね。だから、常にその人と行動を共にしなくちゃいけなくて、せっかくホグワーツが長期休暇に入っても中々時間が取れなくて逢えなかったんだ。
 仮住まいにはいつでも遊びに行っていいよと言われてたから、煙突飛行粉を使って遊びに行くんだけど、ヒューに逢えたのはほんの数回だけだった。
 ……ということは、この目の前のソファーに座っているのは、ヒューがお仕えしているっていう身分の高い人かな?
 ヒューは少し戸惑った顔をして僕を見つめた後、身体を捩って僕の腕から逃れた。
 もうちょっと、抱きついていたかったのにな。
 それからすっと振り返り、ソファーに座っている人物に頭を下げた。
 僕はそんな二人のやり取りを首をかしげて見つめている。

 「知り合いかい?」
 「ホグワーツ時代の友人です。以前僕に大量の梟便を送ってきた……」
 「ああ……覚えているよ」
 「恐縮です。僕と同様ご子息に紅玉を賜っているので、閣下のお姿とご子息のお姿を見間違えたのかと」

 閣下、だって。この人、本当に偉い人なんだなぁ……
 ヒューに閣下と呼ばれたにそっくりな人は品定めをするかのように僕とヒューを見つめている。
 ヒューは僕の方を振り返り、戸惑った顔で何かを訪ねようと口を動かす。
 だけど、その前に僕の口から疑問が飛び出た。

 「ねえっ! じゃないの?」
 「……イーノック、先生と約束しただろう? のことは極秘事項だって。安易に口にしていい名前じゃないよ」
 「だけど、あの人にそっくりじゃない? 僕、以外であんなに深くて綺麗な紅色の瞳の人を知らないもの」

 困った表情をしたヒューが僕から“閣下”へと視線を移す。僕もつられてにそっくりな彼を見つめたら、相変わらずソファーの肘掛に肘をついたまま指先で顎を支えていたけれど、その目はさっきよりもうっすら細められているような気がした。

 「それよりイーノック、君はどうしてここにいるんだい? この場所は……」
 「ん? あのね、ヒューの仮住まいにボールペンがあったからおうちに持って帰ったんだ。そしたら、弟のキースがばらばらに壊しちゃってさー。中にラテン語とかルーン文字とかいっぱい書いてある紙が入ってたから、それを解読して音読したんだ。えっと、確か……ラテン語の格言がいくつか。
 Aut viam inveniam aut faciam.
 Cave quid dicis, quando, et cui.
 Intellectum valde amat.
 Ispsa scientia potestas est.
 それから、Cogito, ergo sum. だったかな? どれも有名な格言だったから、すんなり解けたけど、それを全部読んだところで、移動キーみたいな力が働いてさー。なんか、気が付いたらここにいたんだ」

 ヒューの顔色がさっと青く変わる。ぱっと振り返ると片膝をついて“閣下”に深々と頭を下げる。

 「失礼いたしました、閣下。僕の失態です。……いずれご子息にお渡しするつもりの移動キーの試作品を彼が作動させたようで……」

 ヒューは依然片膝をついたままで顔を上げない。僕は二人の姿を交互に見つめたけど、“閣下”は口端を上げてヒューを見下ろしていた。

 「移動キー……ねぇ。顔を上げていいよ。御咎めはなしだ。君の才能には時々驚かされることがある。それより、そこに突っ立ってる君の友人に状況を説明してあげるといい。彼はまだ此処が何処なのかも僕が誰なのかもわかっていないようだから」

 するとヒューはまたしても深々と頭を下げてから顔を上げると、僕の方に振り返った。
 なんか、ものすごい主従関係だよね、この二人。確かににそっくりだし、ヒューが心酔するのはなんとなく雰囲気からわかるんだけど、でも謎な人だな。

