無意識に唱える名
頭が痛い、と僕は読んでいた書物から顔を上げた。今朝からずっと鈍い痛みが断続的に僕を襲っている。
木枯らしの吹く窓の外を見つめて僕はため息をついた。このところの急激な冷え込みで体調を崩したんだろうことはなんとなく想像がついたけれど、それを認めるのは癪だった。
今日はがいない。
3年生以上の生徒が出掛けることを許される“ホグズミード行きの週末”のおかげでホグワーツは静かだ。けれど、寮長として彼らを引率するため、も上級生と共にホグズミード村に出かけている。
上級生が出払っているから図書館はいつにもまして静かだ。きっと今日は勉強をするにはもってこいの日なんだろうけど、僕にとっては退屈な日でしかない。がいないから閲覧制限のある棚の本を手にすることはできないし、居心地の良いの部屋で勉強することもできない。
ああ、やっぱり頭が痛いな。あんまり寮の部屋に戻るのは好きじゃないけど、が戻るまで寝台で横になっていたほうが良さそうだ。
僕はもう一度ため息をつくと、机の上に広げてあった本と羊皮紙をしまって席を立った。
冷えた空気が体に纏わりつく廊下を、スリザリン寮に向かって歩いていく。廊下ですれ違う生徒たちはもうすぐやってくるクリスマス休暇を話題に挙げ、笑ったり騒いだりと忙しない。上級生がいないからか、いつもは目立たない生徒まで浮かれた様子で廊下を走り回っている。
いつもはおとなしい階段も、ホグワーツにあまり慣れていない下級生ばかりの今日を面白がっているのか、今日は目的の場所になかなか連れて行ってくれないみたいだ。
ちらりと耳にしたそんな話に少し苛つきながら、僕は階段に足をかけた。
丁度階段を降りようとした時、反対側からグリフィンドールの寮長の声が聞こえてきた。鈍い痛みがより一層激しくなる。
今日のホグズミードの引率担当はと。ホグワーツに残った下級生を見回るのはとだ。がと一緒にいるのも嫌だけど、がいない時にこうして出逢ってしまうのも僕は嫌だった。
僕は彼が嫌いだ。それを隠そうとも思わない。は僕からを奪う。僕に向けられていたの笑みが、が来るとに向けられる。の視線が僕から外れる。だから、僕はが嫌いだ。
「トム・リドルじゃないか。今日はがいないから一人でお勉強か?」
こうやって何かあるとすぐに僕にちょっかいをかけてくるところも好きじゃない。
は僕が彼のことを嫌っているのを知っている。それでいて、何かあると必ず僕をからかってくる。本人は面白半分にやっていることなんだろうけど、そんなことにかまってられるほど僕は暇じゃない。それなのに、がいない時を見計らって僕に絡んでくる。もちろん、がいればがのことを制するからなんだろうけど……体調の悪い現状、彼と出逢ってしまうなんて今日は運が悪い。
名前を呼ばれて身体が反応してしまい、と目を合わせてしまった。だけど僕はふっと視線をそらし、何の返事もせずに彼の横を通り過ぎようとした。頭は痛いし、何だか寒気がする。がいないのに医務室にいくのも嫌だったし、早く寮に帰りたかった。に逢わなくていい分、まだ寮の談話室や部屋のほうがいくらかましだ。
「あ、こら、僕が声かけてるっていうのに無視するなよ」
すれ違いざま、腕をつかまれに見下ろされる。それ以上前に進めなくなって仕方なしに振り返った僕は、きっ、とをにらみつけた。僕は寮に帰りたいんだ。
「僕に触らないで」
握られた腕を振りほどこうともがくと、が怪訝な顔をして僕を上から見下ろしているのがわかった。どうせいつもみたいに僕のことをからかうんだろう。まだ一年生の僕は彼に身長では敵わないけど、だからって見下ろされているのはいい気分じゃない。些細な抵抗でしかないけれど、僕は彼をまっすぐ見上げ返した。
「トム、身体が熱いぞ、おまえ。熱でもあるんじゃないか? 医務室には行ったか?」
「君には関係ない」
「関係ないわけがない。おまえはホグワーツの生徒だ。生徒の体調を気遣うのも寮長の役目だからな」
「君は僕の寮の寮長じゃない」
なんだか自分の鼓動が早く聞こえる。息も荒くなってきているような気がする。それでも僕は体調が悪いってことを認めるのが嫌だった。認めたらきっと、無理やりにでも医務室に連れて行かれる。と一緒に医務室に行くなんて、考えただけでも反吐が出そうだ。
確かに頭は痛いし悪寒がする。だけど、と一緒に医務室に行くなら、寮で静かにの帰りを待つほうがいい。の部屋に行けば体調を整える薬なんていくらでもあるし、がきっと僕の症状を見て薬を調合してくれるだろう。もちろん、医務室に行っても同じことをしてもらえるだろうけど、いろんなことが制限されてしまう。そんなのはごめんだ。
「がホグズミード村に引率で行ってるのはおまえだって知ってるだろう? 大体僕たち寮長はどこの寮の生徒だとか関係なしに、ホグワーツの生徒を見守ってるんだ。ほら、駄々をこねないで医務室に行くぞ」
「僕にかまわないで」
無理やりにでも僕を医務室に連れて行こうと腕を引っ張るに、僕はできるだけの力で対抗した。彼の手を振りほどこうともがく。
はますます苦い顔をして、半ば戒めるように僕を見つめて口を開いた。
「トム、意地をはるな。具合が悪いことはわかってるんだ。医務室で診察してもらって、薬を飲んで安静にしていればが帰ってくるまでには少し良くなるだろう。それとも、に看病してもらいたい甘えん坊なのか?」
それは僕の頭に血を上らせるには十分すぎる言葉だった。誰が甘えん坊だって? 僕からを奪って満面の笑みを浮かべるような子供っぽい寮長に言われたくない。
君には関係ない、と叫ぶように声に出すと、が一瞬ひるんだ隙に腕を振りほどいた。幸いなことにここから寮まではそんなに遠くない。階段が僕を変な場所に運んでしまう可能性はあるけれど、もし寮と違う場所に運ばれたとしたって、と離れられるならそれでいい。
僕は足に力を入れ、勢いよく階段を駆け下りようとした。
「なっ、おい、トムっ!!」
そして、目の前が真っ白な光で包まれ、身体が不思議な浮遊感を味わった。
寝台の横で僕を見つめている人がいる。大きな手が僕のほうに伸びてきて、まだぼーっとしている僕の額に触れた。冷たくてなんだか心地良い。
「…………?」
名前を呼んだけれど、返事はなかった。
そういえば、どうして僕はの部屋にいるんだろう。なんだか頭がぼーっとしていてうまく思い出せない。図書館から寮へ帰ってこようとした時にとすれ違って……
はたり、と扉の開く音がした。ゆっくり首を動かして扉のほうを向く。また大きな手が僕の額に伸びてきて、ひんやりとした心地いい感覚が全身に広がった。
「遅くなってすまなかった。トムの具合は?」
「今は落ち着いてる」
「そうか。廊下で倒れたと聞いたが」
「僕とすれ違った時に具合が悪そうだったから医務室に連れて行こうとしたけど反抗されたんだ。そのときに」
「そうか……」
「薬湯を飲ませたから熱は下がってるけど、しばらく安静にして様子を見たほうがいいな。ま、ここのところの急激な冷え込みで下級生を中心に体調を崩してるやつが多いから、きっとトムも軽い風邪だとは思うけどな。同じ空間にいると菌が蔓延するから本当は医務室に連れて行きたいところだが……まあ、おまえが面倒見るなら、ここでもいいかと思っておまえの部屋で寝かせておいた」
深紅の瞳が僕を覗き込んでいる。僕はもう一度彼の名前を呼んだ。
「……もう少し眠るといい、トム」
汗で額に張り付いた髪を払ってくれる指。冷たい感触が肌に心地良い。寝台に腰を下ろしたが僕の身体に優しく触れている。
「…………」
「おまえが帰ってくるまでの間、こいつが何度無意識におまえの名を呼んでたと思う? うわ言のように呼び続けてた」
「すまなかったな、早く帰ってこれなくて」
「仕方ないさ。ホグズミードの引率が大変なことは僕もよく知ってる。それが楽しいってこともよく知ってるけどな。さて、おまえが帰ってきたなら、僕は退散するかな。トムにはずいぶん嫌われてるみたいだしな」
「それは君の普段の行いが悪いからだ」
「おまえがトムばかりかまってるのが悪いんだ」
「ほらまたそうやって君は僕を困らせる。……ありがとう、」
「ん。ちゃんと面倒見てやれよ。そのローブ、トムが元気になるまで貸しておくよ」
一瞬微量の魔力が部屋の中に広がり、の気配が部屋から消えた。