 「……ヒュー?」
 「いきなり移動キーが発動して驚いただろう? 此処はギリシャのペーリオン山だ」
 「あっ、僕知ってるよ。テッサリア地方の山だよねっ! アスクレーピオスがいたところっ!!」
 「うん。まさにその洞窟さ」
 「本当?! うわー、感動!! 僕イギリスから出たことないから、そんな素晴らしいところに来られるなんて思ってもなかった! ヒューのところからボールペンを勝手に持って帰っちゃったのは悪かったかなって思ってたけど、なんだかすごく嬉しい」
 「えっと、それで、さ。話を続けてもいいかな?」
 「あ、うん。どうぞ」
 「此処は僕のお仕えしている閣下の所有しているところなんだ。本来なら魔法使いもマグルもここを見つけることはできないようになってる。君が此処に来てしまったのは本当に僕の失態で……」
 「ふうん。じゃ、やっぱり、ヒューが仕えてる人ってすごい人なんだね!」

 ヒューは少し照れたように口元を緩めた。
 それにしてもすごいなー、って僕はこの場所をぐるりと眺め、ソファーの上に座って僕たちのやり取りを面白そうに眺めている深紅の瞳の人を見つめた。
 見れば見るほど、にそっくりなんだよ。

 「……イーノック、僕のお仕えしている方について、君にきちんと話をしなければいけないね」
 「うん? でも、すごい人だからあんまり素性は明かせないんでしょう?」
 「本来ならそうなんだけど……」

 ヒューが視線をちらりと彼に向け、彼は一度ゆっくりと顎を動かした。

 「彼の名はヴォルデモート卿」
 「!」
 「の……お父上だ」

 戸惑いがちな声。蒼い瞳に見える困惑の色。
 僕だってホグワーツで魔法界については色々学んでいるから、閣下の名前に反応しないわけはなかった。

 「じゃあ、僕はもうすぐに逢えるんだね!」
 「……」

 両手を合わせてほほ笑むと、ヒューがひどく驚いて目を見開いて僕を見つめてきた。ソファーの上の閣下は瞳に笑みを湛えて僕を見つめ、くくっと声を漏らしていた。

 「面白いな、少年」
 「イーノックだよ、のお父さん!」
 「そうか」
 「ねっ、僕はいつに逢えるの? まだ先なの? 早く再会したいんだけどなっ!」

 戸惑うヒューをよそに、僕は閣下の前までヒューの手を引っ張って歩いていった。
 のお父さん、だなんて、いっぱいいっぱい聞きたいことある。こんなまたとない機会を逃すわけにはいかなかった。

 「が好きか?」
 「うんっ! 次に逢ったらホメーロスの『イーリアス』の朗誦を聞いてもらうって決めてるんだ! いっぱいいっぱい楽しかったんだよ、一緒にホグワーツで過ごした時間。だから、僕は彼に誓いを立ててる。僕は身命を賭してでも彼を護るんだ、ってね。まだ、ホグワーツの見習い魔法使いだけど、もうあの時のよりも学年は上になったし、魔法界についても知識がついてきたと思う。だから、前よりはきっとの力になれると思うし、もし力が足りないんだったら、もっともっと勉強する!」

 彼はくくっと喉を鳴らし、口端を上げている。片方の手の指で僕をくいっと近くに呼び寄せると、僕の顎をその指で持ち上げた。
 白皙の美青年、というのだろう。表情が輪郭が、その仕草がにそっくりで、自然と心臓が跳ねる。

 「僕についてくる気はないかい?」
 「ん? 良いよ。実は前からちょっと興味あったんだ」

 間髪入れずに返事が出るとは思っていなかったのだろうか。深紅の瞳に驚きの色が一瞬宿ったのを僕は見逃さなかった。
 そのあと、瞳は細められ柔らかい笑みが加わる。その表情はイツキが僕に微笑んでくれるときのものとそっくりで、なんだかひどく懐かしくなった。