……二人の会話から自分が倒れたことを理解した僕だったけど、まさかが僕をの部屋に運んできているとは思わなくて、何だか不思議な気持ちになった。
“僕たち寮長はどこの寮の生徒だとか関係なしに、ホグワーツの生徒を見守ってるんだ”という言葉、普段グリフィンドール生とばかり一緒にいるの口から出ても信用できなかったけど、もと同じようにホグワーツを見守っている寮長なんだ、ということを冷静に考えられるくらいに僕の意識は回復してきた。
少し体に力を入れて上体を起こそうとすると、すかさずの手が僕の背中に伸びてそれを手助けしてくれた。いくつかのクッションが背中に敷かれ、上体を起こすことが身体の負担にならないように配慮してくれる。そんなが僕は大好きだ。
「……ん、、喉が渇いた」
窓の外には月が輝き、暖炉の火が煌々と燃えている。僕、どのくらいここで寝てたのかな。掛布とは別に身体にかけられた黒いローブを見る。貸しておくよ、っては言ってたけど、このローブからはのぬくもりが感じられる。
の持ってきた少し甘い飲み物を口にする。の手が僕の額に触れる。そんなに何度も体温を測ったって、すぐには変わらないよ。そんなことを思って小さく口元を緩めると、も少しだけ口端を上げた。
「朝から具合が悪かったのかい?」
「少しだけ。そんなに悪いとは思ってなかったんだ、僕」
「そうか……次は少しでも体調が悪いと感じたら無理をせず僕に教えてくれ」
が僕の頭を軽く抱きしめてくれる。額に優しく落とされた接吻にぬくもりを感じる。
「今日はずっと退屈だった。みんなもうすぐ来るクリスマス休暇のことばかり話題に挙げてて、話をしても大して面白くなかったから図書館に行ったんだ。でも、がいないから閲覧制限のある棚の本は読めないし、面白そうな本を見つけてもの部屋でゆっくり読むこともできない。おまけに寮に戻ろうと思ったらに逢っちゃった」
「そうか」
「ってば、僕のこと甘えん坊だって言うんだ。だけど、僕からしてみればのほうが指揮に甘えてるよ。がいつも僕からを奪うんだ。はずっと僕だけを見ていればいいのに、が来るとの視線が僕から外れる」
困ったような表情を浮かべたの手が、僕の輪郭線をなぞった。なんだかくすぐったい。
「……トムはが嫌いかい?」
「好きじゃない。僕からを奪うもの。だけど……だけど、今日はの違う面を見た気がする」
そう。今日はほんの少しのことを見直したかもしれない。僕はが僕に貸してくれたのローブを握りしめた。
いつも僕にちょっかいをかけてくる面倒くさい寮長くらいにしか思っていなかったけれど、もしかしたら僕が思っている以上にはホグワーツの生徒のことを観察しているのかもしれない。と同じように。
どうしてがのローブを“貸しておく”って言っていたのかはわからないけど、がいない間、のことをずっと呼び続ける僕にのぬくもりを与えようとしたってことくらいは容易に理解できる。医務室じゃなくてわざわざの部屋に連れてきたのだってきっと、僕がかたくなに医務室に行くのを嫌がったことに配慮したんだろう。そして、僕がの部屋に入り浸っていることを彼は知っていた。
単純に僕のことをからかうだけの嫌な奴だと思っていたけれど、そうではないみたいだ。前々からはを認める発言をしていたけれど、僕はずっとそれに反抗していた。なんてが認めるに値する人物じゃない、って思ってた。だけど、僕はほんの少し考えを改めるべきなのかもしれない。
飲み終わったグラスを受け取ったが、それをテーブルの上に戻す。僕の背中からクッションを抜き取り、僕の頭を枕の上に載せ、もう一度僕の額に軽く接吻を落とす。の長い髪が顔に触れ、僕は思わず小さく声を漏らして笑った。髪を一房指に絡め取りくるくると指先に巻きつけると、笑みを含んだ眼でが僕の仕草を見つめていた。
「さ、トム、もう少し眠るといい」
「明日はずっと一緒にいてくれる?」
「君が望むなら」
その言葉は了承の意だということを僕は知っている。
もしかしたらさっきの飲み物の中に眠くなる作用のある薬が入っていたのかもしれない。眼を閉じるとすぐに睡魔に襲われた。僕は、何度かの名を口にしながら、甘い眠りの中に落ちていった。
4.無意識に唱える名
◆記憶に焼きつく5のお題◆ お題配布元:refinery