 「怖くはないのかい?」
 「うん。だって、ダンブルドアをも唸らせる世界随一の魔法使いなんでしょ? マグルとか魔法使いとか、そういう難しいことは僕にはわからないけど、僕は貴方に純粋に興味がある。貴方がしゃべる度、その言葉には何らかの魔力が込められていて、それが人に作用している。言葉だけじゃない。その仕草も存在も全てがそうだ。世間はいろんなことを言うけど、僕は本人を見たことがなかったし、大した感情を持ってなかった。だけどこうして目の前にしてみたらわかるよ。世の中の人たちが囁いてることはほとんど嘘だ」

 くつくつと笑う彼の瞳は心底僕の言葉を楽しんでいるようだった。細められた瞳に柔らかい視線が送られるのが甘くて仕方がない。ヒューが酔いしれるのもよくわかるな、って思うんだ。
 ヒューは僕の一歩後ろで戸惑った気配を漂わせていたけど、僕の態度を見てヒューが困惑するのはいつものことだし、ヒューが此処で何と言おうと僕はこの人について行ってみたかった。

 「あ。でも、僕は貴方に全ては捧げられない。僕が全てを捧げるのはだけだって決めてるからね。それでもいい?」
 「ふっ、本当に面白いな。もちろんそれで構わないよ」
 「それなら、僕は貴方についていくよ。どんなことをしてるのか、何を考えてるのか、たくさん知りたい」

 小さく声を出して笑った彼は交渉成立だ、と呟くと、杖も使わずにさっと小さなナイフをどこからか取り寄せた。

 「……口を開けて」

 何のためらいもなく彼の手が自分の左手首を傷つけ、深紅の血液がつーっとかれの腕を伝って流れている。ソファーから立ち上がった彼は僕の顎を上に持ち上げると、その血を数滴僕の口の中にたらした。
 口の中に広がる鉄の味は何故かほの甘く、思わず舌先で転がして味わってしまった。

 「僕の部下には他の印をつけているんだけどね。ヒューと君は別だ。に逢いたいなら、この先もずっと僕に従っていることは誰にも知られてはいけないよ。ヒューの役目も君の役目も最終的にはを護ることだからね」
 「うんっ! わかった!!」
 「いい子だ。……ヒュー、彼を家まで送り届けてあげるといい。少しの間なら思い出に浸ってきても構わないよ」

 ヴォルデモート卿は非情な人物だって聞いてたけど、なんだか温かみのある人だなって思った。
 ヒューは一歩前に出ると、僕の頭を掴んで一緒に彼にお辞儀をさせ、それからもう一度深々と頭を下げ、僕をマントの中に入れた。

 「ん? これで帰れるの?」
 「ああ。僕につかまって。……イーノック、君にはたくさん話したいことが……」
 「へへっ。僕も久しぶりにヒューと話したいっ!」

 たまにヒューは僕のことを呆れた瞳で見る。今もそんな感じで小さなため息をついた。でも僕の心の中は今までにないほどひどく高揚していたから、僕はヒューに笑顔を向けることにした。これがさっきヴォルデモート卿から血をもらったからなのか、何かの魔力が僕に作用しているからなのかはわからなかったけど、に逢えるかもしれないという希望が一つ現実に近づいた気がして本当にうれしかったんだ。
 やがて、ヒューが魔法を発動させると、僕の身体もヒューの身体も淡く光り始め、姿くらましの魔法と同じような感覚がした。
 ふっと消える前のほんの一瞬、深紅の瞳が僕を貫くように見つめていた。
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 イーノックについて掘り下げてみるそのさん。
 ヴォルデモート卿と初対面。
 ラテン語の日本語訳は以下。

 ・私は道を見つけるか、さもなければ道を作るであろう
 ・何を、いつ、そして誰にいうかに注意せよ
 ・知性を強く愛せよ
 ・知識は力なり
 ・我思う、故に我あり

06/15/2013